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青いウサギはそこにいる  作者: 鈴木志稀
普通のエクスパート
38/50

普通のエクスパート④

 伊藤ののかは、八月の選考会を終えて悩んでいた。

 決して悪い意味ではない。たまきたちは、ののかの期待以上の答えを出してくれた。けれど、だからこそ迷う。彼女たちの努力に報いるには、どうすればいいのか。学園祭のステージで何を訴え、何を創り上げるのか。そして自分は、どうあるべきなのか。

 ののかは兄と暮らすマンションの一室、簡易防音室にあるシンセサイザー・ローランドの電源を入れた。白のボディに浮かぶ機械的なモニター。ピンクに輝くドラムパッド。この相棒と共に、数々の音を作ってきた。

 ののかは傍らにあるMacを操作し、先日見つけた新しいベース音源をシンセに取り込んだ。これまでのどの音源よりも自分好みのはずだった。

 知っている限りのリフを弾く。魔法のように鍵盤を滑る指先。しかし、どうしても納得がいかない。ののかは鍵盤を思い切り叩き、演奏を止めた。

「もう、これじゃあかんのや……」

 ののかは初めて、自分自身の限界を意識していた。

 一方、激しい後悔の念に駆られていたのは舞星まいせだった。

 自分が伊藤ののかにしてしまったこと。直接ではないとはいえ、原因は自分にあった。もう彼女とは交わるどころか、話すことすらできないだろう。クラスが違ってよかった。軽音部にも行っていないから、顔を合わせる心配もない。

 そんな自分が、四方田よもだ大西おおにしらに何が言えるというのか。怒鳴りつける資格なんて、どこにもないのに。

 ざわつく心を持て余し、舞星まいせは愛用のヘッドレスベースを抱きしめた。

「ごめんね。キミのこと、しばらく弾いてあげられへんわ」

 壁のネックハンガーにベースを戻すと、彼女は逃げるように眠りに落ちた。


 舞星まいせに詰め寄られたたまき優里ゆうりもまた、深く考え込んでいた。

『あんたらの未熟な演奏が足引っ張って、伊藤ののかが本気出せんと違うか!?』

 その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。

「なあ、たまちゃん。うちら、ダメやったんかな。のんちゃんの足、引っ張っとるんかな」

「達成感はあったけど……。あの先輩は、うちらの知らんのんちゃんを知ってるんやからな。ああ言われてもうたら、そうなんかもって思てまうわ」

 たまきは首を垂れて溜息を吐いた。

「今までにないくらい練習したんやけどなぁ。技術が追いつかんのはわかっとるけど……」

「まあ、練習するしかないですな」

「そやけど優里ゆうり、あの人に認められる演奏できたら、それこそ神童レベルやで?」

「そうですな」

「じゃあ、練習するしかないな!」

「はい、たまちゃん!」

 二人は顔を見合わせると、同時に笑った。弾かれたように立ち上がると、いつものようにドラムを叩き、ギターを抱える。

 二人はまだ気づいていない。自分たちが選考会を経てどれほど成長したのかを。そして、ののかの真意を知るのは、もう少し先のことだった。


「ゼニスムジカは解散だってさ」

 PA班の増田ますだ優庵ゆうあんが、ぼそりと零した。

「ちょ、優庵ゆうあん

 同じ班の岡本純子が、ののかを気遣って制止する。

「ええよ。自分のやってきたことやし、悔いとるわけでもあらへん」

「そうなんか。のんは大人やなー」

 優庵ゆうあんはそう言うと、ののかが制作した音源に合わせてパーカッションを鳴らし始めた。本番で使うオケの作成だ。ののかの影響で、PAチームは今やDTMチームも兼ねるようになっていた。

「で、ムジカのメンツはどないするん? 谷川くんとか、ええもん持っとるのに」

「西田くんは辞めるみたいよ。あの子、平井くんのコバンザメだったから」

 苦笑する純子を見ながら、ののかは言った。

「ちょっと谷川くんと話してみたいな。同級生やし、なんか手伝えることあるかもしれんしね」

 翌日、ののかは放課後を待って谷川のクラスを訪ねた。

「お疲れ、谷川くん。軽音は辞めへんのやろ? これからどないすんの?」

「ライトと一緒になんかやろうと思っとるけどな。まあ、今はちょっと外部のバンドが忙しくてな」

「そうか。辞めへんのやったら、いつか絡むこともあるやろうし。よろしゅうね、っていうことで」

 ののかが差し出した右手。その仕草が、谷川の脳裏でいつかの「妹みたいに懐いていた女の子」と重なった。

「伊藤、お前のバンド、ベースおらへんよな」

「え? 今、探しとるとこやけど」

「あんなことになって、頼むわけにもいかんのやが……」

 谷川は自分の頬をパンと叩き、深々と頭を下げた。

舞星まいせを、なんとかしてやってくれへんか」

「うちのバンドに、ってこと? いや、無理やん。あの子、うちのこと苦手というか……嫌われとる気がするし」

 谷川は両手を振って否定する。

「嫌ってるわけやないと思うよ。いっつも『伊藤が、伊藤が』って言っとるしな」

 ののかは困惑した。同じ学年なのに会話もないし、目が合えば逸らされるか睨まれるかだ。

「あいつ、結構お前のこと好きなんちゃうかな。あの事件の時だって、めちゃくちゃ落ち込んでたし。平井ひらいに抗議して、最初にバンドを抜けたのも舞星まいせやったからな。俺らはそれに着いていっただけや」

「そうやったんか……」

 ののかの脳裏に、あの太くキレのあるベースラインが響く。彼女なら、優里ゆうりと組んでたまきを支えられる。バラバラだったパズルのピースが、一気に嵌まる感触に震えた。

「岡崎さん、何組やったっけ? 今から会いに行くわ」

 谷川は舞星まいせに連絡を入れると、ののかを連れて二つ隣のクラスへと向かった。


 突然のののかの訪問に、舞星まいせは露骨に視線を逸らした。

「谷川くん、やっぱ嫌われとるんとちゃう?」

「あ、いや……これは固まっとるだけやな」

 谷川はフォローを入れつつ、舞星まいせに語りかけた。

「なあ舞星まいせ。お前、あんなことになって後悔しとるんやろ? 思っとること、全部言って楽になれや」

「いや、それは……」

 対面した舞星まいせの頭には、後悔の念しか浮かばなかった。

舞星まいせ、今を逃したら、もう二度とチャンスはないんや! このまま卒業まで罪の意識を背負っていくんか!?」

 谷川の叫びに、腕を組んで見守っていたののかが静かに口を開く。

「あのね、岡崎さん。うちはあの件、もう何とも思てへんの。それよりも、知らなんだとはいえ、あんたの彼氏に手ぇ出してしもたこと、謝らせてほしいんや」

 ののかは舞星まいせに向かい、深々と頭を下げる。

「え……? え?」

「ごめん。本当に、ごめん。もし許してくれるなら、話だけでもできる関係になってほしいんや」

「あんなことした私を、許してくれるの……?」

「許すも何も、岡崎さんは何もしとらんわ。うちが勝手に自滅しただけや」

 舞星まいせの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。子供のように泣きじゃくる彼女を、ののかは優しく抱き寄せた。

「でも、でも……私、昨日伊藤さんのバンドの子たちに、ひどいこと言っちゃったし……」

「あの子らなら大丈夫。一緒に演奏したら、そんなもん全部吹き飛んでまうわ」

「本当……?」

「ああ、大丈夫や。これからレンタルスタジオ『ジミーちゃん』に集合や。岡崎さん、ベース持っとる?」

「うん!」

 スタジオに入るなり、舞星まいせたまき優里ゆうりに頭を下げた。

「ごめんなさい」

「まあ、うちらは先輩の気持ち聞いてましたし、事情も知ってますからなぁ」

 優里ゆうりは丁寧な、けれどどこかよそゆきの言葉で応える。

「先輩に頭下げられたら、何も言えへんやないですか」

 たまきは不機嫌そうに呟く。まだ、わだかまりは消えていない。

「昨日、一番怒っとったんは瑞稀みずきやからな」

瑞稀みずきも大丈夫。うちが一緒に謝りに行くし。当事者のうちが気にしとらんのやから、ええやん。とにかく、演奏してみて決めてや」

 ののかがトライトンをセットし、たまきもしぶしぶギターを構えた。

 優里ゆうりのカウントで曲が始まる。舞星まいせは初見ながら必死にスコアを追い、サビ後のギターソロでその全容を掴んだ。

「こういう曲か……」

 舞星まいせは奏法をツーフィンガーから親指弾きへと切り替えた。遠慮の消えた太い低音が、たまきを力強く支え始める。一人でリズムを背負っていた優里ゆうりのドラムも、一気に安定感を増した。

 スタジオを貫くような衝撃。演奏が終わると、そこにはゼニスムジカでは味わえなかった充実感が漂っていた。

「このバンドでやらせてほしい……。お願いします!」

 舞星まいせが再び、深く頭を下げる。

「ベースって、こんなんなんやな……」

 たまきは初めて知るその感覚に、呆然としていた。

 ののかは誇らしげに舞星まいせの肩を叩く。絶対に出会わないはずだった線が、今、一つに交わった。

「そやけど、瑞稀みずきはのんちゃんが何とかしてくださいね。もう、ぷりぷりでしたから」

 たまきはそう言うと、舞星まいせに向けてグッと親指を掲げた。ののかが見せた、団結の証だ。

 翌日。舞星まいせは自分のヘッドレスベースを見つめ、確信していた。

(あのギターに合わせる音は、キミじゃないかもしれない)

 夕食後、彼女はリビングで父に切り出した。

「お父さん、相談があるんやけど。私の貯金、今いくらある?」

 一週間後。父の伝手を頼った楽器店に、一九九六年製の黒い『GIBSON Thunderbird LTD Ebony』が届いた。

 その無骨な翼に触れた瞬間、舞星まいせは「これだ」と感じた。

 部屋に戻り、壁に掛けられたヘッドレスベースに彼女は静かに語りかける。

「キミの出番は、まだ先みたい。でも大丈夫。きっとキミを必要とする時が、また来るから」

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