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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第10話:住職の言葉

第10話:住職の言葉


 天文二十三年、春。

 東福寺の庭に咲き誇った桜は、盛りを過ぎ、風に舞う花びらが石畳を淡く染めていた。朝の読経を終えた僧たちが静かに行き交う中、恵瓊は本堂の縁側に腰を下ろし、『華厳経』を開いていた。

 数え年十六。

 身体は少年から青年へ移り変わりつつある。しかし、その眼差しだけは幼少の頃から変わらぬまま、誰にも見えぬ未来を映していた。

 紙面を追いながらも、意識は遥か西、安芸へ向かっていた。

 ——帰る時が来た。

 胸の内で、その思いだけが日ごとに強くなっていく。

 東福寺で学んだ二年は濃密だった。経典、漢籍、書法、詩文、寺務、書状の起草、人の心を読む術。知識だけではなく、知識をどう使うかを学んだ。

 だが学び続けるだけでは意味がない。

 使うべき時が来れば、外へ出なければならない。

 「恵瓊よ」

 背後から宗覚の穏やかな声が響いた。

 恵瓊は書を閉じ、静かに振り返る。

 「はい」

 「お前の心は、もう京にはおらぬな」

 「……安芸へ戻りとうございます」

 老僧は微笑んだ。

 「その顔を見れば分かる。人は足より先に心が旅立つものじゃ」

 二人は並んで庭を眺めた。

 桜吹雪が風に乗り、音もなく舞っていく。

 「東福寺で何を得た」

 「学問を得ました」

 「それだけか」

 恵瓊は少し考え、答える。

 「人を見る目を。そして、自らを疑う心を」

 「良い答えじゃ」

 宗覚は静かに頷いた。

 「知識だけを積めば傲慢になる。己を疑う者だけが、人を導く資格を持つ」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて宗覚が低く口を開く。

 「お前は多くを知っておる。しかし知ることと救うことは違う」

 「……はい」

 「救えぬ者もおる。それでも歩めるか」

 恵瓊は迷わなかった。

 「歩みます」

 「なぜじゃ」

 「立ち止まれば、さらに救えぬ者が増えるからです」

 宗覚はその返答に目を細めた。

 「お前は若いが、覚悟だけは老僧より重い」

 その翌朝、恵瓊は東福寺を後にした。

 荷は少ない。

 衣が二枚、経巻数冊、筆と硯。

 そして胸の内に抱えた、誰にも語れぬ未来だけである。

 宗覚は山門まで見送りに出た。

 「安芸へ戻れば戦が近い」

 「存じております」

 「争いを避けよとは言わぬ。ただ、人の命を軽んじるな」

 「肝に銘じます」

 「そして迷った時は、勝つ道ではなく、生き残る道を選べ」

 恵瓊は深く礼をした。

 「ありがとうございました」

 鐘の音が京の空へ響く。

 青年僧は振り返らず山道を歩き始めた。

 ◇

 帰路は静かだった。

 しかし静寂は平穏を意味しない。

 街道脇には焼け落ちた家屋があり、耕されぬ畑が広がる。人影より先に烏が見える土地も珍しくなかった。

 戦国という時代は、戦場だけが血で染まるのではない。

 暮らしそのものが削られていく。

 宿場町では、酒場で旅人たちが噂話に興じていた。

 「西じゃ陶晴賢が勢いづいておる」

 「毛利も黙っておらぬらしい」

 「そのうち大戦になるぞ」

 恵瓊は盃ではなく茶をすすりながら耳だけを傾けた。

 知っている。

 その戦の名を。

 その勝者を。

 その敗者の最期を。

 だが、それを語ることはない。

 未来を知る者は、未来を吹聴する者ではなく、備える者であるべきだと考えていた。

 数日後。

 山中で三人の浪人に道を塞がれた。

 「坊主、荷を置いていけ」

 恵瓊は足を止める。

 「差し上げられるほどの物はございませぬ」

 「なら命を置いていけ」

 刀が半ばまで抜かれた。

 若き日の恵瓊なら恐怖で身体が竦んだだろう。

 しかし今は違う。

 相手の目を見る。

 痩せた頬。

 荒れた着物。

 飢えと焦燥。

 欲しいのは殺しではなく、生き延びる糧だ。

 「僧衣は売れませぬ。経巻も飯にはなりませぬ」

 男たちは黙る。

 「ですが、この先の宿には商人がおります。荷馬が二頭。金も持っておりましょう」

 嘘ではない。

 昨夜、確かに見た。

 男たちは顔を見合わせた。

 「本当だな」

 「虚言なら、いずれ仏が裁きます」

 やがて一人が刀を納めた。

 「行け」

 恵瓊は深く礼だけして歩き去った。

 背後で追ってくる気配はない。

 人を動かす術とは、相手を言い負かすことではない。

 相手が望む利益を示すことだ。

 東福寺で得た学びが、初めて形になった瞬間だった。

 ◇

 七日後。

 安芸の山並みが霞の向こうに姿を現した。

 湿った風。

 杉の香り。

 遠くで鳴く鳥。

 京とは違う空気が肺を満たす。

 「帰ってきたか」

 思わず口をついて出た言葉だった。

 安国寺の山門は昔と変わらぬ姿で立っていた。

 苔むした石段。

 古い杉木立。

 幼い頃、毎日見上げていた景色。

 しかし迎える住職だけは、歳月を重ねていた。

 「恵瓊」

 「住職様」

 二人は向かい合う。

 言葉より先に互いの沈黙が二年という空白を埋めた。

 「戻りました」

 「待っておった」

 老僧の手が肩に置かれる。

 細くなった指先だったが、その温もりは変わらない。

 「京はどうじゃ」

 「学ぶことに尽きませぬ土地でした」

 「そして、お前は何を持ち帰った」

 恵瓊は少しだけ考えた。

 「知識ではありませぬ」

 「ほう」

 「知識を使う覚悟でございます」

 住職はゆっくり笑った。

 「ようやくその境地に至ったか」

 本堂へ移り、二人は茶を飲んだ。

 夕日が障子越しに差し込み、室内を黄金色に染めている。

 「毛利殿の勢いは日に日に増しておる」

 「はい」

 「陶晴賢も動いておる」

 「存じております」

 「戦になるぞ」

 「……なりましょう」

 住職は茶碗を置いた。

 「お前は先を知っておるような顔をする」

 恵瓊は静かに目を伏せる。

 「答えられませぬ」

 「そう言うと思った」

 老僧は苦笑した。

 「昔は気になったものじゃ。何者なのか、何を知っておるのかと」

 「今は」

 「もうよい」

 住職は空を見上げた。

 「人は皆、抱えておるものがある。お前の荷は少し重いだけじゃ」

 恵瓊の胸に、長く張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

 「住職様」

 「何じゃ」

 「私は、これから多くの選択を迫られるでしょう」

 「そうじゃろう」

 「そのたびに正しい道を選べる自信はございませぬ」

 老僧は即座に答えた。

 「正しい道など、後にならねば分からぬ」

 「では」

 「その時その時で、人のためになると思う道を選べ。それで十分じゃ」

 静かな沈黙が落ちた。

 寺の鐘が夕暮れを告げる。

 「恵瓊よ」

 「はい」

 「知識は剣ではない」

 「……」

 「灯火じゃ」

 老僧の目が穏やかに細められる。

 「剣は敵を斬るが、灯火は道を照らす。お前は剣になろうとするな。灯火になれ」

 その言葉は、胸の奥深くへ染み込んだ。

 未来を知ることは、人より先に歩くことではない。

 後ろを歩く者のために、足元を照らすことなのだ。

 夜。

 蔵に戻った恵瓊は、幼い頃に読んだ『孫子』や『史記』を静かに並べ直した。

 東福寺で得た学びと、現代から持ち込んだ知識。

 その二つは、ようやく一つの道へ収束し始めていた。

 遠く、安芸の山々の向こうで時代が動こうとしている。

 陶晴賢。

 毛利元就。

 そして厳島。

 歴史は大河のように流れ続ける。

 自分一人でその流れを止めることはできない。

 だが、流れの中で舟を漕ぐ者に、岸の位置を示すことはできる。

 恵瓊は静かに目を閉じた。

 老住職の最後の言葉が胸に残る。

 ——灯火になれ。

 その灯を絶やさぬために。

 やがて訪れる戦乱のために。

 そして、自らが選び続ける未来のために。

 安芸の夜風が障子を揺らし、遠くで鐘が一つ鳴った。

 その音を聞きながら、若き僧は静かに決意を新たにした。

 使うべき時は、もう遠くない。

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