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吠える島  作者: 宮本あおば
第一章
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第二十三話・反撃

〈これまでのあらすじ〉

 ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかし河野は被害者の同居人、ヒイアカを共犯として次々と関連のない相手を五人、殺害していた事が判明した。

 祐司が被害者の娘、アリシアと出会う一方で、河野らは島の東側で更に三人を殺害し、市民はパニック状態に陥る。唯一の生存者の証言には謎が残る中、河野から祐司にかかった電話から犯人の足取りを掴もうとする捜査班に、事件発生の連絡が入る。


「犯人はランディ・タナカ宅に侵入。家族の一人に怪我を負わせた所で、ランディ・タナカと格闘になり逃走しました」

 送信係が続けた。

 それ以上の事は分かっていないらしい。911通報をして来た人間が受信係に告げた内容だろう。

 ワイアラエ・アベニューを抜け、東へと伸びるカラニアナオレ・ハイウェイに入ると、他のポリス・カーも数台見えた。目的地は同じだ。

 事件の発生地は、カラニアナオレ・ハイウェイから山側への急な坂をかなり上った場所だった。

 この辺りもカハラやハワイ・カイと並んでかなりの高級住宅地として知られている。瀟洒(しょうしゃ)な家並みが続く中に、その一軒はあった。先に到着していたのはポリス・カーが一台だ。救急車もまだ到着していないらしい。

 付近の住民が数人、路上で顔を寄せ合っている。どの顔も怯えと緊張で引きつっていた。斜面を利用して設計された家は一階がガレージで、玄関は二階にあった。ドアが開いていて、制服警官の後ろ姿がのぞいている。

 ほぼ同時に到着した警官達に、住民から話を聞くように指示し、クリストファーは玄関へと続く階段を駆け上った。

「犯罪捜査課のサトーだ」

 振り向いた若いハワイアンの巡査は、すがりつくような顔をした。応援を待ちかねていたのだろう。

「救急車はまだですか?」

 巡査にクリストファーが答える前に、奥から人が走って来る気配がし、髪を乱したアジア系の中年女性が現れた。緑色のガウンの胸元も裾も真っ赤に染まっているが、彼女の怪我ではなさそうだ。ガウンに付いた色に劣らないほどの真っ赤な目には、明らかに失望の色が浮かんでいた。

 救急車が到着したものだと思ったに違いない。しかし、彼女は何も言わなかった。

「怪我人はどこですか?」

 質問に、女性は今にも泣き出しそうな顔で奥を示した。クリストファーは靴を脱ぎ捨てた。

 事件現場は土足が原則だが、いたずらに被害者の気分を害するような真似は避けたい。

 玄関ホールには右側にさらに上へ続く階段があったが、左側にも階段が三段あって、小さなサンルームがあり、その奥にリビングルームらしい広い部屋があった。

 薄いグレーのカーペットには血とガラスの破片が飛び散っており、中年の男がカウチに両足を上げて座っていた。上半身をクッションで支えて、完全に横にならない姿勢だ。彼の左半身は血ですっかり濡れている。止血用のタオルにも血が染みていた。

「警察の方ですか?」

 しっかりした口調で男が尋ねた時、クリストファーの背後が急に騒がしくなった。先程の女性と、救急隊員が駆け込んで来た。

 カウチの男を見て「この人が怪我人ですね」と聞く隊員に、彼女が「この人は後でも大丈夫です。もっと大変な怪我人がいるんです」と叫んで、奥へと先導して行く。

 確かに無線で連絡を受けた時には、家族の一人に怪我を負わせた後、ランディ・タナカと格闘になったと言っていた。目の前の男がランディだとすれば、怪我人はもう一人いる。

 クリストファーはガラスの破片に気を付けながら、カウチの前に膝を付いた。

「あなたの怪我はどうなんです? ミスター・ランディ・タナカですね」

 苦しそうに息を一つ吐いて、男はええ、と言った。

「大した傷じゃありません。ちょっと弾が掠ったのと、腕に食い付かれましてね。あいつら人間じゃない」

 ちょっとにしては、リビングルームの血は多い。四十代後半に見える男は、日に焼けた精悍そうな顔付きをしているが、今は血の気が引いている。

 格闘になったというのだから、一部は犯人の血かもしれない。

「今、話せますか?」

 短く聞いたクリストファーの背後を、救急隊員達がストレッチャーを担いで通り抜けた。カウチやコーヒーテーブルにぶつからないようにと、高い位置で移動して行くストレッチャーの上で、血で汚れ、目をきつく瞑った老婦人の顔が揺れていた。

「リサ、もう大丈夫よ」声をかけながら、ガウンの女性が付き従う。

 一番最後から出て来たのは少年だった。小学校の高学年くらいの年齢だろう。日系にしては大きめの瞳は、母親譲りと見える。

「母さんが、父さんについていなさいって。お巡りさん? 父さんの分の救急車は来てるんですか」

 声変わり前の高めの声で、しかし冷静に彼は聞いた。

「ジョン、お前ちょっと行って見て来てくれよ。父さん、その間にお巡りさんと話さなきゃいけないからさ」

「あんまり喋るともっと血が出ちまうよ」

 言いながらも少年は駆け出した。ランディ・タナカは、また一つ息を吐いた。

「簡単にお話させて下さい」


 熟睡中だったランディを起こしたのは妻のヘレンだった。階下で妙な物音がすると彼女は訴えた。

 彼らのベッドルームと息子の部屋は、リビングルームの一階上にある。リビングルームの隣には、ランディの母、リサのベッドルームがあった。

 リサは時々寝付きが悪いと、夜中にハーブティーを淹れる事がある。その音ではないかと思ったが、彼女の具合が悪くなっているとも考えられた。

 階段の踊り場まで下りて、ランディは異様な臭いを嗅いだ。

 大勢の人の気配とともに、低いが声もする。玄関ホールまで降りると、ランディはゴルフのクラブをつかんで、リビングルームへ飛び込んだ。

 気配や声とは裏腹に、リビングルームで動いた人影は一つだけだった。ランディに振り向いた顔の、その瞳が暗闇で獣のように光った。

「寝惚けてたわけじゃありません。本当に光りましたよ」

 痛みに顔をしかめつつ、ランディ・タナカは強調した。

 その光に度肝を抜かれたのは一瞬で、彼は果敢にクラブを振り上げた。手応えは、相手の悲鳴と共に返って来たが、同時に大きな音がして左肩に衝撃が走った。

 もう一人いたのだ。左側から襲って来た相手は、そのままランディの左肩に噛み付いた。

 すでに出血している傷口から血を吸われる感覚に気が遠くなりかけたが、おぞましさがランディを助けた。一旦取り落としたクラブに右手が届いたのも幸いだった。

 クラブに手を伸ばそうとして暴れた折に、肩に噛み付いた相手は腕に移動していたが、勇気を奮い起こして彼はクラブを振るい、あらん限りの声を張り上げた。

「それで、奴らは逃げて行きました。あいつら物凄く臭いんです。風呂に入ってない臭さじゃない。動物臭いんですよ」

 隊員に助けられながら救急車に移動する途中と、その救急車が発車する直前までの間に、それだけの事をランディ・タナカは語った。

 興奮していて襲撃者の体格や性別は判断出来なかったし、犯人同士の間で交わされた言葉を聞き取る事も出来なかったと付け加えた。

 二台の救急車が走り去った後には、近所の人間が増えていた。騒ぎで起こされたという迷惑顔も見える。

「きっとあいつだよ、切り裂きジャップ」という囁き声が聞こえて、クリストファーは小さい溜息を吐いた。じきに鑑識班が到着するだろう。今回はボディ・バッグに収容する遺体がない事が、せめてもの救いだ。

「大体、目撃者の証言は取れました」

 ジャスティンが手帳を開いたまま近付いて来た。

「一人目は隣のミスター・シャノン・シモンズ。彼はほら、あの家の住人です」

 指差したのはタナカ家のすぐ隣だ。タナカ家の方が坂の上になる。

「ミスター・シモンズは、銃声らしい音を聞いて起きたと言ってます。ランディの叫び声も聞こえたので、何事かと窓からのぞいた所、タナカ家の前に停まった車に人が乗り込み、大変な勢いで走り去って行くのが見えたということです」

「乗り込んだ人間の人相は?」

「運転手はすでに運転席にいて、見えなかったそうです。助手席に入ったのは、長髪の人間。すみません、ミスター・シモンズは視力があまり良くないそうです。見たところ、七十代ですから。車種ですが、多分ビュイックだと言っています。色はおそらく黒か紺」

 予断は禁物だが、もしも犯人がヨシキ・コーノらだとしたら、ランディ・タナカがゴルフ・クラブで殴ったのはヒイアカだ。

 ユージ・キタモトに電話をした時、ヨシキ・コーノは「運転はいつもヒイアカがする」と話している。運転が出来ないほどのダメージは与えたわけだ。

「分かった。他には?」

「五軒ほど下の家のティーン・エイジャーが起きていました。ほら、風下だから銃声も聞こえたんですね。彼は、銃声がしてすぐに家を飛び出したそうです。自宅の玄関前で、走り去るビュイックを見ています。色は紺だと断言しました。最新の型ではないようです。運転手はアジア系の男性。助手席には気が付かなかったと言っています」

 肩を動かしてジャスティンは背後を示した。好奇心を剥き出しにしたハーフらしい少年が、こちらを窺っている。

 クリストファーが手招きをすると、飛び跳ねるようにやって来た。その背後に白人の中年男性が太った腹を揺すりながら続いた。父親だろう。

 少年が口を開く前に、男が挨拶をした。

「私はダミアン・オドネルです。これは息子のテリー。息子が事件の犯人を目撃したそうですが」

 着古したTシャツにショートパンツという出で立ちの父親は、何かそわそわしている。

「ええ、犯人と思われる車を目撃したようなので、二、三質問をしたいのですが、よろしいですか」

 少年はひゅーっと口笛を吹いた。

「あれ、犯人に間違いないよ。切り裂きジャップでしょう。うわ、凄いもの見ちゃったなぁ」

 肩を揺すった少年を、父親が一喝した。

「黙りなさい、お前はとんだバカモノだ。救急車を見ただろうが。怪我人が出ているというのに、何て言い草だ。ジョンに向かって同じことが言えるか」

 ミセス・オドネルは日系らしい。クリストファーが理解する数少ない日本語の一つ、「バカモノ」を父親が口にしたからだ。しゅんとした少年に、父親はさらに、夜中に口笛を吹くと母さんが嫌がるぞと小言を続け、ジャスティンが間に入った。

 ごめんなさい、と小さくなる少年にクリストファーは質問した。

 銃声を聞いたのは何時だったか。それからすぐに外に出たのか、等だ。

「それで、君が見た車はビュイックだそうだが、最新型ではないと分ったのはどうしてだい。見るからに古ぼけていた?」

「うちのお祖父ちゃんが最新型に乗ってるから、そうでないのはすぐに分かりました。すごくボロボロでもなかったけど、新しいデザインじゃないし」

 一々頷きながら、クリストファーはメモを取った。テリーが見たという運転手については、あえて聞かなかった。

 テリーは、犯人が「切り裂きジャップ」こと、ヨシキ・コーノだと思い込んでいる。通り過ぎる一瞬で見えた男の顔など、聞いても仕方がない。車種については知識があったが、テリーは車のフロントに衝突した跡があったかどうかも、ナンバーも見ていなかった。

 これがヨシキ・コーノとヒイアカの犯行であるとすれば、指紋を調べれば分かる。プナルウでのジェフリー・キム殺害の際に乗っていたのも、ビュイックだったとも考えられる。

 盗難届けを調べるべきかもしれない。古い型の車にはアラームがついていない事が多く、それだけに盗まれ易い。ただ盗まれただけならましだが、実は誰にも知られない場所に、ビュイックの持ち主が殺されているといった事態を考えて、クリストファーは鼻に皺を寄せた。

「お巡りさん、ミスター・タナカは大丈夫? リサお婆ちゃんも」

 ほんの一瞬、別の事を考えたクリストファーは、テリーの質問で我に返った。

「リサお婆ちゃんには会わなかったんだ。でも、ミスター・タナカは大丈夫だよ。ちょっと怪我したけど、犯人を追い払ったんだしね」

「良かった、ミスター・タナカは強いんだ」ほっとした顔をした少年は、また心配顔に戻って懇願した。

「お巡りさん、さっき僕が言ったこと、ジョンに言わないでくれますか。僕、いっつも考えなしなんだ」

 クリストファーが約束し、協力を感謝すると、少年は父親に肩を抱かれて遠ざかって行った。

 テリー・オドネルに話を聞いている間に、鑑識班が到着して作業を始めていた。クリストファーはタナカ家に戻った。

 許容量を遥かに越えた仕事を押しつけられて、彼らは一様に疲弊し切っていたが、遺体がないだけに前回の現場ほど表情はひどくなかった。

 格闘の場所となったリビングルームを横切り、クリストファーは奥のベッドルームをのぞいた。ベッドが血でぐっしょりと濡れているのが嫌でも目に付く。ベッドの向こうにはガラス戸が開け放たれていた。

 この家のつくりは、玄関側からだとリビングルームの階が二階に当たるが、斜面を利用してあるために、ここから外に出る事も可能だ。試しに窓から顔を出すと、細い通路になっており、どこかへつながっているらしかった。

 犯人の侵入場所はここに違いない。ガラスは割られても、切られてもいない。リサは窓を開けたまま就寝したらしい。そして眠っている間に襲われたのだろう。

「カローシって言葉、知ってっか?」

 窓枠の指紋を取りながら、鑑識員が尋ねた。クリストファーは首を振る。

「甥っ子が大学で何だか勉強してんだよ。日本語だってよ。働き過ぎで死ぬこったと。どっこの馬鹿が死ぬまで働くもんかと思ってたけど、俺らがそうじゃねぇか、な? これで死んだら、殉職扱いにしてもらえんのかねぇ」

 言葉は悪いが、からんでいる訳でも皮肉を言っている訳でもない。クリストファーは苦笑した。

「そんな口叩いている内は死にゃしねぇって」


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