第12話:元就との対面
第12話:元就との対面
夜が明けきらぬうちに、恵瓊は静かに目を覚ました。
安国寺の朝鐘は、まだ鳴っていない。薄闇の中、布団の上に端坐し、ゆっくりと息を整える。東福寺で身につけた禅の呼吸法だったが、この朝ばかりは心を鎮めるための術でしかなかった。
今日、毛利元就に会う。
その名を胸中で唱えるだけで、歴史の断片が脳裏をよぎる。厳島で奇跡ともいわれる勝利を収め、中国地方制覇への礎を築いた男。策を巡らせ、人心を読み、機を逃さぬ稀代の英傑。
そして恵瓊は、その男の前に立とうとしていた。
衣を整え、井戸水で顔を洗う。鏡に映るのは数え十六の若い僧。だが、その内には未来の断片を知る異物が潜んでいる。
館までは志道が案内した。
武士は馬上、僧は徒歩。それが当然であるように志道は先を行き、ときおり振り返った。
「緊張しておるか」
「はい」
「よい。元就様の御前で平然としておる者ほど信用ならぬ」
館へ近づくにつれ、警固の兵が目についた。厳島の勝利によって毛利家の威勢は増したとはいえ、安芸が安穏としているわけではない。勝者であるがゆえに、周囲の警戒も敵意も強まっている。
やがて広間へ通される。
朝の光の中、一人の老人が静かに座していた。
小柄な体躯。派手さはない。しかし、その眼だけが異様だった。
まるで相手の皮一枚下まで見透かすような、底知れぬ光。
恵瓊は畳に額をつけた。
「安国寺の恵瓊にございます」
「面を上げよ」
低く静かな声だった。
顔を上げた瞬間、視線が真正面からぶつかる。
この人には嘘を嫌う勘がある。
そんな直感が走った。
「東福寺で何を学んだ」
「経典、漢籍、朱子学、書札の作法にございます」
「人も学んだか」
「人を見ることの難しさを学びました」
元就の口元が、わずかに緩む。
「面白い答えじゃ」
しばし沈黙が流れたのち、元就は唐突に問うた。
「安芸の先を申してみよ」
住職の警告が脳裏によみがえる。
見透かされるな。
恵瓊は慎重に口を開いた。
「毛利家は今後さらに勢いを増されましょう。しかし、大きくなるほど争いもまた避けられませぬ」
「それだけか」
「大樹ほど風を受けます。強くなれば強くなるほど、多くの敵を招くかと存じます」
元就は黙って聞いていた。
「誰が敵になる」
「西も東も油断はできませぬ。ただ、天下の勢いは一国だけでは決まりませぬ。他国にもやがて英雄が現れましょう」
固有名は出さない。
未来を知る者ではなく、情勢を読む僧として振る舞う。
元就は指先で膝を軽く叩いた。
「お前、何者じゃ」
その一言で空気が凍った。
「安国寺の末席にございます」
「それは身分よ。わしが聞きたいのは中身じゃ」
恵瓊は静かに伏し目になった。
「幼き頃より、先々を考える癖がございました。飢饉を見れば来年を案じ、戦を見ればその先を案じます」
「なるほど」
元就は立ち上がり、庭へ目を向けた。
「未来は読めるか」
「読めませぬ」
「では何ができる」
「備えることだけでございます」
老人はしばらく沈黙し、やがて小さく笑った。
「それで十分じゃ」
振り返った眼光は、なお鋭かった。
「未来を言い当てる者より、備えを説く者の方が使い道がある」
その一言で広間の空気が和らいだ。
「志道」
「はっ」
「この僧を書付の手伝いに置け。まずは文書を書かせよ」
「承知いたしました」
恵瓊は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
「礼は不要じゃ」
元就は静かに言った。
「まだ何も成しておらぬ」
館を辞すると、昼の日差しが安芸の山々を照らしていた。
志道が苦笑する。
「肝が据わっておるな。普通なら声も出ぬ」
「必死でございました」
「元就様がお前を気に入られた」
「そうでしょうか」
「いや」
志道は首を横に振った。
「気に入ったというより、興味を持たれたのだ」
その言葉が胸に重く残る。
安国寺へ戻ると、住職が山門で待っていた。
「会うてきたか」
「はい」
「どうであった」
「見抜かれてはおりませぬ。ただ、試されました」
老僧は静かにうなずく。
「それならよい。疑われ続ける方が、信じ切られるより生き延びられる」
夜、自室で経を唱えながらも、恵瓊の脳裏から元就の眼は消えなかった。
あれほど人を読む男が、自分の正体に気づかぬはずはない。
いや、気づいているのではない。
違和感だけを感じ取り、その正体を測りかねているのだ。
それで十分危うい。
だが同時に確信もあった。
元就は、自分を捨て石にはしても、容易には手放さない。
使える者は使い切る。
それがあの男の流儀だ。
窓の外では安芸の風が静かに松を鳴らしていた。
その風は海を越え、やがて中国路を駆け、さらに遠く畿内へ届く。
天下の形が変わる日まで、まだ幾年もある。
その大きな流れの中へ、恵瓊は今日、初めて足を踏み入れた。
知らぬふりをして、知っている者として。
語りすぎず、黙りすぎず。
歴史の奔流に呑まれぬよう、一歩ずつ歩んでいくしかない。
安芸の夜風は、静かに吹き続けていた。




