第97話:小早川の兵
第97話:小早川の兵
天正十八年、六月。箱根の嶺を越えて相模湾へと注ぐ早川のせせらぎに、初夏の強い日差しが照りつけ、小田原城を取り囲む二十万の豊臣軍の陣営からは、むせ返るような汗と具足の脂の匂いが漂っていた。
北条氏の守る小田原城の巨大な総構えをめぐり、石垣山一夜城の完成によって北条方の戦意は大きく削がれていたものの、城の包囲はすでに二ヶ月を超え、陣中に漂う空気はどこか倦怠とイライラした殺気を含み始めていた。
その小田原の陣中において、関白・豊臣秀吉の側近である奉行衆――増田長盛や長束正家らの差配する軍監陣屋から、毛利軍に対して不穏きわまる軍命が下されようとしていたのである。
目標とされたのは、小早川隆景の配下に属する、筑前や山陽道から出陣してきた小早川家の直臣・数名の若い将兵と数百名の歩卒たちであった。
豊臣方の奉行衆は、小田原城の外郭に位置する「井細田口」の堅固な出城に対し、小早川の部隊を先鋒に指名し、泥沼と竹矢来で固められた敵の鉄砲狭間へ向けて強行突撃を命じようとしていたのだった。
井細田口の出城は、深い水掘と二重の土塁に囲まれ、北条方の熟練の鉄砲隊が数百挺の狭間を並べて待ち構えている屈指の難所であった。
そこに丸腰同然で突撃を仕掛けさせれば、味方の兵は泥に足を取られ、敵の鉄砲射撃の格好の標的となって、大半が命を落とすことは目に見えていた。
奉行衆の狙いは、合戦の勝利などではなかった。
長引く包囲戦の中で諸大名の緊張を保ち、北条方に対して豊臣軍の容赦なき圧迫を見せつけるための「見せしめの捨て駒」として、毛利・小早川の兵を利用しようとしていたのである。
小早川隆景の仮陣屋において、この突撃命令の噂を聞きつけた若い将兵たちは、激しい怒りと無念に震え上がっていた。
「見せしめのために、我らに犬死にをしろと申すか!」
「小早川の武士を、豊臣の威光を飾るための生贄にする気か!」
若い武者たちが太刀の柄を激しく叩き、不満を爆発させていた。
小早川隆景自身も、苦渋の表情で眉をひそめていた。
自らの手塩にかけて育ててきた大切な家臣たちを、無用な殺戮の場へ送り出すことは身を引き裂かれる思いであった。
されど、関白秀吉の奉行衆から発せられた公式の軍命を正面から拒絶すれば、「毛利は豊臣の命に従わぬ不忠の家」として糾弾され、当主・毛利輝元や毛利家全体の立場を危うくすることになる。
毛利の家を守るべき立場と、目の前で殺されようとしている家臣たちの命――。
隆景がその冷酷な板挟みの前に苦悩していた、まさにその時であった。
「小早川様、お案じ召されるな。この恵瓊が、奉行衆と直ちに掛け合ってまいりまする」
静かに名乗りを上げたのは、安国寺恵瓊であった。
恵瓊の瞳には、かつてさきの備中や安芸において、自らの過信によって人を傷つけ、あるいは泥にまみれて命を救ってきた者だけが持つ、深く澄み切った決意の光が宿っていた。
恵瓊は、小早川隆景の手を握りしめて言ったのだった。
「小早川様の命の分身たる大切な将兵を、奉行衆の面目や見せしめのために死なせてなるものか。私には関白秀吉様より与えられた『外交の全権』がございます。これより先回りし、奉行衆の理屈を叩き潰してまいりましょう」
恵瓊は紫の袈裟を風にはためかせ、智念を連れて直ちに大坂奉行衆の張る大陣屋へと向かったのである。
大陣屋の大広間においては、豊臣方の奉行・増田長盛が、手にした陣形図を前にして、冷酷な表情で小早川部隊への突撃命令書に花押を捺そうとしていた。
「増田殿。その筆をお止めくだされ」
恵瓊の重々しい声が広間に響き渡り、増田長盛は驚いて顔を上げたのだった。
「これは……安国寺様。なぜこのような軍監の場にお越しでございますか」
「小早川部隊への井細田口への突撃命、直ちに取りやめていただきたく、参上いたしました」
増田長盛は眉をひそめ、不快感を露わにして言い放った。
「安国寺様、これは関白様の小田原征伐における、正当なる軍配にございます。包囲が長引く中、北条方に豊臣の武威を示すため、西国の毛利・小早川の手勢にひと働きしてもらうことは、大局の理にございます。いかに安国寺様とて、陣中の軍命に口を挟むことは許されませぬ」
増田の言葉は、完璧な「豊臣政権の冷徹な合理的理屈」であった。
されど、恵瓊は少しも怯むことなく、冷ややかな微笑を浮かべて一歩前へ踏み出した。
「大局の理、と申されるか。……増田殿、貴殿ほどの知者が、真の大局が見えておられぬとは驚きにございますな」
「何だと……!?」
恵瓊は懐から、関白秀吉より直接与えられた「最高位外交僧」の直筆の朱印状を取り出し、増田長盛の目の前へ静かに突きつけた。
「よくお聞きくだされ。小早川隆景様率いる我が毛利の水軍と将兵は、単なる陸上の歩卒にあらず! 相模湾一帯の海路を押さえ、上方から小田原の陣へ運ばれる数十万石の兵糧米と弾薬の船団を安全に護衛するための、最も重要な『海の要』にございます!」
恵瓊は声を低くし、腹の底から響くような威厳をもって言い放ったのだった。
「いま、その小早川の熟練の将兵を、井細田口のごときぬかるみの出城で無用に削ぎ落とし、死に追いやったらどうなるか! 相模湾の海上警護に穴が開き、もし北条方の隠れ水軍や海賊どもに兵糧船が襲われ、関白様の兵糧の補給が滞るようなことがあれば……増田殿、お主はその責任を関白様へいかように申し開くつもりか!」
恵瓊の言葉は、単なる感情論や哀れみではなかった。
秀吉が最も重要視している「小田原全軍の兵糧補給の維持」と「相模湾の制海権」という最大の利害を突きつけ、奉行衆の出した突撃命令がいかに豊臣政権自身にとって害となるかを、完璧な合理性をもって解き明かしてみせたのである。
恵瓊は畳みかけるように、代わりの対案を提示した。
「小早川の部隊には、井細田口の無謀な突撃ではなく、相模湾の海上警戒と、小田原城南側の水堀の排水普請の指揮を任されよ! さすれば、兵を一人も無駄に散らすことなく、関白様の包囲網をより完璧なものとすることができましょう! ……増田殿、関白様に直接この差配の可否をお伺い立ててもよろしいのだぞ?」
関白側近たる恵瓊の圧倒的な権威と、逃げ場のない完璧な理路の前に、奉行の増田長盛は完全に言葉を失ったのだった。
もしここで意地を張り、小早川の兵を討ち死にさせて兵糧輸送に支障が出れば、秀吉の激怒を買って己の首が飛ぶのは明白であったからである。
「は、ははっ……! 誠に安国寺様のおっしゃる通りにございます! 某の差配の不手際にございました! ただちに小早川部隊への突撃命令を取り消し、海上警護と水路普請への変更を命じまする!」
奉行は平伏し、震える手で即座に突撃命令書を破り捨てたのだった。
恵瓊の命がけの先回りと、見事な外交交渉によって、死地へ追いやられようとしていた小早川隆景配下の数千の将兵たちの命は、間一髪で完全に救い出されたのである(救済管理表の救済成功)。
陣屋を出たのち、突撃を免れた小早川家の若い武者や兵たちは、恵瓊の目の前にひれ伏し、涙を流して感謝したのだった。
「安国寺様……! ありがとうございます! 我らはてっきり、見せしめに犬死にさせられるものと覚悟しておりました! あなた様のおかげで、生きて故郷の家族のもとへ帰ることができまする……!」
兵たちの血の通った温かな手と涙に触れながら、恵瓊は胸の奥で静かな安堵をかみしめていた。
かつて「権力の味」に酔いしれて失敗した己であったが、いまや己の持つ言葉と立場を、真に人の命を守るための「盾」として使いこなすことができたのだ。
その夜、小早川隆景の仮陣屋において、隆景と恵瓊の二人は、二人きりで静かに酒杯を汲み交わしていた。
外では、初夏の夜風が陣幕を優しく揺らし、遠く小田原城の篝火がぼんやりと光っていた。
隆景は酒を飲み干すと、深く頭を下げ、感極まった声で恵瓊に礼を述べたのだった。
「安国寺殿……我が手塩にかけて育てた兵たちの命を救ってくれたこと、心より感謝いたす。其方のその『眼』とお言葉がなければ、わしは忠臣たちを無惨に死なせるところであった。……其方は真に、毛利の命綱じゃな」
「滅相もございませぬ、小早川様。すべては毛利の家をお守りするための務めにございます」
恵瓊が静かに応じると、隆景はふっと表情を曇らせ、遠く夜の空を見つめたのだった。
そして、重々しい声音で、不穏な懸念を静かに漏らしたのである。
「されど……恵瓊。わしは恐ろしいのだ」
「何がでございますか、小早川様」
隆景は膝の上の拳を固く握りしめ、恵瓊の目を直視して言ったのだった。
「この小田原が落ちれば、日本国中から秀吉殿に敵する大名は完全にいなくなる。……泰平が訪れるはずなのだ。されど、最近の秀吉殿の目を見ていると、その瞳はもはや日本の内など見ておらん。……海の向こうの遠く……明国や朝鮮といった異国へと、その野望が向き始めているように思えてならんのだ」
隆景の声は、激しい震えを帯びていた。
「もし秀吉殿が、国内の抑えきれぬ大名どもの武力を外へ向けるため、『唐入り(海外出兵)』を強行されたならば……今度こそ、我が毛利も、そして日本中の何十万という民も、未曽有の地獄へ引きずり込まれることになろう……」
隆景のその言葉を聞いた瞬間、恵瓊の全身に、冷たい戦慄が走った。
前世の記憶――。
小田原征伐のあとに待っている、あの悲惨きわまる「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)」の惨劇の影が、いま隆景の口から、生の現実の予感となって語られたのである。
天下統一という巨大な光の向こう側に、さらに巨大で、さらに凄惨な「海外への暴走」という地獄が待ち構えているのだ。
「……小早川様。どのような嵐が迫ろうとも、私は輝元様とお主様をお支えし、毛利の船を絶対に沈ませはいたしませぬ」
恵瓊は力強い声で答え、隆景の盃に静かに酒を注いだのだった。
隆景は頷き、恵瓊と静かに視線を交わした。
小田原の夜の闇の向こうから、波の音が深く響いていた。
目の前の命を救い出しながらも、外交僧・安国寺恵瓊は、これから訪れるであろう豊臣政権のさらなる巨大な影を見つめ、静かに己の胸の中に、次なる戦いへの覚悟を刻み込んでいくのだった。




