第十三話・理由
〈これまでのあらすじ〉
ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかし直後に起きた別件から、河野は生きていて殺人を繰り返している事が判明し、河野の共犯者で別件の被害者の同居人、ヒイアカと共に手配する。
彼らはカリヒ地区で二人、ワイキキの西で二人を殺し、さらにワイキキでも一人、いずれも凄惨な方法で殺害していた。捜査責任者のクリストファー・サトーが必死に手がかりを追う中、
祐司の勤務先にやって来た被害者の娘、アリシアは、父の命の代償として祐司の自死を求め、悲しみを訴える。
帰らない父を呼んで泣く彼女を、慰める言葉を祐司は持たなかった。
ごめんね、可哀想にと繰り返し、ただ背中を撫でた。どのくらいそうしていたのか、彼女はしゃくり上げながら、切れ切れに話し出した。
「あたし、もう家族がいなくなっちゃった。お祖母ちゃんが死んだ時は、父さんがいたから耐えられたんだわ。ねぇ、話してもいい? 聞いてくれる?」
堰が切れたように彼女が話した所によると、彼女の母親は、彼女がまだ幼い時に失踪し、それからは祖母と父の三人で暮らして来た。
「高校を出てすぐ、妊娠したの。結婚するつもりだったのに、赤ちゃんが流れちゃって、彼ともだめになっちゃった。その時はまだ、お祖母ちゃんもいたし、父さんも側にいて慰めてくれた」
祖母はそれから間もなく亡くなり、彼女は一層父と寄り添うように生きて来たと言う。ボーイフレンドが出来たこともあったが、長続きはしなかった。
父親、ロナルドはワイキキ内のホテルで、建物のメンテナンスの仕事をしていた。
「解雇されたの、一ヶ月位前だわ。父さんに落ち度があったんじゃない。不景気だからよ。組合もないホテルだったから、どうしようもなかった。失業手当をもらいながら次の仕事を探していて、トーマス小父さんにはよく慰めてもらってたわ。
だから、小父さんに釣りに誘われた時、『いいじゃない、行って来なよ』なんて……、言わなけりゃ良かった」
「君のせいじゃないよ」
「父さんが帰って来なくて、小父さんの家まで行ったわ。ドアも閉まってて、車もなかった。あの時、父さん、中にいたのよね。ドアをこじ開けて入っていたら、助けられたかもしれない」
ああしなければ、こうしていれば、という悔恨は、大事な物を失った後はつきる事がない。
急に、左腕と胸の傷が疼いた。河野はまだ祐司の中では確かに友人だ。
しかし、この女の子のたった一人の家族を奪った相手には、憤りを感じないではいられない。
トレジャーアイランドで殺された夫婦にも、悲嘆に暮れている家族がいるだろう。河野は彼らを殺さなければならなかったのだろうか。なぜだ。
「そんなこと考えて、眠れないわ。眠りたくもないし。意識を失うとね、父さんが実は生きてたっていう夢を見るのよ。最悪。起きてから落ち込むもの。お葬式もまだ出す気になれない。犯人が捕まるまではね。
やっと思いついたのが、同じように辛い目に遭ってる人達に会うことだったのよ。トレジャーアイランドには明日行こうと思ってた」
「何でもいい。俺にして欲しいことはある?」
懇願するように言った祐司に、彼女が涙を流したまま言った。
「あんたの名前、聞いてないわ」
「ユージ。祐司・北本」
「じゃあ、祐司。あんたは何で父さんを殺した悪魔の友達なの? 死んでもいいくらいの友達なんていないよ、なかなか。」
「昔、今もそうだけど、俺は大馬鹿で、周り全部が俺のことを大嫌いになるようなことをしたんだ。彼だけが助けてくれた」
あの時の河野は、暗闇にいた祐司にとっては正しく一条の光だった。その河野が人を殺したとは、実は今でも信じたくない。
「あんた何したの? 人を殺したってことはないよね」
誰にもした事のない話だ。口を濁らせている祐司に、彼女は強い声を出した。
「あんたと彼の話をしなさい」
一つ大きく息をして、祐司は語り始めた。
河野と初めて口を利いたのは、確か席が近くて、授業中に祐司がこっそり読んでいた本を「それ、面白いのか」と河野が聞いたのではなかったか。首都圏に近い、県立のそこそこの進学校。
二年になる時に編成されたクラスは、私立文系コースだった。
サッカー部の祐司とESSの河野が、どうしてあれほど親しかったのかは分からない。ただ気が合って、部活の帰りに買い食いしたり、週末に互いの家でこっそり酒を飲んだりした。
当時、明るくてお調子者だったのは祐司の方で、河野は思慮深くて落ちついていた。運動神経は良いくせに、団体行動が嫌いだという理由で体育会系の部活には籍を置いていなかった。
スポーツ観戦が好きで、しかも選手の動きを分析するのが得意だったから、無駄な動きが多かった祐司はよく注意されたものだ。
親しく付き合うにつれて、河野は羞恥心が強くて潔癖な性格の持ち主だとも気が付いた。祐司から見れば、多少潔癖すぎるきらいがあったけれど、鼻につく程ではなかったし、何より自信に満ちた言動が、将来はきっとひとかどの人物になるだろうと思わせた。
大学はそれぞれ都内の私立大学。河野は経済学部、祐司は文学部だった。大学同士が近くない事も手伝って、お互いに新しい付き合いが面白くなって行ったが、たまに顔を合わせれば以前のように打ち解けた。
大学二年から三年にかけて、祐司はそれまでに味わう事のなかった学問の楽しさに巡り合った。
元々、本を読むのは嫌いではなかった祐司を魅了した分野は、国文学の近代だった。三年になって入ったゼミの教授も良かった。三年次が終了する前に、祐司は大学院進学を考えるようになった。
修士課程を出れば、教員の専修免許が取得出来るという口説き文句で、両親はあっさり賛成した。
親戚へもいい顔が出来ると言った。市役所に勤める父親と、小学校の教員の母親。絵に描いたような公務員の家庭だが、ただその土地に長くいるというだけで、親族は根拠のない名門意識が強かった。
夢のような二年間はあっという間に過ぎた。
その頃、河野は国内でも有数の保険会社に就職し、会えば景気の悪さを嘆いていた。その不況の中、祐司は恩師の口利きで地元の私立女子高に就職を決めた。教務主任が教授と同じ大学の卒業だったからだ。
地方都市にありがちの閉塞感の中に戻るのは、どうかとも思ったが、都内には就職先がないし、待遇は上々だ。故郷に飾る程の錦ではなかったにしろ、人生は悪くなかった。
女子高で若い男性の教師となれば、格好のからかいの的だ。
けれども祐司はそれを苦痛だとは感じなかった。むしろ進んで道化て生徒を笑わせたくらいだ。一年目はベテランの教員の副担任、授業は二年の現代国語を担当した。
そして二年目に、初めてクラス担任を受け持った。
元々、進学率の低い高校で、生徒の素行も素晴らしいとは言えない学校だったのだ。
当時の自分を思い返すのは、胸が悪くなるようだ。
初めての担任に張り切る若手教師。生徒と打ち解けなくては、生徒を理解してやらなくては。
見当違いに意気込んだ祐司は、とんでもない過ちを犯した。
最初は、そう、高校時代の友人と週末に飲みに出かけた先で、受け持ちの生徒と出食わした。三人の生徒は全く悪びれなかった。一緒に飲もうよ、とまで言って来た。場所が明るい居酒屋だったせいもある。
表情を一変させて彼女達を叱り付け、家へ送り返すという気骨の折れる作業をするには、疲れていた。「誰にも言うなよ」と言って、友人と生徒の五人で飲んだのだ。
生徒達は学外で教師と気楽に話せる事を喜び、祐司を「話が分かる」と褒めたたえた。楽しかった。
そして、半分忘れたように登校した週明け、クラスのほぼ全員が祐司の「話が分かる」行為を知っていた。今度あたし達とも飲みに行こうね、と言われ、他の教員に知れたら困ると思ったと同時に、自分は意外と人気があるんだなどと惚けた事を考えた。
今の祐司からしてみると、ダイヤモンドヘッドの頂上から逆さに吊るしてやりたい程のお調子者だ。
ゴールデン・ウィークが終って、次第に蒸し暑さが増して来る頃、市内で売春グループが摘発された。
それが自分の受け持ちの生徒だと知って受けたショックは、その後、警察に呼び出された時のものに比べれば、可愛いものだった。
検挙のきっかけとなったのは、ラブホテルから中年男と出て来た生徒が補導員に捕まり、泥酔状態だった彼女が、他の生徒の名前を幾人も挙げたというものだった。
首謀者は誰かという詮議の過程で、事情を聞かれた一人が祐司の名前を出した。一人がそう主張すると、他の者も声を揃えて同様の事を言い出し、その内の一人に至っては、祐司に強姦されたとまで言った。
一度警察から呼ばれ、きつい口調の尋問を受けると、あとは面白いように祐司の立場は悪くなった。
生徒達と数回酒を飲んだという事実は変えようがない。そして、そんな事をする教師は、他にどんな悪事を働いているか分からない、というのが世間の見方なのだ。
一度、ある生徒の母親が経営するスナックへ行ったのもまずかった。娘を守るために母親は、祐司がいかに常識を逸脱した教員であるかを、滔々とマスコミに語った。
あったという証明をする事は出来ても、なかったという証明は難しい。祐司自身は状況を把握出来ずにいる内に、周囲がどんどん動いて立派な悪党像を作っていた。
教員、警察官、といった職業の人間が過ちを犯す事について、世間は容赦がない。新聞、雑誌、果てはテレビのワイドショーにまで扱われた。実際に祐司が何をしたかという事よりも、そういう事をしたのではないか、と疑われる事が罪なのだ。
結局は証拠不十分で、祐司に法的な処罰が下る事はなかった。
同時に祐司はそれまでの人生の大きな部分を失った。家族を傷付け、友人を、恩師の信頼を失くした。
職場では慈悲をくれてやる、とばかりに依願退職扱いにすると一方的に通告され、返す言葉は一言もなかった。
周囲から叩かれ続け、親しい人間から不信の目を向けられて、それまであった自分自身はあっさり吹き飛んだ。残ったものは怯えだけだった。
そんな中、河野が祐司に会いに来た。
悪意を見せる以外の目的では近付く者がいない祐司に会いに、わざわざ東京から来たのだった。
「災難だったな」
開口一番に言われた時には、不覚にも涙が出そうになった。
もしかしたら、河野はただ祐司に憐れみを恵んでくれただけかもしれない。打ちのめされている人間を見て、そうでない自分を喜びたかったのかもしれない。
それでも良かった。砂漠で乾いている人間にとって、水は水だ。
この町にはいられない。どこか遠くの都市の建設現場にでも働きに行こうと思う。切れ切れに言う祐司に河野は、それならいっそ海外へ行けと忠告した。
文学部卒業で、教員として失敗してしまった祐司に国内で出来る仕事は皆無に近い。この不景気に、企業に就職しようとした所で難しいだろう。
「ハワイに行けよ。語学学校も多いし、日本人には勤め口が見つけやすい」
それまで、河野が何度もハワイに旅行していたのは知っていたが、祐司は一度も行った事がなかった。
「近いようで、案外遠いからさ。やり直すにはいい場所だよ、きっと」
痛みを分け合うような顔で笑った河野の後ろに、椰子の葉が揺れているような気がした。
何年もずっと日本語と日本文学を扱うことが祐司の専攻で、仕事だった。英語を学んで、それで生活する事に不安がなかった訳ではないけれど、ただ祐司にはもう居場所がなかった。
専攻した文学や背景の文化を、確かに祐司は大好きだった。それらを扱えなくなり、触れられない場所に行くのは、自分の愚かさのせいだ。
流刑のようだとも思ったし、今の牢獄のような状態から脱獄するのだと感じた時もあった。どちらの感覚に心が振れても、ハワイ行きを中止する気だけは起きなかった。
手続きはほとんど、Eメールとファックスで済んだ。家族にも告げずに学生ビザを申請し、それまで貯めた貯金と、お情けで貰った退職金の全額を下ろした。荷物は大きめのスーツケースと、ボストンバッグだけ。
ハワイに行くから、と告げた時、両親は「二度と帰って来るな」という顔をして頷いた。
出発の日、河野は成田までたった一人で見送りに来てくれた。何度も礼を言う祐司に河野は寂しそうに笑った。
「礼を言うのは早いよ。これからが大変なんだから。そうだな、お前が大丈夫になったら、向こうで生きて行く足掛かりが出来たら、会いに行くよ。それまで、俺はハワイを我慢する」
だから頑張れ、と祐司の肩を叩いた。
その日、成田のゲートをくぐってから、一度も日本に帰っていない。帰りたいとも思わない。
語学学校では死に物狂いで勉強したし、語学学校だけ行っても、仕事は出来ないと知ってビジネス・カレッジへ進んだ。貯金が尽きる前に卒業して、仕事にありつけたのは幸運と言うしかない。
その間、河野とはメール等で連絡を取っていたが、彼以外から連絡のあったためしはなかった。家族からも。