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吠える島  作者: 宮本あおば
第一章
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第十六話・ビーチハウス

〈これまでのあらすじ〉

 ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかし直後に起きた別件から、河野は生きていて殺人を繰り返している事が判明し、河野の共犯者で別件の被害者の同居人、ヒイアカと共に手配する。彼らは次々と関連のない相手を五人、いずれも凄惨な方法で殺害していた。

 祐司が被害者の娘、アリシアと出会って自分の過去を語り、彼女の悲しみを知る一方で、ホノルル警察の殺人捜査課に、島の東側から遺体発見の為の出動が掛かる。


 午前十時過ぎ、再び異常な911通報が飛び込んで来た。

 今朝がた事件があった、プナルウから南へ下ったカイルアで殺人事件が起こった。

 通報者は歯の根も合わないほどに取り乱し、熟練の受信係でも状況を把握するのに時間がかかるほどだったが、名前と現場の住所だけはきちんと聞き出した。

 クリストファーを中心に、休む暇のない捜査課員達は、今度はカイルアへ直結するパリ・ハイウェイを通って、再び島の東側へ駆けつける羽目になった。

「どう思います? これも奴らの仕業でしょうかね」

 パリ・ハイウェイは急なカーブが多い。右に左にと巧みにハンドルを操りながら、ジャスティンが尋ねた。

「現場を見るまでは何とも言えんな。そうでない事を祈りたいがね」

 疲労を覚えて目を閉じたクリストファーは、自分が追いかけているものが、人間ではない何か別の怪物であるかのような気分になった。

 怪物であるには違いない。でなければあれほど残忍に人を殺す訳がない。しかも手当たり次第だ。

 それでいて逃げ果せているのは何故だ。HPDが今、相手にしようとしているのは、異次元から来た化け物なのではないか。

「複雑な事件でなければいいですけど」

 ジャスティンの声に、クリストファーは慌てて目を開けた。

 自分はひどく弱気になっている。これではいけない。

 たとえ少々不謹慎な言動があっても、弱腰になってはいけないと、昔、先輩警官から言われた事がある。

 立ち向かう相手に萎縮していて、警察官は務まらない。

「明らかに奴らの犯行でないとわかったら、その時点でレイに任せればいいさ」

 トレジャーアイランドの事件が、キングダム、カリヒと同一の犯人と判明してからは、レイモンドの班はもっぱらクリストファーの班の応援に回っている。彼と相棒のライアンは、別の車で現場に向かっているはずだった。

「それでうちの班は皆で何か食おう。カイルアには美味い店も多い」

 わざと明るく言ったクリストファーに、ジャスティンも「いいですね」と調子を合わせる。

 車はパリ・ハイウェイを抜けて、カイルアの町に入りつつあった。


 現場はカイルア・ベイに面したビーチハウス、貸し別荘の一軒だった。この辺りには何軒もビーチハウスが建っていて、高額で貸し出されている。

 一軒々々が離れて建てられている贅沢な作りも高額になる理由の一つだが、こうして事件などが起こると、物音を聞いたという証言を取るのが厄介だ。

 事件が起こったその家は、一階がガレージと物置になっており、居住部分は二階になっていた。

 クリストファーとほぼ同時に到着した鑑識課が、心底うんざりした顔で車から機材を降ろしている。

 第一発見者らしい白人の男が、二階の玄関つな繋がる階段の下で、真っ先にやって来たらしい第四地区の警官と話していた。

 クリーム色に塗られて、まだ日も浅そうなビーチハウスの壁に染みのように見えるのは血痕かと目を凝らした時、家の裏手からニックが小走りにやって来た。

 後ろにネビルが従っている。先に到着して周囲を見ていたらしい。

「や、今来たばっかしだ。最初に現場に入るのは、あんたと一緒の方がいいからよ」

 頷いてクリストファーは手袋をはめた。ブランドンとジェイミーも、ジャスティンの後ろに緊張した顔を見せている。

「じゃあ、行くか」

 近付いて見ると、壁の染みは血痕ではなかったが、上り出した木製の階段には明らかに血の跡が付着している。それらを踏み付けないようにするのは骨が折れた。

 玄関の扉はやはり木製で、金属の取っ手を掴んで開けると、血の臭いがどっと流れ出した。

 リビングルームの床は、黒々とした血に染まっていた。

 カーペットに染みた血を避けて、クリストファーは室内に足を踏み入れた。玄関から入ってすぐの所に、うつ伏せに倒れているのは男性だろう。背中が切り裂かれて背骨と肋骨が覗いている。太腿と臀部にも切りつけた痕がある。

 テレビセットの前に仰向けに倒れているのは女性のようだ。

 彼女が着ている物がブラウスなのかTシャツなのかも判断出来ない。分かるのは胸部と腹部がひどく傷付けられている事だ。ただ刺しただけでは、ああはなるまい。

 ホテル・トレジャーアイランドで殺されていた、日本人夫妻が脳裏に浮かんだ。奴らの仕業に間違いない。

 ふいに、何かの気配がした。

 リビングルームの海に面した方角には大きなガラス戸が入っており、その向こうがラナイと呼ばれるベランダだ。反対側にはダイニングスペースが繋がって、カウンターで仕切られたキッチンが見える。

 キッチンの脇には奥へ続く廊下がある。おそらくベッドルームがあるのだろう。

 気配はその奥から来ていた。クリストファーは反射的にシャツをまくり上げ、ズボンの内側にさし込んである銃を引き出した。

 半袖シャツ、あるいはアロハシャツとスラックスといった私服で行動する捜査課員は、いずれも腰の後ろか足首に特製のホルダーをつけて銃を持ち歩いている。

 後ろに続いていた数人も、銃を構える気配がした。

「クリストファー」

 低い声で名前を呼びながら、ジャスティンが袖を引っ張る。

 撃ち合いになる可能性のある場所へ真っ先に入るのは指揮官であってはならない、というのは軍や警察関係の鉄則だけれども性分だから仕方がない。クリストファーは柔らかくジャスティンの手を払った。

 ゆっくりと廊下へ向かう。「誰かいるか」と声を上げる。

 返事はないが、何かを引っ掻くような音がした。

 第一発見者も、駆け付けた第四地区の警官も、家の奥まで足を踏み入れてはいない。とすれば、犯人がまだ潜んでいる可能性もあった。

 怪物ではない。残忍で獰猛だろうが人間だ。銃を持っていても射撃の腕なら自分の方が上だ。クリストファーは自分に言い聞かせた。

 板張りの廊下には、血の跡が奥へと続いている。

 ドアが二つあって、右手前の一つは大きく開いている。突き当たりのもう一つは、閉まっていない程度だ。

 背後から何人かがリビングルームへ入って来る物音がした。鑑識課が入って来たのだろうが、振り返っている余裕がない。

 ジャスティンが何かを言い、彼らが動揺する様子だけ辛うじて伝わった。

 クリストファーはじりじりと廊下を進んだ。人がやっとすれ違える程の広さしかない廊下だ。

「クリス、無理すんなよ。ラナイからバックアップすっからな」

 ニックが後ろから小さい声で呼びかけて来た。彼も緊張しているのが、声の調子で分かる。言うだけ言って、ベランダに出たようだった。

 生憎と、この家のベランダがどういう作りになっているのか確認していない。突き当りの部屋にまで続いているといいのだが。

 手前の部屋は小さめのベッドルームだった。

 薄いオレンジ色のカーペットに血の跡はない。宿泊していた被害者も使用していなかったのだろうか。クイーンサイズのベッドには、ハワイアン・キルトのベッドカバーがかかったままだ。

 顔だけ出して、慎重にクリストファーは室内を見回した。カーテンは閉じられ、部屋専用のバスルームのドアも開け放してある。ここではない。

 突き当たりのドアは、向かって左側が蝶番になっている。右側がドアノブだ。今、誰かがドアを開けて銃を撃てば、廊下の右側に体を寄せているクリストファーに中る確率は高い。

 クリストファーは廊下の左側に体を寄せた。

「誰かいるか? いるなら出て来なさい。両手は頭の後ろに組んで。こちらは警察だ」

 答えはなかった。

 しかし、人の声とも思えないような音が聞こえる。誰かがいるのは確かだ。

 奴らはワイキキで、ドラッグディーラーと思われる男を殺害している。その際に彼が持っていたドラッグを奪った可能性もあるし、そのドラッグで訳が分からなくなっている事は充分ありえた。

 ついにクリストファーは、廊下の突き当たりに辿りついた。

 ドアノブの周辺と、廊下の壁に血痕がありありと見られる。既に銃を発射したい衝動に駆られながら、クリストファーはドアの向こうの気配をうかがった。すぐ近くには、いない。

 背後にぴったりとジャスティンがついて来ていた。

「クリス、聞こえっか? 誰もいねぇぞ」

 外からニックが叫ぶ声が聞こえた。ベランダはこの部屋の外まで続いていたらしい。声の通り具合からすると、窓が開いているようだ。

「クロゼットとバスルームがあっから、絶対じゃねぇけど」

 ニックが言い添えたのを聞いて、クリストファーはドアを素早く開け、体を部屋の中に滑り込ませた。広めのマスター・ベッドルームには、あちこちに血の跡が見える。

 返り血を浴びた犯人が、ここへ入って来たのは間違いない。カーテンが開いたままで、光に溢れているのが、却って痛々しい。

 ガラス戸を開けて、ニックとネビルが入って来る。その後ろに他の捜査課員の姿も見えた。

 細い声が聞こえた。バスルームだ。

 ネビルにクロゼットをチェックするよう顎で合図して、クリストファーはバスルームの扉の脇に寄った。

「そこにいるのは誰だ? 両手を挙げて出て来なさい」

 引き裂くような悲鳴が上がった。小さい子供のような声だ。

 被害者の子供か。まさか犯人が人質を。

「マミィ、マミィいる?」

 か細い声だが、誰かがその声を妨害している気配はない。子供が一人、ここへ逃げ込んで難を逃れたのに違いなかった。その場の空気が一気に和んだ。

「おじさんは警察官だよ。もう大丈夫、出ておいで」

 声色を変えたにも関わらず、恐ろしい悲鳴が聞こえた。

 一人ではないのかと、再び緊張が走る。クリストファーはニックを振り向いた。

「ラナイからバスルームは覗けないか?」

 残念ながらベランダは、バスルームまでは届いていなかった。

 しかし、手摺に乗って壁につかまりつつ体を伸ばせば、換気用の小窓から覗けそうだ。物置から命綱用のロープを持って来るのに、十分ほど要した。

 自分でやるつもりだったが、ジャスティンもニックもクリストファーを止め、結局背の高いジャスティンが、右手に銃を持ったままヤモリのように壁に張り付いた。

「子供だけです」

 第一声はそれだった。

「シンクの下の物入れは、成人が隠れられる大きさではありません。子供はバスタブに入ってます。ちょっと汚れていますから、怪我をしているかもしれません」

 救急車と共に、小児科のドクターも要請した。


 子供を外に出す際に、どうしても殺戮のあったリビングルームを通らなければならない。遺体はそれまでに搬出するとしても、血の跡だけでもショックは大きいだろう。鎮静剤を打ち、毛布に包んで運んではどうかと提案したのは、遅れて到着したレイモンドだ。

 外からどんなに呼びかけても、子供は頑としてドアを開けなかった。

 悲鳴を上げるか、母親を呼んだ。その度に警官達の間に溜息が漏れる。子供が呼んでいる母親は、もういないのだ。

 救急車と共に到着した小児科医は、白人の女性だった。子供の母親よりは年がいっているだろうが、この際同じ人種というだけで充分だ。

 救急チームが子供をバスルームから出している間に、クリストファーは外に出てやっと第一発見者から話を聞いた。

 初老の白人の男は、この貸し別荘のオーナーで近所に住んでおり、今朝、別荘の周囲の掃除に来て凶行を発見した。ガレージに被害者の借りていたレンタカーがあったのは、不審に思わなかったが、コンクリートの床に染みが見え、次いで階段の手摺及びステップの血を見て腰を抜かした。

 被害者はボストンからやって来たルーク・リーヴェスと妻、デイナと分った。子供は女の子でレスリーという名らしかった。

 詳しい情報は、所持品などから割り出せるだろう。オーナーが、常に借り手に非常時の連絡先を尋ねる事にしていたのは不幸中の幸いだった。早速、自宅にあるそれを取りに行ってもらうようにした頃、救急チームがレスリーを救急車に収容した。

 車が走り去る前にと、慌てて駆け寄ったクリストファーに医者はやり切れない表情で首を振った。

「キャプテン・サトー? ルーテナント・マセズにもお話しましたが、彼女はとても事情を聞ける状態じゃありません。まだ、四歳か五歳だと思います。とにかく錯乱していて」

「怪我は? 窓から覗いた警官は怪我をしているようだと報告しましたが」

「怪我はありません。糞尿と吐瀉物でそう見えたんでしょう。自分で髪を抜いたり、指を噛んだりした外は、大した外傷はありません」

 犯人から逃げのびてくれた事は大きな喜びだったが、救出される前に彼女が味わった恐怖と、これから対峙(たいじ)する悲しみを思うと、胸に暗い塊が出来る。

 気の強そうな女医も、何度か目を瞬かせた。

「私たちは彼女のために、最善を尽くします。あなたもそうして下さい」

 そう言って、救急車に向かって行ったが、去り際に彼女が収容される病院の名前は忘れずに言い置いた。ホノルルのダウンタウンにある総合病院は、幸い本署の近くだ。

 頭上からヘリコプターの音が聞こえる。テレビ局のチョッパーに違いない。

 これで殺害された人間は九人。レスリー・リーヴェスを含む、事件全体の被害者の数は知れない。

 夫婦が一緒に殺されたと知らされて飛んで来た日本人の家族、父親の死を認められずに放心し、やがて泣き叫んだ若い娘、そして「マミィいる?」と必死に叫んだレスリーの声が、頭の中で渦を巻いた。

 弱気になってはいけない。チョッパーを見上げる事なく目を転じると、忌々しい程に海が青かった。


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