第十二話・差し出す命
〈これまでのあらすじ〉
ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかし直後に起きた別件から、河野は生きていて殺人を繰り返している事が判明し、河野の共犯者で別件の被害者の同居人、ヒイアカと共に手配する。
彼らはカリヒ地区で二人、ワイキキの西で二人を殺し、さらにワイキキでも一人、いずれも凄惨な方法で殺害していた。捜査責任者のクリストファー・サトーが必死に手がかりを追う中、打ちのめされた祐司の勤務先に、被害者の家族が訪れる。
熱いものに触れたような気がして、祐司の体が微かに痙攣した。
彼女は真摯な瞳を向けている。大きな瞳からは今にも涙が濡れてきそうだった。
祐司は深々と頭を下げた。
「犯人は、私の友人です。私に出来ることがあれば、何でもします」
普段は客にも頭を下げる事はまずない。
軽く頭を下げることはあっても、体を曲げるほどではない。礼は心から言うが、日本ではないからお辞儀をする必要はないのだ。
忘れつつあると思った所作が、こんな時に飛び出した。
「嘘でしょう? そういう冗談は面白くないですよ」
言いながら彼女の表情が揺れている。
「本当に?」
震える声で尋ねた彼女に、祐司はただ頷いた。
こめかみに強い衝撃を感じて、祐司は蹈鞴を踏んだ。更に反対側の肩を強く打たれる。
彼女が持っていた花束で祐司に殴りかかったのだ。クリーム色の大理石にレッドジンジャーの赤い花びらが散った。「Bastard!」彼女は何度も叫びながら、祐司を打った。
あえて避けるつもりはなかったが、無意識に両手が頭部をかばう。誰かが走って来た。
「触らないでよ。こいつは悪魔の友達なんだから」
エントランスの異変に、ホテル・セキュリティーのグレッグが飛んで来たのだ。彼女の肩を抑えようとしている。
新入りのヴァレー、ユージーンはどうしていいか分からないといった風に遠巻きにしていた。
「分かったわよ。もう、ぶちやしないわ」
息を切らして彼女は抵抗を止めた。
無残に花びらを散らしたレッドジンジャーとプルメリアをグレッグに押し付けると、祐司に向き直った。
「その代わり、少しあんたと話せる?」
駄目ですとは言えない。たった今、何でもすると言ったばかりだ。もちろん、と短く答えると、グレッグが口を挟んだ。
「ホテルの敷地の外でやってもらえますかね」
彼女は黙って道路の方へ顎をしゃくってみせた。そちらへ行くぞという合図だろう。歩き出した彼女の後を追おうとした祐司に、グレッグが素早く囁いた。
「外に出ちまえば、客じゃねぇ。黙って殴られるこたぁねぇ」
苦笑して頷き、ロイに「すぐ戻る」と伝えてくれるように頼んだ。
彼女は足早に敷地の外へ向かっている。祐司はその頑なな背中を追った。バード・オブ・パラダイスの脇を通り過ぎて、カラカウア・アベニューに出ても彼女は歩みを緩めなかった。
ワイキキ方面に向かって歩いて行く。祐司はそれに従った。
すぐ目の前に揺れている肩は薄かった。
突き上げるように自責の念が起こった。
自分は最初の事件が起きてから、一度でも真剣に被害者を悼んだ事があっただろうか。驚いてショックを受けるばかりで、勝手に傷付いたりしていただけだ。彼女のように、広美さんに花の一つも手向けなかったのが何よりの証拠ではないか。
住む場所が変わっても、大馬鹿なのはちっとも変わらない。苦い物が湧いた。
彼女がワイキキ方面に歩いたのは、長い距離ではなかった。すぐに左手の、海水プールへの小道へ折れた。戦争の記念として建てられたプールは趣のある建物だが、現在は使用されていない。小道といっても舗装はしてあり、何台かの車が路上駐車してある。
「さっき、何でもするって言ったわね」
歩みを緩めて、彼女が祐司を振り返った。祐司は頷く。
「じゃあ、今すぐあんたの友達を殺してよ。あたしの前に連れて来るんでもいいわ」
あの、とだけ言って、後の言葉が続かなかった。物理的にも心情的にも、出来そうにない。
「出来ないんなら、あんたが死んでよ」
祐司は彼女の顔を直視した。浅黒い肌がそうと分かるほどに紅潮している。眉が釣りあがって、瞳が燃えていた。
「それは……」
やっとの思いで声を絞り出すと彼女が遮るように言った。
「あんた、あいつの友達だって言ったじゃない。あんな悪魔の友達だなんて言えるんだから、相当の覚悟があるんでしょ。それとも、やっぱり友達じゃないって言う?」
彼女の言葉に胸を突き刺されながら、祐司は急に疲れを覚えた。
やはり百年なんて、待てるものじゃない。それでも、彼女の言う通りに河野は友人じゃないと言い直す事は出来なかった。
河野は友人だ。それが祐司の独りよがりな思い込みでも構わない。
とっさに拒否するような態度を取りはしたけれど、考えてみれば不可能な事ではないかもしれない。少なくとも別れ難いものなど、今の祐司にはない。
貿易風がアロハシャツの襟元を走り抜けた。彼女の後ろで揺れる椰子の葉と、光る海が美しい組み合わせだと思った。
「いや、彼は友達だ。死ねって言うなら死ぬよ。どこでどうやったらいい?」
「あたし、冗談言ってるんじゃないわ。あんた、本当に死ねるって言うの?」
更に険しい表情をする彼女に、祐司は微笑みかけた。する事を決めたら、何か爽快な気分すらしたからだ。河野にリセットして貰った人生だから、河野絡みで終るのも悪くないだろう。
もしかしたらこれ以上酷い現実を見たくないだけかもしれないし、意地になっているのかもしれないが、自分の馬鹿さ加減に呆れることも、死ねばなくなる。
ホテルへ戻り、二人は彼女の車に乗り込んだ。
怪訝そうな顔をするロイに、祐司は「被害者の娘さんだから、放っておけない。もう少し話してくる」と言い訳した。駐車場から彼女のホンダを車寄せまで運転して来ると、彼女が助手席に滑り込んだ。座席の下から茶色のバッグを引っ張り出す。
「運転はあんたがして。言っておくけど、このバッグの中に銃が入っているから。撃ち方だって、トーマス小父さんに習ったの」
O.K.何もしないよ、と祐司は車をダイヤモンドヘッドへ向けた。場所は祐司の家で、方法は胸を刺して、というのが彼女の希望だったからだ。
ダイヤモンドヘッド・ロードの左右にブーゲンビリアの紫がかったピンクが綺麗だ。
「あんたが胸を刺して死んだってニュースで流れたら、彼はなんて思うかしらね」
バッグに右手を入れ、体をドアに預けるようにしながら、無表情に彼女は呟いた。
祐司は答えなかった。
カイムキの家に着くと、祐司は車をいつも自分が停める場所に駐車した。ドアをロックし、鍵を彼女に渡す。階段は祐司が先に立って下りた。
「ルームメイトがどこかに隠れてて、いきなり殴りかかるのはなしよ」
「彼は今、仕事だよ」
ここの所、掃除を怠けていて少々ほこり臭いのも、この際気にならなかった。玄関で靴を脱ぎ、決まりきった文句を言う。
「何か飲む?」
振り向いて、息を呑んだ。彼女が握った銃をこちらに向けていた。
「やっぱり怖いのね、嘘吐き。でも、今更止められないわよ」
銃口を向けられたのは、生まれて初めてだ。
祐司は鈍い銀色に光る鉄を見て、それから息を吐き出した。怖くはない。ただ自分がこれから死ぬんだという実感が強くなっただけだ。
何が起こっているのか把握出来ないままに、翻弄されて疲れ切ったことは以前にもある。しかし、その時は呆気に取られて痛みに耐えるだけで、死にたいとは思わなかった。
今も積極的に死にたいとは思わないが、死んでも構わない。目の前にこれほど自分の死を望む人間がいるではないか。
「止めるつもりはないよ。その前に、ルームメイトに小切手を書いてもいいかな」
血は大量に流れるだろうから、後始末は大変だ。出来ればケビンに迷惑をかけたくはなかったが、彼女のたっての希望とあっては仕方がない。
こういう時、個人の小切手が広く使われるアメリカの慣習はありがたい。祐司は彼女に銃口を向けられながら、小切手帳を部屋から取って来た。
他に金を渡さなければならない相手もいない。日本から持って来た金の残りと、ホテル勤務で貯めた金のほぼ全額を、金額欄に書き込んだ。受取人の欄には、ケビン・スギノと記入する。
ついでに、いつも互いへの伝言を書き込むメモ用紙に、遺書めいた物を残した。
「こんな事をして、本当にごめん。大家への侘び料と、君の引越し賃と、それに俺の体の焼き賃に足りると思うけど。灰は良かったら、海にでも撒いてくれる? 焼き賃が足りなければ、警察に任せて放っておいていい。日本への連絡は無用」
考えながらメモを書いている間、彼女はコーヒーテーブルの脇に座って祐司の書く内容を見ていた。
「あんた、ちょっと変だわ」
「変でもいい。灰を撒くのは違法じゃなかったよね?」
「違法じゃないけど、場所は決まってるはずよ」
ケビンなら、何とかしてくれるだろう。祐司は立ち上がった。
彼女が銃を構え直す。気にせずに祐司はキッチンへ入った。キッチンはケビンの領域なのだが、生憎と祐司は刃物を持っていない。確かケビンが買って来た刺身包丁があった筈だ。
包丁を探し当てて、祐司はリビングへ戻った。小切手とメモの載ったコーヒーテーブルを部屋の隅へ移動させる。血が付いて、小切手が読めなくなりでもしたら大変だ。
彼女がテーブルを背にして座る。少し顔色が悪いようだ。祐司は彼女と向き合って胡坐をかいた。
「切れるかどうか、まず試しに何か切って。死ぬ時は一息に胸の奥まで押し込んで、それで自分で抜くのよ。あたし、手は貸さないからね」
押し込んだはいいが、抜けなくなって助けを求めるのは森鷗外の「高瀬舟」だ。彼女は知らないだろう。
祐司は左腕に刃を押し当てた。押し付けるようにして引くと、面白いように肉がぱっくりと口を開ける。血が流れた。
「大丈夫、よく切れるよ」
「……心臓を刺すのよ。ハラキリ出来るのは、日本人だからなの」
彼女はハラキリの意味が分かっていないようだ。胸を刺すのは、腹切りじゃない。
手を貸さないなんて、三島だって介錯がいたんだぞ。介錯なしで腹を切ったのは乃木将軍で、それを小説に書いたのは、やはり鷗外とそれに……。
一気に心臓に届く場所をと、肋骨の間を探りながら、祐司は自分の頭がここ数年決して動かなかった風に動いているのに気が付いて自嘲した。これも走馬灯の一つだろうか。日本にいた頃なら、もっと様々な作家と作品が思い浮かんだろう。
使わない筋肉が落ちるように、知識も零れて行く。その代わり、今から刺そうとしている胸には、いつの間にやら多少筋肉らしき物がついていた。
どうでもいい。これでお終いだ。
探り当てた場所に包丁の先端を入れる。痛みを感じるのは今だけだ。
呼吸を整えて更に深く入れようとした時に、誰かが叫んだ。
同時に包丁を持った両手を強く前に引かれて、祐司は姿勢を崩した。
彼女が土壇場になって祐司の腕を引いたのだ。恐ろしい力で彼女は包丁をもぎ取った。
「どうしろっての?」
前のめりに両手をカーペットについた無様な体勢で尋ねた。彼女は息が荒い。取り上げた包丁を背後のテーブルの上に置くと、脱力したように顔をうつむけた。
「怖かった。父さんはすごく苦しんだかしら」
「どうする。もう一回やり直す?」
感極まった感じの彼女に対して、祐司の口から出たのは、およそ無感動な声だった。
彼女の事はとても可哀想だと思う。なのに、自分がこんなにのんびりした声を出しているのは何故だ。
「だめ。怖くて見ていられない」
「じゃあ、君のいないところでやろうか?」
続いて出た声も、感情のこもらない声だった。気持ちの回線が麻痺してしまったような気分だ。今、もう一度胸を刺せと言われれば即座に出来るし、方法を変えてどこかから飛び降りろと言われても抵抗なく出来るだろう。
「もういい、やめよう。死ななくていいわ。救急箱ある?」
顔に落ちた髪を掻き上げながら、彼女は頭を上げた。瞳の炎はもう消えていた。
今は静まり返った湖のようだった。
「ないよ、そんなもん」
祐司も静かに答えた。男二人の家に、救急箱などない。
「大き目のバンドエイドは?」
それなら多分、と祐司は立ち上がった。キッチンに行き、ひきだしをかき回す。左腕から流れた血が手のひらまで届いていて、べたべたする。胸の傷は深くないが、アロハシャツには血がにじんでいた。
キッチンに入って来た彼女が流しを指差す。その通りに血を洗い、ペーパータオルで拭いた。大判の絆創膏の外に、ひきだしで見つけたらしい軟膏を手に、彼女が祐司の右腕を掴んでリビングへ促した。その間、二人とも無言だった。
「太陽が照っていて空も明るいのに、あたしだけ暗闇にいるみたいなのよ」
腕と胸の傷に軟膏を塗り、絆創膏を貼って、彼女はようやく口を開いた。言葉が少し湿っている。
「お父さんがもう、いないってこと?」
「そう……」
黒い湖から水が流れた。
「いつも、どんなに悪い事が起きても、父さんだけは側にいてくれたわ。それこそお日さまみたいなものだったのに。それがもう、いないのよ。今、あんたの傷にバンドエイド貼りながら、父さんの傷にも、こうやってバンドエイド貼って治してあげられれば良かったって思ったわ。馬鹿みたいでしょう?」
「俺にはそういう人がいないから、よく分からないけど、お父さんと代わってあげられなくてごめん」
彼女が祐司の両手を掴んだ。力を込めて握る。
その四つの手に温かい水が落ちた。
「変なことをさせてごめんなさい。あたし、あれから何をしているのか、自分でも分からないの。何をすればいいかも、全然分からないの」
途方に暮れたように彼女は言い、後は言葉にならなかった。