表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/36

第14話:末席の書記

第14話:末席の書記


 陶晴賢の最期から三か月余り。

 夏の日差しが安芸の山野を白く照らす朝、志道は一騎で安国寺へ現れた。

 「来い。書記の務めじゃ」

 言葉はそれだけだった。

 恵瓊は住職に一礼し、草鞋の紐を締め直す。

 その背へ向け、老僧は読経を止めぬまま静かに告げた。

 「戻るな」

 一瞬、意味を測りかねて振り返る。

 「館に心を置いてくるなということじゃ。僧は権勢に仕えるものではない。仏に仕えるものよ」

 「……肝に銘じます」

 深く頭を下げ、山門を後にした。

 毛利の館は勝利の熱気に包まれていた。

 武士が駆け、使者が行き交い、庭先では馬の嘶きが絶えない。厳島での奇跡的勝利は近隣諸国を震わせ、日ごとに新たな書状が運び込まれていた。

 恵瓊は書記衆の末席へ座る。

 出入口に近い隅の机。風だけはよく通る場所だった。

 「今日から外交の記録も任せる」

 志道が短く命じる。

 「余計な口は利くな。ただ見て、書け」

 「承知いたしました」

 最初の相手は尼子方の使者だった。

 厳島の敗報を聞いた尼子は、なお毛利の勢力を測りかねている。広間に流れる空気は静かだが、刀を抜かぬ戦そのものだった。

 元就は柔らかな笑みを浮かべる。

 「急ぐ必要はあるまい。国は焦った者から滅びる」

 使者は慎重に応じる。

 「我が主も安芸との争いを望んではおりませぬ」

 「ならば互いに兵を休めよう。時が来れば、また考えればよい」

 威圧でも恫喝でもない。

 相手の胸にある不安へ静かに寄り添い、それを自らの都合のよい方向へ導いていく。

 恵瓊は筆を走らせながら思う。

 未来を知ることと、人を動かすことは違う。

 自分は尼子がいずれ滅ぶ歴史を知っている。だが、この場で相手の表情一つから迷いを読み取り、言葉を選び抜く元就には到底及ばない。

 交渉が終わると、元就は記録を差し出させた。

 「ここだ」

 一行を指で叩く。

 「『主君は笑われた』とある。この笑いの意味は何だ」

 恵瓊は慎重に答えた。

 「相手を安心させ、警戒を緩めるための笑みかと」

 元就は一瞬だけ目を細めた。

 「半分は正しい」

 そして静かに続ける。

 「残り半分は、わし自身のためじゃ」

 「ご自身の……」

 「人は笑えば、自分も落ち着く。敵ばかり読もうとするな。己の心も操れねば戦はできぬ」

 その言葉は恵瓊の胸に深く刻まれた。

 心理を読むだけでは足りない。

 自らの恐れすら武器に変える。

 それが毛利元就という男だった。

 その後も交渉は続いた。

 国人衆との盟約。

 旧大内方への帰順勧告。

 捕虜交換の条件整理。

 元就は相手ごとに人格を変えるかのようだった。

 強者には低く出て油断を誘い、弱者には毅然と振る舞う。迷う者には期限を示し、焦る者には時間を与える。

 恵瓊は書き留め、分析し、夜ごと反芻した。

 しかし学べば学ぶほど、自分の限界を思い知る。

 現代から持ち込んだ知識は地図や年表のようなものだ。

 だが元就が持つのは、生きた人間を動かす術だった。

 ある夕暮れ、文書整理をしていた折、元就が不意に口を開く。

 「お前の目は遠くを見ておる」

 「恐れ入ります」

 「いや、褒めておるのだ」

 老将は障子越しの西日を見つめたまま言った。

 「わしは明日と来月を考える。だが、お前は十年先、二十年先を見ておる目じゃ」

 恵瓊は返す言葉を失った。

 その通りだった。

 頭には信長の名があり、秀吉があり、家康があり、そして己が六条河原で首を刎ねられる未来まで焼き付いている。

 だが、それを誰にも語ることはできない。

 「遠くを見る者は重宝する」

 元就は続けた。

 「近くしか見ぬ者は、その場の勝ち負けしか拾えぬからな」

 その日から恵瓊は重要な交渉にも同席するようになった。

 発言は許されない。

 ただ座り、観察し、記録するだけ。

 それでも書記衆の視線は変わった。

 「若造のくせに」

 「元就様のお気に入りか」

 陰口は耳に入る。

 ある年長の書記は露骨に吐き捨てた。

 「僧が政治へ口を出すものではない。何かに取り憑かれておる」

 恵瓊は静かに頭を下げるだけだった。

 「私は僧にございます」

 「ならば経でも読んでおれ」

 反論はしない。

 幼い頃から同じ言葉を浴び続けてきた。

 未来を知る目は、理解より先に畏れを招く。

 秋の夜。

 縁側で月を眺める恵瓊のもとへ、安国寺から使僧が訪れた。

 「住職がお呼びです」

 寺へ戻ると、老僧は本堂で待っていた。

 「館で何を学んだ」

 しばし沈黙した後、恵瓊は率直に答えた。

 「自分の無力さにございます」

 住職は小さく頷く。

 「よい答えじゃ」

 「……よいのでしょうか」

 「無力を知る者は慎みを失わぬ。本当に危ういのは、自分が何でもできると思い込む者じゃ」

 その言葉は胸に染みた。

 歴史は簡単には曲がらない。

 飢饉で救えた命はあった。

 だが世そのものは変わらなかった。

 自分は英雄ではない。

 せいぜい流れの中で数人を救える程度の存在なのだ。

 館へ戻る道すがら、志道が待っていた。

 「明日から席が変わる」

 「席が?」

 「末席の書記ではない」

 志道はわずかに口元を緩める。

 「外交の場へ座れとの御意向だ。発言は不要。ただ、その目を使えと」

 胸の鼓動が速くなる。

 ついに観察者として、交渉そのものへ参加する。

 元就は自分の未来知識ではなく、人を見る目を評価しているのだ。

 「ありがたき幸せにございます」

 「喜ぶな」

 志道は空を見上げた。

 「使われるだけかもしれぬぞ」

 その言葉に、恵瓊は静かにうなずいた。

 使われる。

 それで構わない。

 歴史の大河を押し戻すことはできなくとも、その流れを間近で見届け、わずかな石を投じることくらいはできる。

 月は高く昇っていた。

 信長も秀吉も、まだ遠い未来の存在だ。

 それでも運命は確実に近づいてくる。

 六条河原の朝。

 己の首が落ちる未来だけは、今も鮮明だった。

 恵瓊は夜風を受けながら目を閉じる。

 変えられぬ流れならば、せめて最後まで見届けよう。

 その覚悟だけが、若き僧の胸中で静かに形を成していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ