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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第53話:宇喜多直家の野心

第53話:宇喜多直家の野心


 天正七年、夏から秋へ。播磨の三木城が秀吉の「兵糧攻め」によって凄惨な極限状態に陥り、海では木津川口において毛利水軍が信長の「鉄甲船」に壊滅的な敗北を喫した報せは、毛利傘下の諸国衆に激しい動揺となって広がっていた。

 なかでも、毛利家にとって最も危うい影を落としていたのは、備前・美作の二国を領し、東の防波堤として毛利と織田の境界を固めていた備前岡山城主・宇喜多直家の動向であった。


 宇喜多直家――戦国広しといえども、この男ほど凄惨で不気味な噂に包まれた武将は存在しなかった。

 主家である浦上氏を追い落として備前の一国を奪い取ったのみならず、自らの娘婿や舅、さらにはかつての恩人や味方の武将に至るまで、暗殺、毒殺、不意打ちといったあらゆる卑烈な謀略をもってことごとく殺戮し、西国一の「梟雄」として恐れられていた男である。

 直家にとって、武士の面目や義理、過去の盟約など、鼻紙ほどの価値も持たないものであった。


 その直家が、毛利の木津川口での大敗と三木城の孤立を見て取るや、露骨に毛利本国への連絡を絶ち、裏で羽柴秀吉と密使を往復させ始めたという情報が、安楽寺の恵瓊のもとへ届いたのである。

 もし備前の宇喜多が毛利を裏切って織田へ寝返れば、毛利が播磨に築いてきた防衛線は一瞬にして背後から挟み撃ちに遭い、備中・備後・安芸という毛利の本領が直接織田の猛攻に晒されることになる。

 事態の切迫を悟った安芸の小早川隆景から、恵瓊へ向けて火急の命が下された。

『安国寺殿、直ちに岡山城へ飛び、宇喜多直家と対峙せよ。いかなる手立てを用いてでも、宇喜多を毛利の陣営に繋ぎ止めよ』


 命を受けた恵瓊は、休む間もなく備前岡山城へと向かった。

 旭川の清流に臨む岡山城は、黒塗りされた不気味な天守を空へ突き出し、城内にはそこはかとなく殺伐とした緊張感が漂っていた。

 すれ違う宇喜多の家臣たちの目は、一様に鷹のごとく鋭く冷ややかであり、他国からの使者に対して敵意を隠そうともしなかった。

 恵瓊は暗い廊下を通され、城の奥深くに置かれた直家の居室へと案内された。


 広間に座していた宇喜多直家の姿を目にした瞬間、恵瓊は思わず息を呑んだ。

 直家はこの年で四十代半ばを越えたばかりであったが、その身体は重い病に冒され、骸骨のごとく痩せこけていた。

 顔色は土色を通り越して浅黒く変色し、肌の表面には脂汗と皮膚のただれた不快な膿の匂いが漂っていた。

 されど、その落ち窪んだ双眸の奧に宿る光だけは、獲物を狙う毒蛇のごとく不気味で、底知れぬ狂気と知謀を放っていた。


「ほう……毛利の使いが、安国寺の坊主か」

 直家はかすれたダミ声で笑うと、痩せた腕を伸ばして膝の上の薬湯の入った湯飲みを手にした。

 その口元には、へらへらとした不気味な薄笑いが貼り付いていた。

「安芸の隆景殿も、随分と面白い使者を寄こされたものだ。わしのごとき悪名高き毒殺者に、仏門のありがたい御高説でも聞かせに来られたか」


 恵瓊は直家の放つ独特の威圧感と異臭に気圧されることなく、静かに畳に手をついて深々と一礼した。

「宇喜多和泉守様。それがしは御高説を説きに来たのではございませぬ。毛利と宇喜多、双方の『家』を永く保つための誠の道をお話しに参りました」

「誠の道、か」

 直家は薬湯を喉へ流し込むと、クックックと背中を丸めて喉を鳴らして笑った。

「相変わらず毛利の使者は綺麗事がお好きだな。で、その誠の道とやらは、我が宇喜多の家をどう守ってくれるというのだね」


 恵瓊は膝を乗り出し、直家の目を真っ直ぐに見つめた。

「和泉守様、すでに織田方の羽柴秀吉殿より、甘き言葉の入った密書が届いていることは重々承知しておりまする。されど、どうかお考え直しくだされ。織田信長という男は、己にひれ伏した者を一時的に褒め称えはいたしますが、心の底からは決して信じませぬ。ましてや、和泉守様のごとき一代で備前を奪い取られた傑物を、信長がいつまでも放置すると思われますか」


 恵瓊は声を低くし、懇願するように言葉を重ねた。

「織田の傘下に入れば、用が済んだ後に『過去の不義』を理由に取り潰され、宇喜多の家名は一代で消し去られましょう。毛利は違いまする。毛利は宇喜多家の独立を重んじ、対等な盟友として西国の自立を共に守る誓いを立てまする。瀬戸内の制海権を取り戻し、毛利の本軍が播磨へ進めば、織田の東からの圧力など怖るるに足りませぬ。どうか、毛利との長年の誼を破棄されぬよう、切にお願い申し上げます」


 恵瓊の言葉は、外交僧として積み重ねてきた理と情の双方を注ぎ込んだ、渾身の説得であった。

 信長の冷酷さと、毛利との提携による家名の永続――それこそが武家にとって最も重要な価値であるはずだった。


 しかし――宇喜多直家は、恵瓊の言葉を最後まで聞くと、不気味な薄笑いをさらに大きく歪めた。


「ひひっ、はははははッ!」

 直家は痩せた身体を激しく揺らし、乾いた咳を吐き散らしながら大声で笑い出した。

 その笑い声には、恵瓊の説得を嘲笑い、この世のあらゆる大義名分を足蹴にするような、底知れぬ虚無と悪の美学が満ちていた。


「安国寺の和尚……貴様、わしを誰だと思っているのだ」

 直家は笑いを収めると、落ち窪んだ目をギラリと光らせ、恵瓊の顔を覗き込んできた。その吐息からは、腐臭の混じった薬の匂いが吹きつけてきた。


「わしはな、己が生き残るため、備前を手に入れるためなら、実の舅も、娘を嫁がせた婿も、長年連れ添った味方の武将も、毒を盛って殺してきた男だ。背後から太刀を浴びせ、嘘の誓紙を書いて相手を油断させ、首を跳ねてここまで這い上がってきたのだよ。そんなこのわしに向かって『長年の誼』だの『義理』だの『信義』だのと言って、心が動くとでも思っていたのかね!」


 直家は膝を強く叩き、へらへらとした態度を一変させて、地を這うような冷酷な声で言い放った。


「義理や情けで飯が喰えるか! 綺麗事で我が一族の命が守れるか! 武士が信じるのはただひとつ……いまどちらが強く、どちらにつけば生き残れるか、それだけだ!」

「和泉守様……!」


「いまの毛利を見よ!」

 直家は痩せこけた指先を、西の方角へ強く突き付けた。

「海では信長の鉄甲船に完敗して逃げ帰り、陸では三木城の別所を見殺しにして干からびさせておるではないか! 沈みかけている泥船に、誰が好き好んでいつまでも乗っておるのだ! 織田の勢いは本物だ。金もあれば、兵もおり、天下を呑み込む勢いがある。毛利が負けるのは目に見えておるのだよ!」


 直家は身を乗り出し、恵瓊の喉元へ指先を突きつけるようにして叫んだ。


「わしはな、宇喜多の家を残すためなら、仏とも、悪魔とも手を組む! 織田信長がどれほど冷酷な男であろうと構わん! 織田の足元にひれ伏し、毛利を食い破ってでも、わしはこの命ある限り、備前と宇喜多の血を守り抜いてみせる! それが、悪名を背負って生きてきた我が人生の意地というものだ!」


 恵瓊は言葉を失い、座したまま固まった。

 反論の言葉が出てこなかった。

 直家の語る言葉は、一切の虚飾を削ぎ落とした、戦国の乱世における剥き出しの「生の執着」であった。

 自らの手を血と毒で汚し尽くしてきた梟雄だからこそ辿り着いた、狂気にも似た徹底的な現実主義。

 その圧倒的な悪の美学と自己保身の論理の前には、恵瓊がどれほど「理」を説き、「情」を訴えようとも、すべては虚しい絵空事として弾き返されるだけであった。


 外交の完全なる敗北であった。

 どんなに言葉を磨こうと、どんなに真実を見極めようと、目の前にある人間の内に根深く生え渡った「業」と「生への執着」を、言葉一つで変えることなどできはしないのだ。

 恵瓊は自らの無力さを痛感し、ただ静かに頭を垂れるしかなかった。


「お引き取りくだされ、安国寺の和尚」

 直家は再びへらへらとした笑みに戻り、興味を失ったように手を振った。

「次に会う時は、合戦の場だ。毛利輝元殿に伝えておくがいい。『宇喜多は織田とともに、毛利の首を狩りに参る』とな」


 岡山城を辞した恵瓊は、重い足取りで旭川の河原を歩いた。

 秋の冷たい風が川面を吹き抜け、恵瓊の法衣を激しく揺らしていた。

 空には重い黒雲が垂れ込め、いまにも冷たい雨が降り出しそうであった。


 天正七年、十月。

 宇喜多直家は毛利家との同盟を正式に破棄し、織田信長・羽柴秀吉に対して完全な恭順を表明した。

 宇喜多の寝返り――それは、毛利家にとって最悪の破局の訪れを意味していた。


 毛利の東の最大の防波堤であった備前・美作の二国が一瞬にして敵の領域へと反転し、織田軍の進撃ルートが備中国の喉元へと一気に押し寄せることとなったのである。

 毛利が長年かけて築き上げてきた東国戦略の土台が、宇喜多直家の寝返りひとつによって完全に崩壊したのだった。


 備前と備中の国境の峠に立った恵瓊は、遠く去りゆく岡山城の影を見つめていた。

 手のひらには、説得に失敗した己の汗が冷たく乾いていた。


「言葉では……人の業は動かせぬのか……」

 恵瓊は呟き、固く目を閉じた。


 前世の知識を捨て、泥にまみれて現実に挑んできた己であったが、黒田官兵衛の知謀に阻まれ、秀吉の兵糧攻めに敗れ、そして宇喜多直家の悪の執念の前に撃ち破られた。

 歴史の巨大な崩壊の勢いは、一介の僧の足掻きなど意にも介さず、容赦なく毛利の家を追い詰めていく。


 されど――恵瓊は開いた目に、静かな決意の光を宿した。

 説得に失敗し、防波堤が崩れ去ろうとも、ここで諦めるわけにはいかないのだ。

 東の防波堤が壊れたのなら、次は備中の地において、毛利の家を守り、人々の命を救うための新たな盾を築かねばならない。


 恵瓊は網代笠を深くかぶり直し、冷たい秋雨が降り始めた街道を、備中へ向けて力強く歩み出した。

 敗北の無念を胸に抱きながら、外交僧・安国寺恵瓊の、命を懸けた新たな戦いが始まろうとしていた。

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