溢れ出すミュージック③
大学病院の救急受付を終わり、瑞稀が救急の処置室を訪ねると、母はストレッチャーの上で、ひとりで横になっていた。瑞稀が近くに行くと、寂しそうな顔をして言った。
「みーちゃんごめんな、明日オーディションやのに」
「そんなことない。うちがずっとついとるから、大丈夫やから」
そのとき、「症状は落ち着いていますんで、先生から説明があります」と、看護師に呼ばれる。
瑞稀が処置室の先にある小部屋に通されると、若い医師がレントゲンの写真を見せて言った。
「カルテも見せてもらったんですけど、今撮ったレントゲンでも変わりが見えないのと、救急隊の応急処置の報告から見ても大丈夫そうです」
若い医師はそう言うとニッコリと笑顔を見せ、続けて言った。
「どうします? このまま帰っても大丈夫ですし、一晩入院していきます?」
その言葉に安堵したが、心配なので一日二日入院するようお願いする。
そのとき、ふと気になって瑞稀は医師に尋ねた。
「私、明日東京に行かなきゃいけないんですけど、難しいですよね?」
その問いに医師は明るく「大丈夫、大丈夫。入院もされるし症状も落ち着いていますから。安心して行ってきてください」と言った。
その医師の言葉に安心した瑞稀だったが、オーディションは諦めようと決意した。医師はそう言ったが、心配でまともにできる状態じゃない。
処置室に戻ると、母に足がちょっと寒いからと、家に戻って靴下を取ってきてくれへんかなと言われた。瑞稀は母の手編みのルームソックスとカーディガンを持ってタクシーに乗った。病院に向かう途中、太陽が登り始めたのか、あたりは白くなっていた。
病室に戻ると、母は笑顔で迎えてくれた。しかし、いつものような元気はなかった。
瑞稀は母にルームソックスを履かせ、布団の上からカーディガンを掛ける。
母は、弱々しい笑顔を向けて言った。
「みーちゃんごめんな、カレー作れんで……」
「ううん、大丈夫。私がずっとそばにおるから早く元気になってね」
「瑞稀、今日オーディションやろ?」
「ううん、行かない。お母さんのそばにおる」
「あんなに楽しみにしてたんや、行きなさい」
「いやだ、お母さんを放って行けないよ!」
瑞稀は母のベッドに顔を埋めて泣きじゃくる。
その頭を優しく撫でながら、強い口調で母は言った。
「行きなさい、みーちゃん。こんなことで夢を諦めるような娘に育てたんやないえ。お母さんの娘なら行きなさい。そして、自分の精一杯をぶつけてきなさい!」
母はそう言うとニッコリ笑って続ける。
「みーちゃんは私の宝や、世界で一番愛しとるよ。頑張って行ってきなさい。みーちゃんがステージに立つの楽しみにしとるで」
瑞稀は母の目を見てしっかりと伝える。
「わかった、行ってくる」
瑞稀はマンションへ戻ると、準備してあった黒のリュックを持って京都駅へ向かった。
早朝の新幹線、指定席も難なく取れ、京都を出発した。
席に座り、スマホを取り出すと、LINEを起動してバンドのグループに『昨日の深夜にお母さん倒れて救急車で運ばれた。今落ち着いてて、先生も大丈夫って言ってるからひとりで東京に向かってる』と、送信する。間をおかずに皆から心配を告げるメッセージが届いた。それに返信するころ、新幹線は名古屋駅を出発する。
名古屋駅を出て、「次は新横浜に停まります」とアナウンスが流れる。と、そこに見知らぬ番号からの着信が瑞稀のスマホにかかってくる。嫌な予感を殺してデッキに出て着信をとると、看護師と思える女性がこう告げた。
『京都福祉大学病院の看護師、福田です。今、先生に代わりますね』
『京都福祉大学病院、当直医の飯田です。今、お母様が危篤状態になられました。延命を希望しますか?』
当直の医師と名乗る男は事務的に告げた。
「え? ちょっと待ってください、さっき大丈夫って言いましたよね?」
『急変です。危篤状態になられました。早急な判断が求められます。延命を希望しますか?』
医師は冷たく言い放つ。
「待ってください、よくわからないし判断もできません。折り返しますんでちょっと待ってください」
瑞稀はそう答えると、親戚の叔父さんとおばさんに電話をかける。しかし、どうしようと問う瑞稀に『わたしらには判断できん、瑞稀ちゃんが判断しなさい』としか言ってくれない。その間にも病院から着信がある。かけ直すと、先ほどの医師が出て、『今、お母様が息を引き取りました。何時ごろ来れますか? そのときまで呼吸器は外さないでおきますので』と言った。
目の前が真っ暗になった。「息を引き取った……昨日大丈夫って言ったのに……」瑞稀はデッキで膝から崩れ落ちる。
ゴトン、と、スマホが手からこぼれ落ちる。そのとき、ある顔が脳裏に浮かぶ。瑞稀はグループチャットを開けて通話ボタンを押す。短い着信音の後、「はい」と、眠たそうな環の声がした。
「たまちゃん、どうしよう、お母さんが死んだって」
突然の連絡に環は飛び起きた。
「どうしよう、どうしよう」
泣きじゃくる瑞稀の声に環は答えた。
『落ち着いて、瑞稀。今どこ? 病院? どこにおるん!?』
瑞稀は答える。
「今、新幹線の中。名古屋を出て、新横浜に向かっとる。名古屋出たときに連絡があって……新横浜まであと一時間もかかるみたいで……うち、どうしたらええかわからない……」
『落ち着いて、瑞稀。新横浜に着いたら電話して! 切符買って早く戻ってくるんや。それまでうちらが先に病院行くから!』
「わかった、ありがとう……」
新幹線は東京に向けて走っている。「次の停車駅は新横浜」とアナウンスが告げる。母が亡くなったというのに、私は逆方向へ向かって走っている。その事実が重く瑞稀を苦しめた。
環はグループチャットにメッセージを残すと通話ボタンを押し、全員に瑞稀の状況を話し病院へ行くように連絡した。
新幹線のシュン、シュンという音が瑞稀の心を通り抜けていく。そして一時間後、新幹線は新横浜駅へ到着した。
フラフラとホームに降り、グループチャットに連絡をする。
環の声が聞こえる。優里のも、舞星の声も。そしてののかが言う。
『落ち着いてな、新幹線を降りたらホームを降りて窓口で切符を買うんや。そんで京都駅に着いたらタクシーに乗り、うちが病院の前で待っとるから』
「うん、うん」
もう声にならない。瑞稀は言われた通り、ホームを降りて、窓口で切符を買い、ホームに戻ろうとする。と、エスカレーターの前に母が言っていた赤いシュウマイのお店が見えた。
「お母さんに買っていかないと……」
そう呟くと、ふらつきながらも一番大きいシュウマイの箱を買った。
そこからはよく覚えていない。タクシーが病院に着いて、ののかに抱きかかえられるように病室まで行った。
ベッドには母が横たわっており、環をはじめバンドメンバー、叔父、叔母が立っていた。
瑞稀は、よろよろと母に近づく。人工呼吸器が繋がれ、母の胸が不自然に動いている。
「それでは呼吸器を外させていただきます」
看護師は慣れた手つきで母のマスクを外し、機械を病室の外へ運び出す。
母の手を取り、息をせずに眠っている母を見つめる。手のひらから温かさは感じなかった。口元には拭ききれなかった血が滲んでいる。
「お母さん、頑張ったな」
そんな瑞稀を見て我慢できずに環は泣き出した。
「お母さん、最後に一緒にいれへんでごめんな」
そう言うと、瑞稀はベッドに顔を埋めて泣いた。
その後、葬儀では瑞稀が立派に喪主を務め、火葬をした後、連絡が取れなくなった。




