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吠える島  作者: 宮本あおば
第一章
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第十四話・傷跡

〈これまでのあらすじ〉

 ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかし直後に起きた別件から、河野は生きていて殺人を繰り返している事が判明し、河野の共犯者で別件の被害者の同居人、ヒイアカと共に手配する。

 彼らはカリヒ地区で二人、ワイキキの西で二人を殺し、さらにワイキキでも一人、いずれも凄惨な方法で殺害していた。被害者の娘、アリシアの要求で祐司は自死に臨み、止められた後に自分と河野の過去を語る。


 溜息まじりで祐司は話し終えた。

 発音や単語が不適当だったために挟んだ数回の質問の外は、彼女は黙って話を聞いてくれた。

「あんたの話だと、いい人じゃない? ああ」

 何かを思いついたように、首を傾ける。

「彼、ドラッグやってるんじゃないの? ワイキキの路地裏で殺された人、ドラッグディーラーだったって話よ」

「到着した翌日に、もうドラッグを買ったって言うのかい? あいつは何年もハワイに来てなかったんだ。そんなに簡単に買えるもんじゃないだろう」

「買い方なんて知らないわ。ただ、あたしはドラッグが人をどう変えるか知ってるだけ」

 表情が微かに歪んだ。経験があるのだろうか。

 祐司の考えを読んだように、彼女が唇を歪めて見せた。

「あたしじゃないわ。あのね、あたしのお尻にね、火傷の跡があるの。それは母が付けたの」

「お母さんが?」

 オウム返しに尋ねると彼女は真面目に頷いた。

「赤ちゃんの頃よ。母はドラッグにはまっちゃって、もう本当に酷くなっちゃったの。判断力が無くなるらしいのね。彼女、あたしをキッチンの電熱器に座らせたんですって。

 皮肉にも、その時一緒にドラッグやってたボーイフレンドが、命の恩人てわけよ。彼は母ほどには飛んでなかったのね。もっともそいつがいなけりゃ、母は父さんと離婚しなかったかもしれないし、ドラッグにもはまらなかったかもしれないの」

「それは、気の毒な……」

「平気よ。覚えてないし、痛くもないもん。ただ、そのことを泣いて謝ってくれる父さんが、もういないってだけ」

 再び、黒い瞳を濡らして彼女は続けた。

「いい人が悪魔になっちゃうのなんて、簡単なのね。母もいい人だったって、父さん言ってた。あんたの友達は何を間違ったのか知らないけど、あたしは赦せない。どうしたって赦せない」

「うん、赦してくれなくていいよ。でも、俺にとってはまだ友達だから、出来ることがあるなら、しなくちゃ」

 流れる涙を拭く事もせずに、彼女は祐司を見詰めた。燃える炎でもなく静かな湖でもない、ただ無防備な黒い瞳だ。この瞳の持ち主を電熱器に座らせるなんて、それはやはり悪魔の所業だろう。

「嘘じゃないよね。祐司、本当に死のうとしてたもの。今でも、あたしが死ねって言ったら死ねる」

「ああ、いいよ」

「じゃあ、あたしがいいって言うまで、死んだり、人を殺したりしないで」

「約束するよ。ええと……」

「アリシアよ。あたしの名前も忘れないで」

 誰かが自分から何かを欲しがっている。こんな感覚は何年振りだろう。

 アリシアも祐司も今、立っている場所はひどい所だが、彼女が少しでも楽になれるのなら何でもしてやろう。河野を殺す以外なら。

 祐司はアリシアの手を握って、約束、ともう一度言った。

 血が付いてしまったアロハシャツを着替え、遺書もどきのメモを処分してから、祐司はホテルに戻る事にした。アリシアが送って行くと言う。今度はアリシアがハンドルを握った。

「アリシア、余計なことかもしれないけど、ちゃんと食べて寝た方がいいよ」

 治まった彼女の感情を刺激しないように、祐司は恐る恐る口を開いた。お父さんもきっと心配しているよ、という言葉は呑み込んだ。

「泊まりに来てくれる友達がいるし、大丈夫よ」

 先程、カイムキの家を出る前に、祐司が教えた電話番号を登録しようとして、アリシアはそれまで切っていた携帯電話の電源を入れた。次の瞬間、電話はけたたましく着信を知らせた。

 電話の相手は、ひどく興奮した女性らしかった。傍で聞いている祐司にも、それと分かるほどに取り乱した相手に、アリシアは何度も「ごめん、大丈夫」を繰り返していた。

 相手がアリシアの言う「友達」であるかどうかは分からないが、心配してくれる人間がいるのだ。その事実は祐司を少し安心させた。

 車はホテルに近付いていた。祐司はホテルの前の道路で下ろしてくれるように頼んだ。

「でも、もし嫌な夢を見たら、電話するわ」

 車のドアを開けた祐司に、アリシアはそう言って気弱そうに笑った。彼女の微笑を見たのは初めてだ。気の利いた言葉を思いつかず、祐司はごく真面目に、「もちろん、いつでも」と答えるしかなかった。

 走り去るホンダを見送ってから、祐司は小走りにホテルの車寄せに向かった。


 遠い遠い場所から帰って来たような気がする。すっかり時間の感覚を失くしていたが、腕時計を見ると、ホテルを出てから二時間以上経っている。ロイが渋い顔をするだろう。

「どうしたんだ、その腕は?」

 予想に反して、ロイが開口一番に言ったのがその言葉だった。切れ味が良かったから、すぐ塞がると思っていたが、絆創膏には血がにじんでいる。

「あの子に切りつけられでもしたのかい。可愛い顔してたけど、おっかないな」

 何と言い訳したものかと、祐司は言葉を濁した。まさかハラキリするつもりで、試し切りをしたとは言えない。

 いや、ちょっとアクシデントで、と言いかけた時、通りがかったムウムウが鋭い声を上げた。

「祐司さん、あなたこのシフトなの?」

 フロント勤務の三沙子だった。どこの職場にもいる、トラブル・メーカーだ。このホテルに勤務してからは四年程らしいが、百年もここにいるような顔をしている。

「このシフトにしては、姿が見えなかったけど、どこにいたの?」

 ムウムウの腰に手を当てて、三沙子はふんぞり返った。彼女はどう見ても五十半ば過ぎに見えるが、同じフロントの真理恵によると、年齢を聞く度違う答えが返って来るそうだ。どれも多分本当ではないのだろう。

「所用で、ちょっと出てたんですよ。ロイには断ってあります」

 三沙子は祐司の上司でも何でもない。フロントがヴァレーに口を出す事など、普通なら有り得ないが、三沙子の頭の中ではそうではないらしい。

 日本語でのやり取りに、ロイは口を挟む隙もなく怪訝な顔をしている。

「随分えらそうじゃない。あなたのせいで皆が迷惑してるって時に」

 派手なピンクの口紅は、唇の線からはみ出している。祐司は嫌悪感を抑えて尋ねた。

「どういう意味ですか」

「あなたのお友達のせいで、ホテルの従業員、皆が迷惑してるのよ。そんな事も分からないの? 信じられない。あたしならとても勤めていられないわ」

 お友達、という部分に力を込めて三沙子は言い放つ。苦言を呈しているというよりも、勝ち誇ったような表情が不愉快だ。しかし、三沙子の言う事はそれほど的外れでもない。

「人事課からは何も言われていませんね」

 せめてもの言い訳を口にすると、三沙子は大声を出した。

「常識の話をしているのよ」

 ロビーの入り口付近にいた客が、数人こっちを見ている。祐司は返す言葉を自分の内に探った。三沙子の言う事は正しいのだろうか。

 犯罪者の家族が引っ越したり、或いは世間に申し訳が立たないとして、命を絶つ事はある。三島由紀夫の「金閣寺」を思い出した。モデルとなった、金閣寺に放火した青年僧の母親は鉄道自殺を遂げた。

 それがあるべき姿だろうか。友人が犯罪を犯したら、仕事も速やかに辞職するべきなのだろうか。

 ほんの少し前、アリシアの為に死ぬのは一向に構わないと思った。今だって平気だ。しかし、三沙子個人の「迷惑」の為に仕事を辞めるのには抵抗があった。アリシアと三沙子では失ったものが違い過ぎる。

 世間の申し訳を考えたら、日本での事件が起きた時に自分は死ぬべきだったのだ。

「何をしてるの? お客様の迷惑になりますよ」

 祐司の思考は、飛んで来た声で途切れた。真理恵が緊張した顔でこちらにやって来る所だった。

 年は三沙子よりずっと若いが、真理恵はキングダムのフロントに勤めて十年のベテランだし、スーパーバイザーの肩書きもある。三沙子に手をつけかねて、ロイが呼んで来てくれたのだろう。

 直ちにフロントへ戻るように、と三沙子に告げた真理恵には威厳があった。

「何を言われたの? 何だったら人事課に言ってもいいよ。ハラスメントじゃない?」

 悔しそうな顔をした三沙子に背中を向け、小さい声で真理恵が聞いた。キングダムに限らず、アメリカでは、社員同士の嫌がらせなどに神経を使っている会社は多い。

 ビジネス・カレッジでその講義を聴いた時にはあまりの徹底ぶりに、これでは冗談も言えまいと思ったが、後になって、誰かが傷付く冗談ならば口に出す必要はないのだ、と思い直した。

「ありがとう、真理恵さん。大丈夫」

 人事課へ告げた所で、三沙子から恨みを買うだけだ。

「あの人の言った事なんか、想像付くわ。あのね、祐ちゃんがいない間に日本のテレビ局が来たのよ」

 顔色が変わったのが自分でも分かった。テレビ局と聞いて思い出すのは人生最悪の時期だけだ。

「心配しないで。うちのホテルは今、マスコミは一切お断りだからね。ホテルの前の道路でちょっと何か写していっただけよ。祐ちゃんが彼と知り合いだったことも、洩れてないみたい。三沙子さん、本当はリークしたいのかもしれないけど、言えないから八つ当たりしたのね」

 アリシアに詰られた事はともかく、三沙子にヒステリックに糾弾された後だけに、事件の前と同じように笑いかけてくれる真理恵の笑顔は胸に沁みる。

「ああ、やれやれ。真理恵、あのサメサマを檻から出さないでくれよ」

 ロイが肩を竦めながらやって来た。

 サメサマ、とはベルボーイのチャールズが付けた三沙子の仇名だ。他人のどんな小さなミスも見逃さずに喰らい付いて来る事から「鮫」で、サマという日本語の敬称は、ホテル勤務の者なら誰でも知っている。シャークサマではなく、サメサマというのが、日本語を覚えるのに熱心なチャールズらしい。

「大人しくしてくれないから、サメサマなんじゃないの」

 笑いながら言い返した真理恵につられて、祐司も少しだけ笑った。

 河野にもアリシアにも申し訳ない気がしたが、ここにいる事を自分は許されていると思うだけで、息が吐ける。

 ホテル・キングダムは総支配人の名前の下に、全従業員に事件について報道関係者と話をする事を禁じている。勝手に情報を流した者は、解雇処分の対象になる。

 (いち)ヴァレー・ボーイへの気遣いでは、もちろんない。ホテルのイメージの問題だ。しかし、現在祐司が表面だけでも普段と同じように仕事が出来る理由はそこにある。


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