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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第45話:見えぬ崩れ

第45話:見えぬ崩れ


 天正五年、初春。六甲の山塊から吹き下ろす刺すような北風が、安楽寺の古びた甍を激しく震わせ、境内に立ち枯れた木々の枝を容赦なく揺さぶり続けていた。

 鉛色の雲が低く垂れ込め、いまにも雪を孕んだ冷雨が降り出しそうな空模様であった。障子の隙間から忍び込んでくる冷気は、客殿の畳を底冷えさせ、火鉢の炭火の周りにしか温もりを残さない。


 前日の夕刻、安芸の本国より駆け込んできた飛脚が手渡した一通の密書は、恵瓊の心をさらに深い沈黙へと沈め込ませるに十分な内容を含んでいた。

 密書によれば、織田信長より西国征伐の全権を委ねられた羽柴秀吉、そしてその参謀たる黒田官兵衛が、ついに大軍を率いて播磨への本格的な侵攻を開始したという。

 秀吉らの手口は、これまでのどの武将よりも神速であり、かつ冷徹であった。

 莫大な資金力を背景に、播磨の国衆や小領主たちへ向けて怒濤の調略文書を送りつけ、確実な所領安堵と莫大な恩賞を提示して、各地の防衛線を戦わずして崩しにかかっていたのである。


 それに対し、西の毛利本国の動きはあまりにも重く、後手に回っていた。

 安芸の吉田郡山城で開かれた評定では、当主・毛利輝元のもと、山陰を統べる吉川元春と、山陽を統括する小早川隆景の間で、出兵の規模や時期を巡る議論が紛糾していた。

 元春は即座に数万の大軍を播磨へ進め、織田と正面決戦を試みるべきだと主張したが、隆景は織田の兵力の巨大さと後方の安定を見極めるべきだと慎重論を崩さず、結果として本国の兵はいまだ一歩も安芸の境を出ていなかったのである。

 恵瓊は灯火の前で密書を折りたたみ、静かに瞼を閉じた。

 安芸の重い腰と、秀吉・官兵衛の疾風怒濤の動き。その圧倒的な速さの差が、いま播磨という国を内側から崩壊させようとしている。


 翌日の昼前、客殿に一人の老武士が通された。

 以前、「城を持たぬからこそ国が見える」と恵瓊に励まされ、赤松旧臣の草の根の情報を恵瓊に寄せ続けてくれていた、あの老臣であった。

 しかし、この日現れた老人の顔には、かつての力強い面影はなく、深く思い詰めたような重い疲労と苦悩の影が刻み込まれていた。

 若い修行僧・智念が静かに茶を置いて下がると、老臣は周囲の気配を確認するように鋭い視線を走らせ、やがて絞り出すような低い声で口を開いた。


「安国寺殿……播磨の風向きが、いよいよもって怪しくなってまいり申した」

「赤松殿、東の動きにございますか」

「さよう」

 老臣は膝の上の拳を強く握りしめた。

「羽柴秀吉と黒田官兵衛の調略は、まさに悪魔の如き速さでござる。東播磨の小領主どもが、昨日までの毛利への誓紙を反故にし、次々と夜陰に乗じて織田方へ寝返っておるのだ。彼らは戦う前から戦意を挫かれ、織田の差し出す金銀と手形に飛びついておる」


 老臣は身を乗り出し、恵瓊の目を穴のあくほど見つめえ返した。その瞳には、血を吐くような切実な問いが宿っていた。

「安国寺殿、貴僧の口から、嘘偽りのない真実を聞かせていただきたい。毛利様は……毛利様は、本当にこの播磨へ大軍を率いて動いてくださるのか! 我ら赤松の旧臣や播磨の国衆は、このまま命を賭して毛利様を信じ続けるべきなのか。それとも……一族が皆殺しにされる前に、道を改めるべきなのか!」


 その問いは、己の命のみならず、彼を慕う多くの旧臣やその家族の生死を賭けた、あまりにも重いものであった。

 外交僧としての立場に照らし合わせれば、答えるべき言葉は決まっていた。

『毛利の大軍はすぐさま動く。毛利の義を信じ、最後まで織田に抵抗せよ』と力強く騙り、彼らを毛利の防波堤として使い潰すことこそが、安芸の本国から遣わされた使者としての正しい振る舞いであった。


 しかし、恵瓊はその嘘の言葉を、どうしても口にすることができなかった。

 目の前に座る老臣のひび割れた手と、震える肩。そして、この播磨の地がいずれ血で血を洗う焦土と化し、三木城をはじめとする各地で凄惨な城攻めや兵糧攻めが繰り広げられるという、拭い去れぬ破滅の予感が、恵瓊の喉を激しく締め付けたからである。

 前世の知識を焼き捨てたとはいえ、この播磨の地でこれから起きるであろう悲劇の大きさを、恵瓊の直感は冷酷なまでに察知していた。


 恵瓊は長い沈黙を守った。客殿の中に、北風が板戸を揺らす音だけが空虚に響いていた。

 やがて、恵瓊は静かに目を伏せ、外交僧としての仮面を自ら脱ぎ捨てた。


「……赤松殿」

 恵瓊の声は低く、しかし驚くほど静かであった。

「これから先、もしこの播磨の地に、逃げ場のない凄惨な戦火が及ぶようなことがあれば……どうか、陣立ての最前線に立って深追いなどなさるな」

 老臣がハッと息を呑み、目を見開いた。恵瓊は言葉を重ねた。

「武門の名誉や昔日の恩義のために、一族の血を無用に散らしてはなりませぬ。一族を速やかにまとめ、兵を後方へ引き、何よりもまず『家』を残し、『命』を繋ぐことだけをお考えくだされ。泥をすすってでも生き延びることこそが、真の誇りにございます」


 それは、味方の軍勢を鼓舞すべき外交使節としては、完全なる職務の放棄であり、裏切りに等しい言葉であった。

 されど、恵瓊には、自分を信じて真実を求めてきたこの老武士を、虚妄の期待で死地へ追いやることなど到底できなかったのだ。

 老臣は驚愕と戸惑いが交錯する表情で、目の前に座る異色の僧を凝視した。

 毛利が勝つという保証は何一つ得られなかった。しかし、恵瓊の言葉の奥底にある、自分たちの命を心から案じる切実な真情が、老臣の胸に深く届いたのは明らかであった。


 老臣はしばらく言葉を失っていたが、やがて何かを悟ったように深く息を吐き出すと、畳に手をついて頭を下げた。

「……安国寺殿。貴僧もまた、この播磨の未来に横たわる『何か』に、深く怯えておられるのだな」

 立ち上がり、部屋を出ていく間際、老臣はもう一度だけ振り返り、独り言のようにぽつりと呟いた。その背中が寒風の吹く廊下へと消えていった後も、その一言は恵瓊の胸の奥に、消えぬ鈍い痛みを残し続けた。


 その日の昼下がり、今度は瀬戸内の海を仕切る、あの欠けた耳を持つ老船頭が客殿を訪れた。

 船頭は上方の市場から仕入れてきたという珍しい甘刺しの菓子を懐から取り出し、機嫌良く笑いながら自慢話を始めた。

「安国寺の御坊様、近頃は上方との商いが儲かって仕方がねえですよ。織田方の役人どもは威張っちゃおりますが、銭払いが良くて関銭も取らねえ。おかげで兵庫や高砂の湊の蔵は、上方からの高価な荷で溢れかえっておりますわ」


 豪快に笑う船頭の顔を見つめながら、恵瓊の胸の奥には、薄寒い胸騒ぎが広がっていた。

 彼らは気づいていないのだ。その景気良い銭のやり取りの裏側で、やがて海も陸も戦火に包まれ、港町が焼き払われる日が刻一刻と近づいていることに。

 恵瓊は茶碗を置き、真顔で老船頭を見つめた。


「船頭殿。商いが繁盛するのは結構なことだが……高価な荷を、一つの湊の蔵にばかり集めて積んでおくような真似は、ゆめゆめなさるな」

「へ? なぜでござんす。荷はまとめて置いた方が引き取りの手間が省けますが」

「それから」

 恵瓊は声を潜め、船頭の目を見据えた。

「手に入れたその豊かな銭を使って、ご家族を……とりわけ女房殿と幼子たちを、潮の香りの届かぬ少し内陸の山あいの村へ、早めに移しておきなされ」

 船頭は「いくらなんでも縁起でもねえ」と大声で笑おうとしたが、恵瓊の瞳の奥にある尋常ざる暗い切迫感に気づき、言葉を飲み込んだ。


「御坊様……本気で言っておられるのかい」

「本気だ。理由は問うな。私にはどうにも、近々この播磨の海と陸で、大いなる災厄が弾ける嫌な予感がしてならぬのだ。昔の立ち回りで左の耳を失うだけで済んだなら運が良かったと言えようが、次に戦乱が起きれば、耳どころか命が飛ぶぞ」

 船頭は欠けた耳たぶを太い指で無造作に掻きながら、気味悪そうに身をすくめた。

 しばしの沈黙の後、船頭は真顔になってぽつりと漏らした。

「実を言いますとね、御坊様。わしもここ数日、湊の空気におかしな居心地の悪さを感じておったのです。銭は回っておりますが、兵糧米の値が妙に跳ね上がり、上方から降りてくる武者どもの目つきが殺気立っておる。……分かりました。女房と子供だけでも、身内のいる山奥へ避難させておきますわ」


 船頭が重い足取りで去っていった後、客殿には恵瓊一人だけが取り残された。

 夕闇がしんしんと寺を包み込み、行灯の灯火がぽつりと部屋を照らしている。

 恵瓊は文机の上に大きく広げられた播磨の地図を見つめ続けた。


 そこには、二年間の歳月をかけて書き足してきた、銭の道、米の流れ、人心の網の目が緻密に描かれていた。

 しかし、その美しい地図の上が、いまや目に見えぬ「崩れ」によって侵食され始めている。

 東から押し寄せる羽柴秀吉と黒田官兵衛の調略。

 安芸の本国の重い腰と出兵の遅れ。

 恐怖に脅え、水面下で一つ、また一つと毛利から離れていく国衆たちの心。

 そして、何も知らずに目先の利益に酔いしれる民や商人たち。


 大局の流れを止めることはできない。

 秀吉の侵攻も、播磨が戦火に包まれることも、己の一言で防ぐことなどできはしないのだ。

 知っている知識すら焼き捨てた自分は、ただの無力な一僧に過ぎない。

 しかし――恵瓊は固く拳を握りしめた。

 歴史の大きな崩れを止めることはできずとも、自分を頼ってきたあの老臣の一族や、あの老船頭の家族の命だけは、崩れゆく破滅の隙間から掬い上げることができるかもしれない。

 全土を救う英雄にはなれずとも、目の前にある小さな命の灯火を守ること。それこそが、この狂った乱世において恵瓊が人間として踏みとどまるための、唯一の抗いなのであった。


 外では風が一段と激しく吹き荒れ、播磨の夜を冷たく叩いていた。

 見えぬ破滅の足音が、すぐそこまで迫っていた。恵瓊に行灯の火を見つめながら、静かに、そして深く念仏を唱え始めていた。

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