普通のエクスパート④
伊藤ののかは、八月の選考会を終えて悩んでいた。
決して悪い意味ではない。環たちは、ののかの期待以上の答えを出してくれた。けれど、だからこそ迷う。彼女たちの努力に報いるには、どうすればいいのか。学園祭のステージで何を訴え、何を創り上げるのか。そして自分は、どうあるべきなのか。
ののかは兄と暮らすマンションの一室、簡易防音室にあるシンセサイザー・ローランドの電源を入れた。白のボディに浮かぶ機械的なモニター。ピンクに輝くドラムパッド。この相棒と共に、数々の音を作ってきた。
ののかは傍らにあるMacを操作し、先日見つけた新しいベース音源をシンセに取り込んだ。これまでのどの音源よりも自分好みのはずだった。
知っている限りのリフを弾く。魔法のように鍵盤を滑る指先。しかし、どうしても納得がいかない。ののかは鍵盤を思い切り叩き、演奏を止めた。
「もう、これじゃあかんのや……」
ののかは初めて、自分自身の限界を意識していた。
一方、激しい後悔の念に駆られていたのは舞星だった。
自分が伊藤ののかにしてしまったこと。直接ではないとはいえ、原因は自分にあった。もう彼女とは交わるどころか、話すことすらできないだろう。クラスが違ってよかった。軽音部にも行っていないから、顔を合わせる心配もない。
そんな自分が、四方田や大西らに何が言えるというのか。怒鳴りつける資格なんて、どこにもないのに。
ざわつく心を持て余し、舞星は愛用のヘッドレスベースを抱きしめた。
「ごめんね。キミのこと、しばらく弾いてあげられへんわ」
壁のネックハンガーにベースを戻すと、彼女は逃げるように眠りに落ちた。
舞星に詰め寄られた環と優里もまた、深く考え込んでいた。
『あんたらの未熟な演奏が足引っ張って、伊藤ののかが本気出せんと違うか!?』
その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
「なあ、たまちゃん。うちら、ダメやったんかな。のんちゃんの足、引っ張っとるんかな」
「達成感はあったけど……。あの先輩は、うちらの知らんのんちゃんを知ってるんやからな。ああ言われてもうたら、そうなんかもって思てまうわ」
環は首を垂れて溜息を吐いた。
「今までにないくらい練習したんやけどなぁ。技術が追いつかんのはわかっとるけど……」
「まあ、練習するしかないですな」
「そやけど優里、あの人に認められる演奏できたら、それこそ神童レベルやで?」
「そうですな」
「じゃあ、練習するしかないな!」
「はい、たまちゃん!」
二人は顔を見合わせると、同時に笑った。弾かれたように立ち上がると、いつものようにドラムを叩き、ギターを抱える。
二人はまだ気づいていない。自分たちが選考会を経てどれほど成長したのかを。そして、ののかの真意を知るのは、もう少し先のことだった。
「ゼニスムジカは解散だってさ」
PA班の増田優庵が、ぼそりと零した。
「ちょ、優庵」
同じ班の岡本純子が、ののかを気遣って制止する。
「ええよ。自分のやってきたことやし、悔いとるわけでもあらへん」
「そうなんか。のんは大人やなー」
優庵はそう言うと、ののかが制作した音源に合わせてパーカッションを鳴らし始めた。本番で使うオケの作成だ。ののかの影響で、PAチームは今やDTMチームも兼ねるようになっていた。
「で、ムジカのメンツはどないするん? 谷川くんとか、ええもん持っとるのに」
「西田くんは辞めるみたいよ。あの子、平井くんのコバンザメだったから」
苦笑する純子を見ながら、ののかは言った。
「ちょっと谷川くんと話してみたいな。同級生やし、なんか手伝えることあるかもしれんしね」
翌日、ののかは放課後を待って谷川のクラスを訪ねた。
「お疲れ、谷川くん。軽音は辞めへんのやろ? これからどないすんの?」
「ライトと一緒になんかやろうと思っとるけどな。まあ、今はちょっと外部のバンドが忙しくてな」
「そうか。辞めへんのやったら、いつか絡むこともあるやろうし。よろしゅうね、っていうことで」
ののかが差し出した右手。その仕草が、谷川の脳裏でいつかの「妹みたいに懐いていた女の子」と重なった。
「伊藤、お前のバンド、ベースおらへんよな」
「え? 今、探しとるとこやけど」
「あんなことになって、頼むわけにもいかんのやが……」
谷川は自分の頬をパンと叩き、深々と頭を下げた。
「舞星を、なんとかしてやってくれへんか」
「うちのバンドに、ってこと? いや、無理やん。あの子、うちのこと苦手というか……嫌われとる気がするし」
谷川は両手を振って否定する。
「嫌ってるわけやないと思うよ。いっつも『伊藤が、伊藤が』って言っとるしな」
ののかは困惑した。同じ学年なのに会話もないし、目が合えば逸らされるか睨まれるかだ。
「あいつ、結構お前のこと好きなんちゃうかな。あの事件の時だって、めちゃくちゃ落ち込んでたし。平井に抗議して、最初にバンドを抜けたのも舞星やったからな。俺らはそれに着いていっただけや」
「そうやったんか……」
ののかの脳裏に、あの太くキレのあるベースラインが響く。彼女なら、優里と組んで環を支えられる。バラバラだったパズルのピースが、一気に嵌まる感触に震えた。
「岡崎さん、何組やったっけ? 今から会いに行くわ」
谷川は舞星に連絡を入れると、ののかを連れて二つ隣のクラスへと向かった。
突然のののかの訪問に、舞星は露骨に視線を逸らした。
「谷川くん、やっぱ嫌われとるんとちゃう?」
「あ、いや……これは固まっとるだけやな」
谷川はフォローを入れつつ、舞星に語りかけた。
「なあ舞星。お前、あんなことになって後悔しとるんやろ? 思っとること、全部言って楽になれや」
「いや、それは……」
対面した舞星の頭には、後悔の念しか浮かばなかった。
「舞星、今を逃したら、もう二度とチャンスはないんや! このまま卒業まで罪の意識を背負っていくんか!?」
谷川の叫びに、腕を組んで見守っていたののかが静かに口を開く。
「あのね、岡崎さん。うちはあの件、もう何とも思てへんの。それよりも、知らなんだとはいえ、あんたの彼氏に手ぇ出してしもたこと、謝らせてほしいんや」
ののかは舞星に向かい、深々と頭を下げる。
「え……? え?」
「ごめん。本当に、ごめん。もし許してくれるなら、話だけでもできる関係になってほしいんや」
「あんなことした私を、許してくれるの……?」
「許すも何も、岡崎さんは何もしとらんわ。うちが勝手に自滅しただけや」
舞星の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。子供のように泣きじゃくる彼女を、ののかは優しく抱き寄せた。
「でも、でも……私、昨日伊藤さんのバンドの子たちに、ひどいこと言っちゃったし……」
「あの子らなら大丈夫。一緒に演奏したら、そんなもん全部吹き飛んでまうわ」
「本当……?」
「ああ、大丈夫や。これからレンタルスタジオ『ジミーちゃん』に集合や。岡崎さん、ベース持っとる?」
「うん!」
スタジオに入るなり、舞星は環と優里に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「まあ、うちらは先輩の気持ち聞いてましたし、事情も知ってますからなぁ」
優里は丁寧な、けれどどこかよそゆきの言葉で応える。
「先輩に頭下げられたら、何も言えへんやないですか」
環は不機嫌そうに呟く。まだ、わだかまりは消えていない。
「昨日、一番怒っとったんは瑞稀やからな」
「瑞稀も大丈夫。うちが一緒に謝りに行くし。当事者のうちが気にしとらんのやから、ええやん。とにかく、演奏してみて決めてや」
ののかがトライトンをセットし、環もしぶしぶギターを構えた。
優里のカウントで曲が始まる。舞星は初見ながら必死にスコアを追い、サビ後のギターソロでその全容を掴んだ。
「こういう曲か……」
舞星は奏法をツーフィンガーから親指弾きへと切り替えた。遠慮の消えた太い低音が、環を力強く支え始める。一人でリズムを背負っていた優里のドラムも、一気に安定感を増した。
スタジオを貫くような衝撃。演奏が終わると、そこにはゼニスムジカでは味わえなかった充実感が漂っていた。
「このバンドでやらせてほしい……。お願いします!」
舞星が再び、深く頭を下げる。
「ベースって、こんなんなんやな……」
環は初めて知るその感覚に、呆然としていた。
ののかは誇らしげに舞星の肩を叩く。絶対に出会わないはずだった線が、今、一つに交わった。
「そやけど、瑞稀はのんちゃんが何とかしてくださいね。もう、ぷりぷりでしたから」
環はそう言うと、舞星に向けてグッと親指を掲げた。ののかが見せた、団結の証だ。
翌日。舞星は自分のヘッドレスベースを見つめ、確信していた。
(あのギターに合わせる音は、キミじゃないかもしれない)
夕食後、彼女はリビングで父に切り出した。
「お父さん、相談があるんやけど。私の貯金、今いくらある?」
一週間後。父の伝手を頼った楽器店に、一九九六年製の黒い『GIBSON Thunderbird LTD Ebony』が届いた。
その無骨な翼に触れた瞬間、舞星は「これだ」と感じた。
部屋に戻り、壁に掛けられたヘッドレスベースに彼女は静かに語りかける。
「キミの出番は、まだ先みたい。でも大丈夫。きっとキミを必要とする時が、また来るから」




