第二十九話・追撃
〈これまでのあらすじ〉
ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかしその後次々と起こった殺人事件も河野と、共犯者ヒイアカの仕業だった事が判明する。
関係者の嘆きをよそに、河野らは島の東側で更に三人を殺害する。生存者の証言や、河野が祐司に電話で言った言葉、新たな被害者の証言、それぞれに謎が残る中、神官からの霊的な指摘がある。祐司と被害者の娘、アリシアの元にも魔除けの葉が持ち込まれる状況で、「切り裂きジャップ」こと、河野発見の一報が入り、追跡が開始される。
745の「了解」という声を聞きながら、クリストファーは思わず拳を握りしめた。
島内でカーチェイスが起きる事はまずない。ごく稀に起きても、ほとんどが市街地からは離れた場所だ。狭い街中を走り回っても決して逃げられないのは自明だから、ポリス・カーにサイレンを鳴らされた車はおとなしく停車する。
市民は街中で、信号を無視して暴走する車がいるとは、まず考えない。たとえけたたましくサイレンを鳴らして走るポリス・カー、救急車、消防車でも交差点では徐行する事になっているからだ。
「745です。被害者は老人男性。頭部から出血しています。大至急救急車をお願いします」
悲痛な声に、誰かが「了解」と答えた。
ジャスティンが運転する車は、キング・ストリートとカピオラニ・ブルバードの交差点に入っていた。左折すると坂の上に、集結して来たポリス・カーの青い光が瞬いているのが見える。
その明るさが、日没が近い事を示していた。ワイアラエ・アベニューとカパフル・アベニューの交差点からは、短い距離だが一方通行になり、ワイアラエからカパフルには入れないようになっている。しかし、そんな道理が通る相手ではあるまい。
たった今、無慈悲に通行人をはね飛ばしたばかりだ。
交差点の付近は、すでに白地に青のラインの入ったポリス・カーで固められている。走って来る相手をポリス・カーの盾で止めようというのだ。銃を持っている相手でもあり、銃撃戦も予想される。付近の交通は一切遮断されている。
ジャスティンがゆっくりと車を最後尾に付けようとしたとき、再びチョッパーの男が叫んだ。
「犯人の車がそれました。ええっと、道路の名前は……」
途切れた言葉を737の警官が引き取った。
「ドールです。追跡します」
警官の群れが一気に大きく動いた。それぞれが自分の車に飛び乗ろうとする。その動きに先んじて、ジャスティンがギアを変え、素晴らしい速さで車を後退させた。
「おい、後ろ」
シートに背中を打ちつけたクリストファーが辛うじて言うと、「見てます」と苛立たしげな返事が帰ってきた。
二十ヤードばかり車を後退させたジャスティンは、ギアを入れ替え、今度は凄まじい勢いで、左手の細い一方通行の道へ飛び込んだ。
ジャスティンの意図はすぐ分かった。ベレタニア・ストリートから回って、ドール・ストリートに入るつもりだろう。後から続々とポリス・カーが従った。
先回りする勢いでフリーウェイの高架の下をくぐり、ドール・ストリートとの交差点へ向かった。しかし、流星のように青い光を閃かせて737が、こちらに後ろを向けて曲がって行くのが先だった。犯人はドールと交差している、ユニバーシティー・アベニューを山側に向かっていた。
クリストファーの胸に、邪悪な気配はコオラウ山脈のホノルル側からと告げた署長の言葉が浮かんで来た。
彼らは山の中にひそんでいて、またそこに戻って行こうとしているのか。
日暮れまで間がない。
「山に逃げ込まれたら厄介になりますね。住宅街で撃ち合いも避けたいけど」
ジャスティンの方が現実的だ。相変わらず737に追突しそうな勢いで飛ばしながら、歯を食いしばって言う。
犯人の車を先頭に、カーチェイスは今やハワイ大学の脇の坂を上がり、マノア地区に入ろうとしていた。この地区は山脈の懐に入り込む形で住宅街が広がっている。「全くだ」とだけクリストファーは答えた。
おそらく上空のチョッパーが、逐一犯人の通り道をラジオ等にも報告しているに違いない。平日の夕方にしては極端に交通量が少ないが、中には魔風のようなカーチェイスを、魂を抜かれたような顔で見送るドライバーもいた。
通りは山側へ向かうにつれて、片側一車線になっている。犯人の車はクラクションを鳴らし、先行する車がある時には反対車線へ出て追い抜くことを辞さない。
いきおい、後続する737とクリストファー達も、サイレンを聞いて停車したり脇道にそれたりする車を、蹴散らすように追わねばならなかった。
信号もストップ・サインも無視して犯人の車はユニバーシティー・アベニューから、オアフ・アベニューへと突き進み、マノア・ロードに入った。
「イーストマノアに行かなくて良かった」
溜息と共にジャスティンが吐きだす。近くを走るイーストマノア・ロードにはショッピングセンターもあり、子供達が通うアフタースクールの施設もある。
そこに犯人がこのスピードで飛び込んだら、ついさっきワイアラエで起こった悲劇が繰り返されるかもしれなかった。
「人質を取るつもりはないらしいな。山へ逃げ込む気だろう」
クリストファーの意見にジャスティンが口を開きかけた時、前方で接触音が聞こえた。人気の少ない道路に出た事で、737が果敢にBMWの後部に追突しようとしている。
もっともBMWも必死で逃げているから、大した衝撃ではないだろう。クリストファーは無線を取り上げた。
「737、無茶をするな。犯人が撃って来る可能性もある」
返事はなかったが、737は追突を止めた。マノア・ロードは終点に近くなり、広めの直線的な道から、狭い曲がりくねった道になっていた。道端の表示は15マイルのスピード制限。まだ軽く倍以上出ているスピードにタイヤが音を立てる。
「この先は何でしたっけ」
飛び出して来た鶏を避ける為に、ハンドルを左右に切って、自分も体を揺らしながらジャスティンが聞く。対向車があったら確実に天国に行っていた。
この辺りにはよく野良の鶏がいる。鶏のお蔭で737と距離が開いてしまった。
「マノア滝だ」
ずっと昔、パトロールで何度か来た事がある。滝へ至る道は険しいが、岸壁に流れる滝を見に、多くの人間が訪れる。
前方でがしゃんと激突音が聞こえた。
737の警官が思い切った事をしたのかと、クリストファーは冷やりとしたが、数回カーブを曲がった末に見えたのは、BMWの背後に無事な姿で停まっている737だった。
回転灯は点いたまま、ドアが開けっ放しになっている。BMWはその前方の金網のゲートに突っ込んで停まっていた。
マノア滝のある場所は州で管理しており、夜間は犯罪と事故防止のため、ゲートが閉じられる事になっている。大人の背丈より少々高い程度だが、BMWはそのゲートに激突したのだ。
車から飛び出して、目に入ったのはゲートによじ登ろうとしている制服警官だった。
「奴ら、ゲートを越えて逃げたんです。追いかけます」
クリストファーとジャスティンを認めた警官は、ゲートの上から声を張り上げた。制帽の下に見えたのは若いフィリピン系の顔だ。
待て、応援がととのってから、とクリストファーが言葉を返そうとした時、だあんという音と共に、制服警官はゲートから向こう側に転がり落ちた。
撃たれた。
とっさにBMWが盾になる位置へ回り込む。ゲートに突っ込んでひしゃげているフードから静かに顔を上げると、少し先の倒木の前に男が立っているのが見えた。
片手に今、警官を撃った銃を持っている。男は一瞬、こちらへ歩み寄りそうになったが、すぐに身を翻した。
その時、木の下闇で男の目が光った。
間違いない。背筋に冷水をかけられたような感覚。初めて見たが、ヨシキ・コーノに違いなかった。
倒木の向こうは鬱蒼とした枝が垂れ下がっていて、よく見えない。しかし、白と紫の色の何かがちらちらと動いた。かなり高さのある倒木を、彼は獣のように飛び越えた。
「畜生」
一声叫び、ジャスティンがBMWのフードを足掛かりに一気にゲートを乗り越える。クリストファーも続いた。
地面に這いつくばっている制服警官は荒い呼吸をして、呻き声を上げていたが、どうやら撃たれたのは腕らしい。かなり距離があったにしては、あなどれない射撃の腕だ。偶然だと思いたいが。
「あんな野郎の弾にあたるなんて……。大丈夫、大丈夫です」
落ちた時に打ったらしい背中が泥だらけだ。彼の腰にある無線で救急車を呼ばなければと思ったが、その必要はなかった。聞こえていたサイレンが近くなった。
ジャスティンが737から離れてしまったように、少し離れて後を追っていたポリス・カーが到着したのだ。車を降りて近付いて来る彼らの一人に、クリストファーは救急車を手配してくれと大声で頼んだ。
「それと、K‐9が必要だ」
K‐9は警察犬のユニットだ。普段は頻繁に前線に出ることはないが、山狩りになりそうな今は頼りになる。
ふいに、生臭い風が吹いて、笑い声が聞こえた。
おかしくておかしくて仕方がない、という声だ。声は男性の物と女性の物と両方だった。
制服警官を助けて金網に寄りかからせていたジャスティンの背中が痙攣した。
「ふざけやがって」
呟くように言ったかと思うと、もう駆け出していた。
「いかん、ジャスティン」
叫んだが間に合わない。
胸に数分前に見た男の瞳が甦った。確かに光った。ランディ・タナカが言った通りだった。クリストファーはジャスティンの後を追った。
奴らは普通の犯罪者じゃない。一人で行ってはいけない。
ヨシキ・コーノが飛び越えた倒木は、完全に地面の上に倒れてはいず、かなりの空間がその下にある。とても飛び越える事はかなわず、クリストファーはその下をくぐった。
日ごろから鍛えているジャスティンでさえくぐって行ったこの高さを、コーノは軽々と飛び越えた。人間離れした相手には違いない。
生い茂った木のお蔭で辺りはかなり暗い。道なりのカーブを曲がると、先は少し開けていた。
緩い下り坂の終わりには、渓流にかかった橋があり、ジャスティンが渡って行こうとしている。目を転じると、向こう岸の上り坂を一組の男女が駆け上がっていた。
背中を向けているため顔は見えないが、白地に紫の柄のムウムウを着ているのがヒイアカだろう。二人並んでは通れない細い上り坂を、コーノが彼女の手を引くようにして、恐ろしい勢いで走って行く。
クリストファーは、つられるようにして走り出した。
滝までは普通、大人の足で三十分から四十分の道程だ。もちろん舗装はなく、所々滑り止めの金具が埋められてはいるが、それで万全とはいかない。マノアは雨の多い事でも知られている。
走り出してすぐに泥に足を取られ、数回手を突いたりしている内にジャスティンを見失った。その代わり、背後から応援の足音が聞こえた。
険しい道の右手は渓流になっている。滝からの水が流れているのだ。
薄い闇が押し寄せて来つつある中、コーノとヒイアカが低くなっているそこに身を隠したり、あるいは渓流を渡ってコオラウ山中へ逃げ込みはしないかと、クリストファーは注意を払いながら泥と岩の道を辿った。
しばらく行くと、左手はびっしりと生えた竹林になった。細い竹が隙間なく茂っており、人間一人通る隙間もない。コーノ達はどうやってもこちら側には逃げこめまい。
「警部、犯人達はこの先ですか」
足音も高く追いついて来た制服警官が尋ねた。忌々しい事に少しも呼吸が乱れていない。もっと忌々しい事には、彼らの制靴の方がクリストファーの安い革靴よりも滑らないらしい。
「そうだ、ナカノ巡査長が追ってる。犯人が発砲してくる可能性があるぞ、気を付けろ」
苦しい息の下から吐き出すと、制服警官は「分かりました。お先に」と、速度を緩めたクリストファーの脇をすり抜けた。
その背中が遠ざからない内に、前方から小さく悲鳴のような声が聞こえた。
道は曲がりくねっている上、渓流の音が高くて、後ろから続々と来ているはずの応援の物音も途切れがちだ。悲鳴は実際、大声を出したのだろう。心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「ジャスティン」
怒鳴ったクリストファーに返事はなかった。魅入られたように犯人達を追いかけた背中が、目の裏に浮かぶ。
クリストファーは夢中で坂を駆け上った。
右に左に折れるカーブを数回曲がった時に、地面に落ちたビーチサンダルが目に飛び込んだ。蛍光のオレンジ色のせいだろう。大き目の岩のすぐ脇に片方。もう片方はわずかに離れた場所に放り出してあった。その岩に血がついている。
足掛かりになる岩だったから、コーノかヒイアカがここで爪でも剥いだのかもしれない。先程の悲鳴はそれだと思いたかった。
しかし、それならジャスティンから返事がないのは何故だ。
昔、こんな気分になった事がある。娘が自転車に乗っていて、車に引っかけられたと電話が来た時だ。病院の処置室できょとんとした顔の彼女に会うまでは、正に生きた心地がしなかった。
制服警官を押しのけて、クリストファーは走った。
勢いが付きすぎて木にぶつかり、足が滑って膝を突いたりもしたが、痛みはなかった。