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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第78話:柴田残党の逃亡

第78話:柴田残党の逃亡


 天正十一年、五月初旬。安芸国の吉田郡山城において当主・毛利輝元の決意が固まり、毛利家が羽柴秀吉への完全なる恭順へと舵を切ってより数日、安国寺の境内は静かな夜気の中に沈み込んでいた。


 新緑を揺らす初夏の風が杉木立を通り抜け、古いお堂の瓦屋根を優しく撫でていく。

 書斎の文机の前において、安国寺恵瓊は一人行灯の灯火の下で、翌朝に迫った上方(大坂)への出立の支度を整えていた。


 懐には、毛利輝元と小早川隆景から託された、秀吉への恭順を示す血判の起請文と、毛利領国の安堵を請うための外交文書の控えが収められていた。

 恵瓊に与えられた使命は、毛利四万の家臣の命と十カ国の領国の未来をその両肩に背負い、天下人となった羽柴秀吉と直接対峙して、確実な領国安堵の約定を取り付けてくることであった。


 これから向かう上方の大坂や京都は、天下を握った秀吉の全能感が満ち溢れ、最高参謀たる黒田官兵衛の知謀と、さきに備中で目にしたあの冷徹な若き石田三成の「理」が渦巻く、最大の権謀術数の魔窟である。

 一言の失言、一瞬の弱気が、毛利の滅亡に直結する死の舞踏となることは疑いようがなかった。


「清水殿……毛利の家臣団はひとつにまとまりましたぞ。明日、私が上方へ乗り込み、貴方が命を賭して守られた毛利の船を、何があろうと繋ぎ止めてみせまする」

 恵瓊は文机の上に置いた数珠を強く握りしめ、静かに目を閉じた。


 その時であった。


 安国寺の静まり返った境内の裏手から、コト……コト……と、破れかけた木戸を叩くかすかな音が響いてきた。

 風の音とも思えぬ、躊躇いがちに叩くその音は、どこか切羽詰まった人間の悲鳴の気配を帯びていた。


 恵瓊は立ち上がり、静かな足取りで廊下へ出た。

 身の回りを世話する若い修行僧の智念が、行灯を手にして怯えた表情で駆け寄ってきた。

「住職様、このような夜更けに裏門を叩く者がおります……。人目を忍ぶような怪しげな気配にございますが」

「案ずるな、智念。私が改めよう」


 恵瓊は智念を従え、漆黒の闇に包まれた裏門へと向かった。

 鍵を外し、重い木戸をギギと静かに開くと、そこには月光の下で地に這いつくばるようにして倒れ込んでいる、数名の男女の姿があった。


 身に纏う着物はボロ布のごとく引き裂かれて泥と乾いた血で黒ずみ、全身から強い汗と血の匂いが漂っていた。

中には、右足に深い刀傷を負って熱に浮かされ、息も絶え絶えにうわ言を漏らしている中年の男と、その男にしがみついて声を殺して泣いている若い妻、そして恐怖に目を丸くして震える数歳の幼い子供の姿があった。

さらに、その脇には脇差を握りしめ、恵瓊たちを警戒する目で見上げる傷ついた若い武者の姿があった。


「な、何者だ……! 命ばかりはご勘弁くだされ……!」

若い武者が膝をガクガクと震わせ、必死に頭をこすりつけた。


恵瓊はすっと前へ進み出ると、網代笠を脱ぎ、穏やかで澄んだ声で語りかけた。

「安心されよ。私はこの安国寺の住持・恵瓊である。仏門の寺に刃を向ける者はいない。……怪我をしておられるな。まずは中へ入られよ」


恵瓊の温かな言葉に、張り詰めていた緊張が切れたのか、若い武者はその場に崩れ落ち、ボロボロと涙を流した。

智念と手分けして彼らを裏手の仮陣屋へ引き入れ、温かい白湯を含ませると、若い武者は絞り出すような声で自らの身振りを明かしたのである。


「……安国寺様、隠しても仕方がございませぬ。我らは越前北ノ庄城にて、柴田勝家様に仕えておった下級の武士にございます……」


男の言葉に、傍らにいた智念が息を呑んだ。

男は血の滲む唇をかみ締め、悔し涙を流しながら続けた。


「さきの北陸・賤ヶ岳の合戦において我が柴田軍が敗れ、勝家様が北ノ庄の天守で火を放って自刃されたのち、羽柴秀吉の残党狩りの手が凄まじい勢いで越前中に伸ばされました……。我らのような末端の者であっても、柴田の血に連なる者は容赦なく捕縛され、首を跳ねられておるのです。我らは追手の目を逃れるため、着の身着のままで山あいの落ち道(山道)を伝い、西へ西へと逃げてまいりました……。どうか、どうか命ばかりは助けてくだされ……!」


男は畳に額をすりつけ、血を吐くように平伏した。

妻も幼子を胸に強く抱きしめ、声を殺して哭いた。


その報告を聞いた瞬間、智念が顔色を青ざめさせ、恵瓊の耳元で叫ぶように囁いた。

「じ、住職様! 大変なことでございます! この者たちは、羽柴秀吉様から追われている大罪人・柴田の残党にございますぞ! 明朝、住職様は秀吉様のもとへ毛利の恭順を伝えに出立されるのです! もしこの残党を安芸の寺に匿ったことが秀吉方の奉行に知れれば、毛利は柴田の残党と通じて謀反を企んでおると疑われ、恭順の交渉どころか、毛利の家そのものが羽柴の大軍に踏み潰されまする!」


智念の言うことは、政治の算盤としては、寸分の狂いもなく正しかった。

明日、秀吉へ恭順の手形を差し出しに行く外交僧の立場からすれば、この柴田の残党を即座に捕縛し、秀吉への「手土産」としてその首を差し出すか、あるいは直ちに寺の外へ追い払うことこそが、最も正しく、毛利家を守るための合理的な選択であったからである。


もし秀吉の耳に入れば、毛利輝元の決意も、和睦の起請文もすべて反故とされ、毛利家は破滅する。

恵瓊自身も、冷徹な石田三成や黒田官兵衛によって即座に罪を問われるだろう。


されど――恵瓊の視線は、若い妻の胸の中で怯えて震える、幼い子供の小さく冷たい手へと注がれていた。


その泥にまみれた小さな手を目にした瞬間、恵瓊の胸の奥で、かつてさきの備中高松城の濁流の中で己の指先から滑り落ちていったあの漁師の子供・太郎の手の感触が、強烈な痛みとともに蘇ってきた。


秀吉の天下統一という巨大な歴史のうねりを止めることはできない。

柴田勝家が討たれ、秀吉が覇者となる現実を変えることもできない。

されど――政治の算盤のために、いま目の前で助けを求めて怯えているこの幼子と、傷ついた生身の命を切り捨てて秀吉に差し出すことなど、人として、そして仏门の僧として、絶対に許されてなるものか。


知識をもって天下を救えず、数々の惨劇を防げなかった己であっても、いま己の手の届く場所にある命だけは、絶対に死なせはしない。

それこそが、前世の知識という呪縛を捨て、泥にまみれて生きてきた恵瓊が、人間として踏みとどまるための、唯一の不退転の誓いであった。


「智念、控えよ」

恵瓊の声は、静かでありながら、一切の反論を許さぬ恐ろしいほどの重みを帯びていた。


「じ、住職様……!」

「この者たちは、戦から逃れてきた敗残兵などではない。ただの道中で行き倒れた哀れな旅の百姓夫婦だ。よいか、この安国寺の境内において、罪人などどこにもおらぬ」


恵瓊は智念の目を見つめ、力強く言い含めた。

「智念、急ぎ薬湯を沸かし、傷の手当ての支度をせよ。それから、蔵から米を出し、温かい粥を作ってこの者たちに振る舞うのだ。……このことを、毛利の役人や寺の他の者にも、決して口外してはならぬ」


智念は恵瓊の尋常ざる気迫に圧倒され、青ざめながらも深々と頭を下げて奥へと走った。


恵瓊は柴田の残党の男の前へ膝をつき、自らの手で温かい手ぬぐいをとって、傷ついた男の顔の汚れを丁寧に拭った。

「安心されよ。追手の手はここまでは届かぬ。今宵は温かい粥を食べ、足を休められよ」


男は信じられないものを見るような目で恵瓊を見上げ、やがて顔を泥に擦り付けて声を出して泣いた。

「……御恩は……この御恩は、生涯忘れません……!」


恵瓊は手際よく救済の手はずを整えた。

彼らを寺の裏山にある、人目の届かぬ樵(きこり)の隠れ小屋へと密かに匿い、傷が癒えるまでの十分な米と薬を手配した。

さらに、彼らの武具や刀をすべて手放させ、寺の境内の奥深くの土中に埋めさせると、髪を切らせて粗末な農民の着物を与えた。


そして、安芸と石見の国境近くにある山深い開墾村の長へ宛てて、一通の密書をしたためた。

毛利の直轄地から遠く離れたその村で、彼らが名前を変え、「土を耕す農民」として静かに家族で生き延びていけるよう、裏から完全な生活の差配を整えたのである。


数日後、傷が癒えた一家は、恵瓊の手配した荷車に乗り、山奥の村へと向けて旅立っていった。

去り際、幼い子供が恵瓊へ向けて駆け寄り、その小さな手で恵瓊の法衣の袖をぎゅっと握りしめた。

「お坊様、ありがとう……!」

「健やかに育ちなされ。土を耕し、たくましく生き抜くのだぞ」

恵瓊が優しく頭を撫でると、母親と男は涙を流して深く平伏し、静かに去っていった。


間一髪で、一つの家族の命が、激しい粛清の刃から完全にすくい取られたのである(救済管理表の救済成功)。


翌朝、天正十一年五月中旬。

東の空が鮮やかな朱色に染まる頃、安国寺の山門前に、旅装を整えた安国寺恵瓊の姿があった。


供を務めるのは、若い智念一人だけであった。

馬に乗り、瀬戸内の港へと続く山道を歩み始めながら、恵瓊は安芸の山々を振り返った。


柴田の残党を逃がした秘密は、いまや自分の胸の中にだけ隠されている。

もしこれが露見すれば、己の身は皆殺しとなろう。

されど、恵瓊の胸の中にあったのは、恐れではなく、澄み切った静かな安堵であった。


秀吉の天下という巨大な歴史の収束を止めることはできない。

されど、自らが命と立場を賭けて足掻いたことで、あの家族の命は救われ、いまも生きて土を耕そうとしているのだ。

自分がこの時代に生き、泥にまみれて足掻くことには、確かに意味があるのだという手応えが、恵瓊の心を強く支えていた。


「さあ、参ろうか……上方へ」


恵瓊は網代笠を深くかぶり直し、馬の腹を軽く蹴った。


これから向かう先は、天下人となった羽柴秀吉と、知謀の黒田官兵衛、そして冷徹な石田三成が待つ、権謀術数の大坂城である。

毛利の家を守り、数万の民の未来を切り開くための、最高位の外交僧としての命がけの決戦が、いま始まろうとしていた。


初夏の爽やかな風が、旅立つ安国寺恵瓊の法衣を力強く揺らしていた。

恵瓊は澄み切った瞳で東の空を見据え、力強い足取りで上方への街道へと足を踏み出していくのであった。

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