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吠える島  作者: 宮本あおば
第一章
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第一話・その朝

登場人物紹介

北本祐司:ホテルキングダムに勤務の日本人。

河野由樹:北本祐司の友人で、日本から北本を訪ねて来て事件を起こす。

ジュニア(トゥバル・テレニ):サモア出身。北本祐司の同僚。

クリストファー・サトー:ホノルル警察犯罪捜査課の課長補佐。日系三世。

ジャスティン・ナカノ:クリストファーの部下。日系四世。

ケビン・スギノ:北本祐司のルームメイト。ブティック勤務。

アリシア・マラナ:被害者の娘。

ヒイアカ:謎のポリネシアンの女性。


 満月が海を明るく照らしていた。

 月の光を受けた雲は、白く輝いて浮かんでいる。青い光を反射した波が、小さく踊る。

 今度生まれて来たら、男は思った。今度生まれて来たら、物語の怪物のように圧倒的な力で、誰よりも速く走る。何も気にしないで。

 音も立てずに打ち寄せる波に、男は足を踏み入れた。この海に溶けて自分でなくなる。きれいになるのだ。

 水の抵抗を感じない。腰まで進んで、男は着ていたシャツを脱ぎ捨てた。

 もう自分を捕えるものは、何もない。



 昇ったばかりの太陽は、まだ光が柔らかい。涼しい空気の中で、鳥の声だけが勢いよく響いている。花壇の蘭も夜露に濡れたままだ。

 駐車場から運転して来たクライスラーを、タクシーのすぐ後ろに停めた。キイを付けたままにしてトランクを開け、二つあるスーツケースを次々にトランクに積む。

 日本人の親子連れはまだ眠そうだが、チップは忘れずにくれた。

「お気を付けて。次回もぜひ、ホテル・キングダムをご利用下さい」

 運転席の父親に声をかけ、後部座席の子供達に手を振った後、北本祐司は次の客からチケットを受け取った。祐司の仕事はヴァレー・パーキングのボーイで、レンタカーを使用する客や、レストランを利用しにやって来る客の車を預かって、少し離れた立体駐車場へ運ぶ。

 今朝は出発客が多く、広めの車寄せも混雑気味で、迎えのリムジンやタクシーが並ぶ間に客のレンタカーを停めるのに骨が折れる。ホノルルから日本に向けて立つ便は、ほとんどが午前中だ。加えて、滞在客も朝のうちに買い物や観光に出かける。

 大きく張り出した屋根の下の車寄せは、楕円形になっていて、中央の花壇に蘭が美しい。大型バスでも楽に二台は停められる広さだが、今は隙間もない。

 荷物を運ぶベルボーイの手伝いもしなくてはならないのに、どういう訳か今日に限って同僚のジュニアは動きが鈍い。いつもならスーツケースの二つ位軽く運ぶ彼が、キャリーバッグ一つでよろよろしている。

 駐車場から運転してきたシェビーで、リムジンのバンパーに追突しそうになった時には、さすがに祐司も大声を出した。

「まだ寝てるのか、ジュニア」

「ああ、すまね」

 頭を掻きながら車から降りて来たジュニアは、心底すまなそうな顔をしている。

 身長二メートル弱、体重百キロの彼がそういう動作をすると、コメディ映画の一場面のようだ。もっともアロハシャツに、黒光りするククイナッツのレイを掛け、腰布を巻いた姿は、祐司に比べて遥かにサマになっている。

 彼はハワイアンではなく、生粋のサモアンだが、遠方からやって来る観光客に違いは分かるまい。祐司より三つも年下で、まだ二十六歳なのだけれど、どうかすると三十代半ばに見える。

 頭一つ分背の低い祐司に、被さるようにしてジュニアはもう一度「すまね」と繰り返した。

 彼の本名はトゥバル・テレニというのだが、それだけでなく色々とサモアの伝統のおまけが付いて異常に長いので、親しい人は彼をジュニアと呼ぶ。彼の名前は父親から取ったものだからだ。

「よう、祐司。来やってからずっとなんだけど、変な臭いがしやるだろ? 嫌な臭いだ。俺ぁ、気分が悪かって」

 独特の(なまり)で言われて祐司は二、三度鼻をひくつかせたが、何も臭わない。強いて挙げるなら、玄関脇のプルメリアの花だけれど、それは今日に限った事ではない。

「何も臭わないよ。仕事しようぜ」

 祐司が肩を叩くと、そんな筈ないと呟きながら、ジュニアは客のスーツケースを車のトランクに積み込みにかかった。しかし、まだ臭いが気になるのか、スーツケースの腹を派手にぶつけて、客に嫌な顔をされていた。

 ラッシュが去ったのは、十時過ぎだった。

 出発客も滞在客も出払って、到着の客はまだやって来ない。客がいないのを確認して、目顔でスーパーバイザーに断りを入れ、祐司は大理石の柱の脇にある灰皿で一服付けた。今日も一日、良い天気に違いなかった。

 この仕事に就いて、ほぼ一年。やっと不規則なシフトや、面倒な客にも馴れて来た。ホテル・キングダムは超一流とはいかないが、ダイヤモンド・ヘッドの足元というロケーションも良く、小ぢんまりとして上品なホテルだ。

 コロニアル・スタイルをふんだんに取り入れたホテルの正面玄関の周りには、沢山の植物が植えられている。オーナーは東海岸出身のアメリカ人で、南国の雰囲気というものをこよなく愛しているそうだ。

 お蔭でボーイのユニフォームも、上半身がアロハシャツなのは他のホテルと一緒だが、下半身はショートパンツの上に腰布で、足元は皮製のサンダルだ。

 客はまず、ホテルに到着した瞬間から南国の気分を味わえるのには違いない。ジュニアや他のポリネシア系の従業員にはとても良く似合っていて、実際、客に「写真を一緒に」と頼まれる事も珍しくないが、日本人顔の祐司には似合わない。

 フィルターを口に近付けた時、ロビーからハウスキーピングのスーパーバイザーが飛び出して来た。

「祐司、あんたの友達が大変だ。ああ、神様」

 恐ろしく取り乱した様子の彼に、祐司は驚いた。何が起きた。

 確かに一昨日からホテルには、祐司の友人が逗留している。到着日に自腹を切って花と果物を部屋に入れてもらったから、一部の従業員は友人の滞在を知っている。

「どうしたんです?」

「い、今、アシスタント・マネージャーが警察に電話した。とんでもない事だ……」

 長いホテル勤務で、ちょっとやそっとの事では動じない彼が涙目になって手を震わせている。

 ただ事ではない。

 柱の影にへたり込みそうになったスーパーバイザーを無視して、祐司はロビーへ駆け込んだ。途端にベルボーイのチャールズに突き当たりそうになったが、そのままエレベーターに突進した。8階のボタンを押し、苛立たしく「クローズ」ボタンを何度も叩く。

 河野由樹と彼の妻、広美さんが泊まっていたのは、814号室だった筈だ。エレベーターホールから一歩飛び出すと、総支配人のミスター・ジェイキンスと、ホテル・セキュリティーのグレッグが、廊下に立ったまま、難しそうな顔で話しているのが見えた。

 グレッグの指に挟まれているのは、マスターキイに違いない。

「私の友人に何があったんです?」

 駆け寄りながら声をかけた。普段なら通りすがりに挨拶をするくらいしか、関わりがない。総支配人は、雲の上の人間だ。

「この部屋に泊まっていたのは、君の友人かね」

 いつも笑顔を崩さない初老の白人は、引きつった表情を祐司に向けた。

「そうです。ヨシキ・コーノとヒロミ・コーノ。彼らはどこですか」

 うむ……、とだけ言って、ミスター・ジェイキンスは沈痛な顔をした。祐司の心臓がどきりと音を立てる。

「部屋に入っても?」

「待ちなさい。警察を待った方がいい」

 首の後ろに冷たい汗がにじんでくるのを感じながら、グレッグに向かって手を突き出した。「彼は親友なんです」

 躊躇するグレッグの手から、カードをむしり取った。ドアノブの上にある差込口にカードを滑り込ませると、グリーンのランプが点滅する。

 ドアを開けながら「河野」と名前を呼ぶ。返事はなかった。返事の代わりに、胸苦しくなるような血の匂いが鼻腔を刺した。

 足元のカーペットに血の染みがある。

 上品な薄いピンク色の壁にも、なすったような血の跡が付いていた。入り口からはベッドルームの様子は見えない。祐司は震える膝を進めた。

 血と肉。

 キングサイズのベッド一杯に、それが溢れていた。

 何なんだこれは。

「もう沢山だろう、表で警察を待つんだ」

 グレッグが後ろから羽交い絞めにするようにして、祐司を部屋から引き摺り出した。

 口も利けないまま、祐司は廊下に座り込んだ。

 今のは人間の死体だった。それも女性。広美さんだろうか、誰かが広美さんをあんな風にしたのか。


 警察はそれからすぐにやって来た。

 彼らが何か作業をしている物音や声を、祐司は廊下に座り込んだまま、壁にもたれて聞いていた。

 目を開けても閉じても、さっき見た光景が消えない。何が起こったのだ。河野はどこにいるんだ。河野に会わなくては。

「祐司」

 名前を呼ばれて我に返ると、グレッグがアジア系の初老の男と立っていた。祐司は慌てて立ち上がった。眩暈がした。

「こんにちは、私はホノルル警察のクリストファー・サトーです。あなたは、ユージ?」

「ユージ・キタモトです」

 こんな時でも手を差し出されたのには驚いた。私服を着ている所を見ると、ただのパトロール警官ではないのだろう。彼は、祐司と河野の関係を簡単に尋ねた後、遺体の確認を求めた。

「そ、それはミセス・コーノでない可能性があるということですか」

 確かにベッドの上を一瞥(いちべつ)しただけで、ショックのあまり顔まで確認する余裕はなかった。もしも広美さんでないのなら幸いだが、それでは広美さんと河野はどこにいるのだ。狼狽する祐司にサトー氏はおだやかに言った。

「いえ、我々も彼女はミセス・ヒロミ・コーノだと思いますが、万が一違っていれば、初動で大きな過ちを犯すことになる。遺体には覆いを掛けてありますから、顔だけです」

「分かりました。それと、ヨシキはどこにいるんでしょう? 彼も、まさか……」

 語尾が震えてしまった。サトー氏が手を伸ばして祐司の肩を軽く掴む。その手が意外なほどに大きかった。

「彼はここにはいません。分かりますか? 彼らは何か大きなトラブルに巻き込まれたのかもしれないし、他の可能性もある。最初の段階で捜査を誤らないためにも、あなたの協力が必要です」

 サトー氏の瞳には、祐司よりよほど多くの事が映っているようだ。

 遺体は既にストレッチャーに載せられていた。サトー氏が声をかけると、付近にいた作業服の男が膝を付いてオレンジ色のビニールに手を掛けた。

 顔は血で汚れていたが、広美さんに間違いなかった。

 祐司や河野よりも二つ年下で、会ったのは今度の旅行が初めてだった。知的できれいな人だ。一緒に食事をした時は祐司を引き立てるためか、大袈裟に夫を腐してみせたりして、それでテーブルは笑いが絶えなかった。

 その彼女は今や、空っぽの瞳を虚空に向け、口を半開きにしていた。顔だけとは言ったものの、白い咽喉が切り裂かれているのは容赦なく祐司の目に入る。

 いたたまれない気持ちで広美さんの顔に伸ばした手を、サトー氏が「いけない」と押さえた。

「でも、でも目を閉じる位は」

 声がにじんで、掠れた。

「気持ちは分かりますが、ここでしてはいけない事になっています。彼女はミセス・ヒロミ・コーノに間違いありませんね」

 頷くと同時に、その場に崩れ落ちそうな感覚にとらわれた。両手を握り締めてこらえる。

「ヨシキを捜して下さい。攫われたか、犯人を追いかけたかなんです。彼までこんな姿になったら、耐えられない」

 サトー氏は厳しい表情で頷いた。

 現場検証が終るまで、祐司は従業員控え室でする事もなく待った。

 以前、形は違うし、場所は日本だったが、警察沙汰に巻き込まれた事がある。その時の事を思い出すと、いまだに石を呑んだ気分になる。

 一時間ほどして、現場検証がほぼ終了したと知らせがあった。

 祐司が事情を聞かれたのは、総支配人室だった。他のどの場所でも障りがあると、警察とホテルの上部が判断したらしい。


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