第十一話・弔問者
〈これまでのあらすじ〉
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。浜辺で河野の遺留品が見つかった事から、警察は無理心中と判断する。直後に別件が起き、ホノルル警察のクリストファー・サトーは、隣人の話から被害者の同居人で、ヒイアカと名乗るポリネシアン女性を重要参考人として手配する。
事件の衝撃から立ち直れない祐司の元に、再び警察が急行し、前日の殺人事件現場と早朝の別な事件現場から河野の指紋が検出されたと告げた。続いて、祐司のルームメイト、ケビンの勤務先近くで他殺死体が発見され、これも河野らの犯行と見られた。
一時間程して、疲れ切ったケビンが帰って来た。一緒に夕食を摂り、事件についての話をした後で、祐司は仕事に出かけた。墓場シフトは人数が少ない。
夜、十一時から朝の八時までのシフトは、前半が暇で、後半が忙しい。今日はリチャードが一緒だ。
二十四時間ヴァレーを提供するホテルはほとんどないが、総支配人は「行き届いた」サービスが好きらしい。
リチャードは本土から来た白人で、元モデルだ。背も高いし、おそろしく整った顔をしている。年は三十五歳。
以前はニューヨークでそれなりに活躍していたそうだが、本人曰く「Nobody gets younger」、年には勝てないという事らしい。年を取ってもモデルを続けたり、プロデュース方面に回ったり出来るほどには、才能もなかったし売れてもいなかったと、さっぱりと言ってのけるリチャードが祐司は好きだった。
このホテルに勤めたのは、ニューヨークで知り合ったオーナーが世話してくれたのだそうだ。
「祐司、聞いたよ。大変じゃないか」
何をどの辺りまで聞いたのか知らないが、リチャードは美しい眉を顰めている。
「ああ、そうなんだけど、俺に出来ることもないしね」
あまり深刻ぶらないように言うと、リチャードは、「落ち込まないようにな」とだけ言い、話題を変えた。彼なりの気遣いだろう。
深夜から早朝にかけて、出て行く客も入ってくる客も少ない。祐司はベンチにかけてリチャードと無駄話をして過ごした。時々、ベルボーイのチャールズも仲間に入りに来た。
「この仕事も、じきに二年になるんだ」
祐司の話だと、どうしても事件の話になってしまう。いきおいリチャードが自分の話をする事になった。
「ホテルの仕事が好きってわけでもないし、かといって学歴ない。これからどうしようって思うんだけどさ。改めて学校に行く気もない。やりたい事がないからね。俺、モデルの仕事が好きだったんだって、しみじみ思うよ」
リチャードの話に相槌を打ちながら、祐司は自分の人生を考えた。仕事と寝る場所があって日本じゃない、それだけで今の自分には充分だ。やりたい事など、ここ数年考えた事もなかった。
「だから……」
と、リチャードが言葉を繋げようとした時、チャールズが元気良くエントランスから飛び出して来た。
「チョコレート食う? 今、フロントでもらって来たんだけど」
祐司が首を振ると、リチャードにいくつか包みを渡し、自分は柱にもたれて銀紙を剥き始めた。
チャールズは二十二歳。中国系の母とアフリカ系の父のハーフ、と本人は言っているし、そういう両親もいるが、とてもそうは見えない。
アフリカ系の血など、どこからどう見ても、一滴も入っていなさそうに見える。ただのアジア系にしたって色白の方だ。しかし彼自身はアフリカ系と言って憚らないし、音楽やスポーツの話の折にアフリカ系である自分を誇示する向きがある。
職場内の人間は、影でこそ本当の父親は違うのだろうと噂しているが、面と向かって彼の誇りを傷付ける者はいない。
リチャードと話をし、チャールズと罪のない冗談を言い合う事で、時間は穏やかに流れた。しかし、話が途切れた折に顔を上げると、ホテルの前にあるカピオラニ公園の闇が今までとは違って見えた。
この夜、この闇のどこかに河野がいる。ポリネシア系の女と一緒か。自分のした事を考えているだろうか。
明るい場所から見る闇は一層深い。それが今夜は特に濃厚に見える。
ほんの数日前、この車寄せで顔をほころばせた河野が、今はとてつもなく遠い場所にいる。
午前七時、出発する客達を送り出している所に、早めに出勤したロイがやって来た。
「今日はジュニアが休みなんだ。参ったよ」
忙しいモーニング・シフトは、一人休んでも他のメンバーへの負担が大きい。不景気の為に、ぎりぎりの人数しかいないから尚更だ。それにしてもジュニアが休むとは珍しい。
「弟の具合がすごく悪いんだと、しょうがないよなぁ」
溜息交じりのロイに、祐司は軽く言った。
「じゃ、俺、残るよ」
大丈夫かい、悪いなと言いながらも、喜んでいる様子を隠せないロイに、祐司は笑って家にいてもする事がないから、と付け加えた。本当に家にいてもないのだ、出来る事は。
前日にたっぷり眠ったせいか、事件のせいで緊張が続いているせいか、疲れは感じない。祐司は普段通りに忙しい朝の時間帯をこなした。
ただ昼になっても食欲はなかった。そういえば、昨夜仕事についてから、何も食べていない。
昼休みは一人ずつ取る事になっていたが、祐司は控え室でそそくさとコーヒーだけ飲み、あとはエントランス脇のベンチで煙草を吸って過ごした。
疲労も空腹も感じない。ホテルの前を通るカラカウア・アベニュー越しに見える木々が綺麗だ。
シャワーツリーが花を付け始めている。二メートルから三メートルの高さの木は、幅広く枝を広げ、大きくはないが数の多い葉の間から花が覗く。その名の通り、水滴が束になって落ちるように、花は房状になっている。
一見すると日本の藤に似ていない事もないが、藤よりももっと華やかで軽やかな感じがする。正式にはレインボー・シャワーツリーという名なのだが、それは一つの房にいくつもの色の花がつくからだ。白、黄色、ピンクなどが多い。
祐司がハワイに引っ越して来たのは八月の初めだったが、その時もこの花は美しく咲き誇っていた。
通い始めた学校の脇に大きなシャワーツリーの木があり、緩やかな風に揺れている花を見て、随分と心が慰められる思いがした。
煙を深く吸い込んで、祐司はこのまま百年でも、休まず働き続けていられそうだと思った。百年経ったら、河野は会いに来てくれるだろうか。
しかし次の瞬間には、百年の間誰かを待つという発想がどこから来たかと、失笑してしまった。夏目漱石の「夢十夜」だ。我ながら安易すぎる発想だ。
夢というなら、以前、誰かと文学の話で冗談を言い合ったり、誰かに漱石の作品について解説した事の方が、ずっと夢のようだ。
忘れるべきだと首を振り、祐司は立ち上がった。そろそろ昼休みが終る時間だ。
ベンチから立ち上がった時、敷地に入って来る白いホンダが目に入った。レンタカーにしては古い。
車寄せで止まると、運転席の窓が静かに下り、ドライバーは歩み寄ったロイと言葉を交わした。多分、セルフ・パーキングがないかどうか聞いたのだろう。地元の客にはヴァレー・パーキングを嫌う人も多い。
「すみませんねぇ、ヴァレーだけなんで」
ロイの声が祐司の所まで聞こえた、と思うと運転席のドアが開いて、若い女性が降りて来た。入れ替わりにロイがホンダに乗り込み、静々と立体駐車場に向かって運転して行く。
ほんの数段の階段を上って来る彼女を見て、祐司は内心首を傾げた。
彼女が右手に持っているのはレッドジンジャーの花束だ。バード・オブ・パラダイスと同じように、茎の長い野趣の濃い花で、蕾のような形の大きな花は二十センチにもなる。そしてその赤い色で、一本でも目立つ。
彼女はそれを六、七本束ねたものを右手に持ち、左手にはピンク色のプルメリアで作られたレイを持っていた。
花の配達かなと思ったのは一瞬で、すぐにそんな訳がないと祐司は打ち消した。花屋ならもう少し、リボンなどで綺麗に包装する筈だ。
それに、彼女は何かささくれ立った雰囲気を醸している。両手の花と見事にアンバランスだった。
「ちょっと聞いてもいいですか」
彼女は真っ直ぐ祐司に向かって歩いて来た。浅黒い皮膚に濃い眉。黒目がちの瞳が、くっきりとした二重まぶたの下から強い光を放っていた。鼻は高くないが、中々の美人だ。年は二十代半ばというところか。
けれども、着ているTシャツとジーンズが、どことなく薄汚れて見える。肩までの茶色い髪もくしゃくしゃだ。祐司は仕事用の作り笑顔を浮かべて、「何でしょう」と尋ねた。
「あの、このホテルに、ミセス・ヒロミ・コーノのご家族は滞在していますか?」
思いもよらない質問だった。彼女は広美さんの知り合いだろうか。それとも河野か。目の前の彼女は、テレビで見たポリネシア系の女とは似ても似つかない。
「いえ、ご家族は日本にお帰りになりました。お知り合いですか?」
「そんなようなものです。じゃあ、彼女が亡くなった部屋を見せてもらえませんか。せめて、これだけでもあげたいから」
切な気な声を出して彼女は両手の花を示し、祐司は益々当惑した。
こんな風に広美さんを悼む人間がハワイにいたのか。確か広美さんは、ハワイは二度目だと言っていなかったか。いや、広美さんの家族の知り合いかもしれない。
あの、良い意味でも悪い意味でも「上流」っぽい家族に、こんな知り合いがいるとは意外だけれども。
「ハウスキーピングのマネージャーに聞いてみることは出来ます。ですが、その、そういう事件のあった部屋は、お見せ出来ないと思いますけど」
自殺や事故や、そういった凶事があった部屋に泊まりたがる客はいない。といってホテル側としては、そうした事件で部屋を封鎖するような事があっては商売にならない。
今回は部屋の汚れもひどい事から、改装した上でお祓いをし、宿泊に使用する予定だとハウスキーピングの人間が言っていた。
お祓いは、オーナーの知り合いのカフナ――ハワイアンの神官――に頼むそうだ。
「お祓いをするだけでも、うちのホテルは良心的だよ」
教えてくれたハウスキーピングの小母さんは、肩を竦めて言っていた。
フィリピンから来た彼女は、アクセントの強い巻き舌の英語で一頻りしゃべった後、「あんた、ミサコには気ぃつけなよ」と教えてくれた。三沙子はフロントだ。今度の事件を祐司のせいだと言い触らしているらしい。
そんな事を思い出しながら、しかし表面には出さないように、出来る限り気の毒そうに彼女に告げた。
「どうしても、駄目でしょうか……」
「ご遺族の方でしたら、大丈夫なんでしょうけど」
うつむいた彼女にそう言ったのは、広美さんとの関係が知りたかったからだ。もしかしたら、河野と関係があるのかもしれない。彼女は思い切ったように顔を上げた。
「私、アリシア・マラナといいます。ロナルド・マラナの娘です」
聞き覚えがある名前だった。
考えた祐司に、アリシアと名乗った彼女は畳みかけるように言った。
「父はカリヒで殺されました。同じ犯人に殺された人の家族だったら、慰め合えるかと思って。でなきゃ、お花だけでもあげたいんです」