第二話・捜査
〈これまでのあらすじ〉
ホノルル市内で観光の中心地、ワイキキの外れにある、ホテルキングダムで働く北本祐司を訪ねて、日本から来た河野由樹が訪れていたが、由樹の妻広美が、ホテルの部屋で惨殺死体で発見された。河野の姿は見当たらず、動転しながら広美の確認をする祐司は、警察の聴取を受けることになった。
「あなたとは、これから連絡を取らなければならなくなると思います」
そう言って、サトー氏が祐司に手渡した名刺には、ホノルル警察のマークに添えて「キャプテン」と彼の肩書きが書いてあった。
キャプテンが日本語で何に相当するかは、よく分からない。確か陸軍では大尉程度だったと思う。とすると警部か何かだろうか。
部屋にはもう一人、祐司と同じ年頃の男がいた。こちらもアジア系だ。部屋の主であるミスター・ジェイキンスの姿は見えない。
「こちらはディテクティブ・ナカノ」
苗字からすると日系コンビだ。手を差し出すのも気が引けて、祐司はただ頷いてみせた。
つられたよう頷き返した彼は、地味なアロハシャツを着ている。身長も祐司と同じ位だが、体付きはもっとに逞しい。スポーツ刈りの頭に、切れ長の涼しい眼をしていた。ディテクティブというのは、巡査長程度の位置だろうか。
サトー警部に言われるままに、祐司は応接セットのソファーに腰を下ろした。総支配人室は海に面しているが、高い階ではないし、思ったよりも狭いと祐司はつまらない事を考えた。
テーブルを挟んで向かいの椅子にサトー警部が座り、ナカノ巡査長も隣の一人がけに腰を下ろす。
「あなたのプライバシーは必ず守ります。ですから質問には出来る限り詳しく答えて下さい。通訳は要らないでしょう? 質問や、分からないことがあったら何でも聞いて下さい。これは尋問ではなく、任意の事情聴取ですから、そのつもりで」
硬い口調で前置きし、サトー警部は手帳を開いた。
「あなたはミスター・コーノの友人なんですね。ご夫婦の仲はどうでした?」
ええと、と言いかけてから、祐司は聞き返した。
「どうしてそんなことを聞くんです。まさか、彼女をあんな風にしたのが彼だとでも?」
サトー警部は視線を宙にやって、考える風をしたが、すぐに口を開いた。
「いずれ分かる事ですからね。今回の第一発見者はメイドです。部屋には『起こさないで下さい』の札が掛かっていなかった。現段階では、外部から進入した形跡はないし、争った跡も見受けられない……。
被害者が抵抗した跡も見受けられません。見知らぬ人間が室内に入って来ているのに、のんびりと寝ている人はいませんね。もっとも、彼女が薬物によって眠らされていたかどうかはこれから調べますが。
室内には犯人のものと判断される指紋が、多く残っています。これがミスター・コーノのものとは限りませんね? それもこれから調べます。今、移民局から彼の指紋を取り寄せるよう手配中です」
入国の際に採集する指紋の事だろう。
流れるような説明に、祐司は頷くより外に反応の見せようがなかったけれど、指紋なんか一致するわけないという強い反発が、胃の底に冷たく固まってくるのを感じた。
続いて警部が口を開きかけた時、ノックの音がした。「失礼」と言いながら、警部が人差し指を立てて見せて腰を上げる。ちょっと待ってくれという合図だ。ノックをした人物が部屋に入ってくる気配はなく、警部とドアの所で話をし始めた。
所在なさに視線をさまよわせると、ナカノ巡査長と目が合った。くっきりした上がり気味の眉が微かに動く。鼻筋も通っていてハンサムなのだが、今は硬い印象しか受けなかった。
「お気の毒です」
すぐに彼はそう言ったが、その後に続く言葉はなかった。祐司も何と返してよいものか分からない。黙ったまま軽く頭を下げた。
「いや、失礼しました。少し判った事がありましたので」
そう言って警部が戻って来るまで、長い時間はかからなかった。
「非常階段へのドアと階段の壁、手摺りに血痕が付いていたことが分かりました。このホテルの非常階段は一番下まで降りると、フロントに見られずに外へ出ることが出来るんですね」
咽喉の奥から苦い物がこみ上げたような気がした。
「彼が、ヨシキが、彼女を殺して逃げたと言うんですか」
祐司に負けない程、渋い顔をして警部は答えた。
「その可能性があり得ると言っているんです。念のためですが、彼の血液型をご存知ですか。日本人は皆、自分の血液型を知ってますね」
アメリカ人の大半は、自分の血液型を知らない。いつかルームメイトのケビンに、事故にあったらどうするのだと尋ねたら、「そんなの、その時に調べればいいんだよ」と笑っていた。
祐司は懸命に記憶を辿った。昔、高校時代に何人かの友人達と、性格と血液型の話をした。
「AB型だと、思います」
広美さんの血液型は知らないと付け足そうとして、止めた。それこそ調べれば分かる事だ。もう分かっているかもしれない。忌々しい事に、彼女の血液は豊富にあるのだ。
「そうですか。ところで、あなたと彼は長い友達なんですか」
「ええ、高校のクラスが一緒で。でも、大学は違いましたし、ハワイに来てからは、Eメールをやり取りする位で。二年前の、彼の結婚式にも出席していません」
自分がハワイに来る際に彼がどう関わったか、なぜ彼の結婚式に出席しなかったかについて話すつもりはなかった。祐司の言葉だけを受け取れば、それほど親しい間とは聞こえないかもしれない。
「彼らがハワイに来たのは、初めてですか?」
「いえ、ヨシキは四年ほど前までは、何度も来ています。彼の妻は、確か数年前に一度。彼と出会う前だと聞きました」
唇の下にボールペンを押し当て、警部は声の調子を変えた。
「ほう、どうして来なくなったのかな。彼にはあなた以外にもこちらに友達がいますか」
「仕事が忙しくなったからでしょう。その頃、昇進したと思います。私以外の友人がハワイにいるという話は聞いた事がありません」
嘘ではない。
警部は納得したようだった。続いて祐司は、河野がハワイに到着してからの行動を聞かれた。
到着したのは二日前、火曜日の朝だった。
本来ならホテルのチェックインは午後三時だが、割増料金を払ってアーリー・チェックインを申し込んだとかで、河野夫妻は空港から真っ直ぐホテルへやって来た。
祐司はその日もモーニング・シフトだったため、玄関で二人を出迎えた。
空港で借りたリンカーンのタウン・カーから降り立った二人は、正にサクセスフル・ビジネスマンとその妻という風だった。車種の選択が河野らしくないとは思ったものの、広美さんの好みだろうと気にも留めなかった。
その日はホテルで休憩した後、買い物に出かけ、夕方になって仕事を終えた祐司と一緒に食事をした。キングダムの一階レストラン「アリイ」は、広美さんのガイドブックには載っていなかったらしく、三人はワイキキ中心部にあるホテルの最上階レストランへ足を運んだ。
あれが広美さんとは、最初で最後の食事になってしまった。
翌日、二人は朝早くから出かけた。祐司は夕方から深夜までのシフトだったので、外出した時間は知らないが、夕方六時を過ぎて帰って来たのは知っている。
疲れた顔をした広美さんが、「約束だったからしょうがないけど、山登りさせられちゃったんですよ」と少し不機嫌そうに言っていた。ハイキングへ行ったらしい。
そうだ、あの時、河野は少し興奮した様子で何か言いかけた。
「今日さ、俺、変なもの見つけたんだよ」
変なものって何だ、と聞き返す前に広美さんが河野を急かした。
それが祐司が河野を見た最後だ。外出したのを見ていないから、おそらく夕食はホテル内で摂ったのだろう。今朝は、何となくまだ寝ているのだろうと思っていた。
とぎれがちに話す祐司に、質問を挿みながらも警部はおおむね黙ってメモを取った。
「では、最後にコーノ夫妻を見たのは、昨日の夕方なんですね」
確認の質問に祐司が頷くと、警部は口の中で何か呟いて、更に質問を重ねた。
「気を悪くしないで答えてもらいたいんですが、昨晩、仕事を終えてから今朝まで、あなたはどこで何をしていましたか」
自分が疑われているのかと、驚いて顔を上げた祐司に、警部は作り笑いを浮かべて見せた。
「ああ、心配しないで。誰にでも尋ねる質問なんですよ」
昨夜はシフトが終わってすぐに帰った。翌朝、つまり今朝がモーニング・シフトだったから、早く帰って寝ようと思っていたのだ。十二時頃家へ帰って、一時半位にはベッドに入った。
ルームメイトのケビンは、祐司が帰った時にはもう寝ているようだった。つまり祐司の行動を証明出来る人間はいない、と説明した際に付け加えた。
「分かりました。質問は以上です。あなたの家と携帯電話の番号を教えてください」
最後に祐司の番号を書き留めると、警部は手帳を閉じた。
「万が一にもミスター・コーノから連絡があったら、直ちに電話して下さい」
そういう可能性もあるのだと気が付いた途端、急に自分の携帯電話をチェックしたくなった。
到着の日、レンタルした携帯電話に河野は、祐司の自宅と携帯の番号を登録していたではないか。そういえば、あの携帯電話はどうしただろう。その事を告げたものかと警部の顔を見ると、察したように首を振った。
「彼らが借りたと思われる携帯電話は、部屋にありました。ですから、万が一です」
祐司は一礼して立ち上がった。
今日はもういい、というミスター・ジェイキンスの言葉に甘えて、祐司はホテルを後にした。
「遺族がやって来た際には、君に頼む事も多いだろうから」と言う総支配人の遥か後ろから、ジュニアがこっちを心配そうに見ているのは分かった。しかし祐司は何も言わずに従業員控え室へ向かい、大急ぎで着替えてホテルを出た。
ロッカーを開けた時に、携帯電話を確認したが、メッセージが入っている表示はなかった。