第49話:上月城の惨劇
第49話:上月城の惨劇
天正六年、七月半ば。上月城が落城したのちの播磨国境は、夏の容赦ない酷暑と、むせ返るような死臭に包まれていた。
千種川の河原に吹き下ろす風は、生温かい湿気とともに、焼け落ちた城郭の焦げくさい匂いと、生血が乾ききったどす黒い惨劇の気配を運んでいた。
城主・尼子勝久が腹を切り、忠臣・山中鹿之介が捕縛されて去ったのち、上月城下では毛利軍による徹底的な戦後処理――すなわち、見せしめのための容赦ない粛清が始まっていた。
吉川元春率いる山陰の毛利軍は、長年にわたり毛利の足元を脅かし続けた尼子再興軍に対し、微塵の情けもかける気はなかった。
織田方に通じた周囲の小領主や、上月城に籠城していた雑兵、さらには城内に取り残されていた尼子旧臣たちの家族に至るまで、毛利の巡邏隊によって片端から捕縛されていった。
千種川の河原には急造の竹矢来が組み上げられ、そこには数百人に及ぶ老若男女が、真夏の炎天下のもとで水を一口も与えられぬまま押し込められていた。
竹矢来の中からは、渇きと恐れに狂う人々の呻き声と、母親に抱かれた幼子たちの泣き叫ぶ声が絶え間なく漏れ聞こえ、その周囲を無数の金バエが黒い塊となって飛び交っていた。
安楽寺から本陣近くの仮設の薬護所へ出向いていた恵瓊は、その地獄のような光景を前にして、胸が締め付けられるような激しい吐き気を覚えていた。
武将たちが誇る「戦勝」の裏側で繰り広げられるのは、いつも変わらぬ名もなき弱者たちの血と涙の惨劇である。
吉川元春の配下の武者たちは、竹矢来の外側から槍の柄で囚人たちを小突き、嘲笑を浮かべながら処刑の準備を進めていた。
明朝には、彼ら全員が河原に並べられ、織田方への威せとして見せしめの頸を刎ねられる手はずとなっていたのである。
恵瓊は日没を待ち、身に纏う黒い法衣の裾を小さく端折ると、安楽寺の若い修行僧・智念とともに、竹矢来の設置された河原の裏手へと密かに足を運んだ。
その場所は、千種川の支流が注ぎ込むうっそうとした竹林の陰にあり、毛利軍の番兵たちの目が届きにくい暗がりとなっていた。
恵瓊の目的は、毛利の軍律を侵してでも、竹矢来の中に囚われている無辜の女子供を秘かに逃がすことにあった。
竹矢来の隙間に顔を近づけると、竹の格子越しに、泥と汗にまみれた数名の女子供の姿が見えた。
中には、かつて上月城の城下に住んでいた尼子旧臣の若い妻と、その胸に抱かれた数歳にしかならぬ幼い男児の姿があった。
男児は過酷な暑さと恐怖でぐったりと頭を垂れ、渇いた唇をかすかに震わせながら「あか、みず……」とうわ言を漏らしていた。
その小さな泥だらけの手を見た瞬間、恵瓊の脳裏に、かつて足守川の濁流の中で己の指先から滑り落ちていったあの漁師の子供・太郎の冷たい手が、激しい痛みを伴って鮮やかに蘇った。
「これ以上……目の前で幼い命が踏みにじられるのを、黙って見過ごすわけにはいかぬ」
恵瓊は固く歯を食いしばり、竹矢来の結び縄に小刀を差し入れた。
麻縄を切り裂き、太い竹を数本外すと、大人の身体がようやく一人が通り抜けられるほどの小さな穴が穿たれた。
「静かにしなされ。声を上げてはならぬ」
恵瓊が穴の向こうへ手を差し伸べると、怯えていた母親は奇跡を見るような目で恵瓊を見上げ、幼子をきつく抱きしめながら、這うようにして竹矢来の外へと抜け出してきた。
恵瓊の背後に待機していた智念が、用意していた竹筒の水を母親と子供に含ませ、濡らした手ぬぐいで男児の熱い額を冷やした。
続いて、傷ついた老婆と、その孫と思われる十歳ほどの少女が、恵瓊の手を借りて静かに外へと脱出してきた。
しかし、まさに五人目の母親が竹穴から抜け出そうとした、その時であった。
「誰だ! そこで何をしている!」
竹林の闇を切り裂くように、荒々しい怒号が響き渡った。
松明の炎が赤々と燃え上がり、草むらを押し分けて現れたのは、吉川元春の直属部隊である巡邏隊の武者三名であった。
武者たちは抜き身の太刀を掲げ、刃に月光を反射させながら、殺気を露わにして恵瓊たちへと躍りかかってきた。
「曲者だ! 尼子の残党を逃がそうとしているぞ! 斬り捨てろ!」
智念が恐怖のあまり悲鳴を上げ、脱出しかけた女子供たちが震え上がって地面に伏した。
絶体絶命の危機であった。
いまここで毛利の兵に斬り捨てられれば、恵瓊の命も毛利家での立場も一瞬にして潰え去る。
されど、恵瓊は逃げなかった。
網代笠を脱ぎ捨てると、ゆったりとした動作で法衣の袖を広げ、抜き身の太刀を突きつけてくる武者たちの前に、仁王立ちとなって立ちはだかった。
「控えよ!」
恵瓊の口から発せられたのは、腹の底から響き渡るような、恐るべき威厳に満ちた大喝であった。
その圧倒的な気迫と声の重みに、躍りかかろうとした武者たちの足が、思わずピタリと止まった。
「……な、何者だ! 坊主、死にたいのか!」
一番手の武者が太刀を構え直しながら叫んだが、恵瓊は一切動じることなく、澄み切った鋭い眼差しで武者の目を真っ直ぐに見据え返した。
「それがしは、小早川隆景様および当主・毛利輝元様より播磨の検地と戦後処理の差配を委ねられた外交僧・安国寺恵瓊である!」
恵瓊は懐から、毛利家の鮮やかな朱印が捺された取次手形を取り出し、松明の光にかざして突きつけた。
武者たちは手形の朱印を目にし、思わず息を呑んで顔を見合わせた。
安国寺恵瓊の名は、毛利家中において知らぬ者のない名であったからだ。
「安国寺殿……? なぜこのような夜陰に、囚人の死囲いにおられるのだ!」
恵瓊は一切の動揺を表情に見せず、むしろ侮蔑すら込めた冷ややかな声で言い放った。
「愚か者め! 我が振る舞いの真意すら分からぬか! この竹矢来の中に押し込められた者どもの中に、重しき熱病(疫病)を発している者がおるのを知らんのか!」
「熱病……でございますか?」
武者たちが顔色を変え、一歩後ずさった。戦場における疫病の伝染は、何よりも恐れられる災厄であったからだ。
「さようだ! 猛暑のなかで水を絶たれた囚人どもの間に、赤腹と熱病が広がり始めておるのだ! これを放置して明朝まで河原に置けば、病は瞬く間に毛利の陣営全体へと広がり、数万の将兵が倒れることになろう! それがしは小早川様の命を受け、感染の恐れのある女子供を事前に引き離し、寺の薬草園へ隔離して手当てを行おうとしておったのだ!」
恵瓊の言葉には、一切の淀みがなく、堂々たる説得力が満ちていた。
彼は嘘をついているのではない。外交僧として培ってきた圧倒的な弁舌と威厳をもって、目の前の武士たちの恐れ(疫病)を正確に突き、自らの行為を「毛利軍を守るための正当な処置」へとすり替えたのである。
「それを知らずに太刀を向け、我が処置を邪魔立てすると申すか! 感染が広がって毛利軍が害を被ったならば、吉川元春様、小早川隆景様にいかように申し開くつもりか! 納得がいかぬというのなら、いま直ちに私とともに小早川様の本陣へ参り、裁きを仰ごうではないか!」
恵瓊が前へ一歩踏み出すと、武者たちは気圧され、互いに顔を見合わせながら太刀をサヤへと納めた。
「……い、いや、安国寺殿のお考え、深く納得いたしました。我らの無礼、平にお許しくだされ」
「分かればよい。この者たちは私が引き取る。お主たちは他へ巡邏に向かわれよ」
「ははっ!」
武者たちは平伏するように頭を下げると、逃げるようにして竹林の奥へと去っていった。
武者たちの足音が完全に消え去ったのを確認すると、恵瓊は深く張り詰めていた息を吐き出し、額から滝のように汗を流した。
智念が膝をガクガクと震わせながら駆け寄ってきた。
「す、住職様……恐ろしいまでの弁舌にございます……」
「命を懸けた嘘だ。急ぐぞ、智念」
恵瓊は救い出した五名の女子供を速やかに促し、あらかじめ手配しておいた地元の協力的な百姓の引く荷車に乗せると、竹林の裏道をとおって安楽寺のさらに奥にある山深い隠れ庵へと逃がした。
彼らには十分な米と手切れ金を渡し、髪を切って農民として静かに暮らすよう言い含めた。
間一髪で、五つの命が破滅の刃からすくい取られたのである。
しかし――翌朝、恵瓊を待っていたのは、残酷な現実であった。
東の空が白み始めると同時に、千種川の河原では、毛利軍による大規模な処刑が執り行われた。
竹矢来に残されていた数百人の投降兵や尼子旧臣の家族たちが、次々と河原に並べられ、毛利の処刑人の振るう太刀の前に、首を跳ねられていった。
河原は流れる血で赤く染まり、水面は黒ずんだ惨劇の跡をどこまでも流し去っていった。
安楽寺の丘の上に立った恵瓊の目に映ったのは、真夏の強い日差しに照らされ、血と煙の中に濡れそぼる上月城の凄惨な天守跡であった。
恵瓊が救うことができたのは、昨夜のわずか五名の女子供に過ぎなかった。
自分の手から零れ落ち、河原で首を跳ねられていった無数の命の山を前にして、恵瓊は自らのなした救いの小ささと、歴史の持つ殺戮の巨大さに、打ち砕かれるような無力感を覚えていた。
されど――恵瓊は目を逸らさなかった。
焦げくさい風が吹き抜ける中、恵瓊は静かに泥の上に膝をついた。
法衣の裾が黒い泥に染まるのも構わず、両手を強く合わせると、静かに般若心経を唱え始めた。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄……」
声は最初は震えていたが、経を重ねるにつれ、低く、力強い響きを帯びていった。
目から溢れ出る涙が、頬を伝って乾いた泥の上に落ち、小さな湿り気を作っていく。
救えたのは、わずか五人。
されど、その五人の命は、確かにいまも生きて山奥の庵で呼吸をしているのだ。
歴史の巨大な殺戮を止めることはできず、上月城の惨劇を防ぐこともできなかった。
されど、己が足で走り、命を懸けて言葉を弄したことで、繋ぎ止められた命が確かにある。
全土を救う英雄にはなれずとも、この泥まみれの両手で掬い取れる命がある限り、自分は歩みを止めない。
滅びゆく者たちの無念を胸に刻み、生き残る者たちのために、一人の外交僧として、一人の人間として、この乱世の激流に抗い続ける。
恵瓊の誦経の声は、血に染まる千種川の流れと重なり合いながら、どこまでも、どこまでも播磨の空へと響き渡っていった。
落日の光が、祈りを捧げる僧の背中を、悲しくも力強く照らし出していた。




