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青いウサギはそこにいる  作者: 鈴木志稀
普通のエクスパート
35/50

普通のエクスパート①

「もう無理やわ」

 諦めたような笑みを浮かべて、舞星まいせはポツリと呟いた。

 谷川も、ライトも、西田も、何も言い返せない。視聴覚室の重苦しい空気が、容赦なく四人の肩にのしかかる。

 舞星まいせは静かに教室を後にすると、非常階段へ向かった。冷たい風に吹かれながら、ぼんやりと校庭を眺める。

(平井君に誘われてバンドに入った時は、あんなに楽しかったのにな……)

 舞星まいせは、去年の今頃のことを思い出していた。

 自分は「普通」の人間だ。そう痛感しながらも、舞星まいせは音楽から離れることができなかった。

 ベースを始め、高校進学を機に心機一転しようと軽音部の門を叩いたあの日。彼女はそこで、伊藤ののかと再会する。

(伊藤さん……! 私と同じで、音楽を辞めてなかったんや!)

 溢れ出す喜びと、音楽への共感。舞星まいせは吸い寄せられるように、ののかの元へと駆け寄った。

「あの、伊藤さん」

 話しかけるのは、それが初めてだった。ののかは自分とは違う、雲の上の天才。かつて、決して縮まることのない才能の差を見せつけられ、「私は普通なんだ」と音楽を辞めようと思ったことさえある。それでも、彼女の音への憧れは消えなかった。

 勇気を振り絞った舞星まいせに対し、ののかは一瞬「ん?」と小首を傾げた。そして、記憶にある通りの満面の笑みを浮かべて言った。

「はじめましてやね!」

 ――認識すら、されていなかった。

 舞星まいせは、その事実に打ちのめされた。狼狽える彼女を見て、ののかは不思議そうに言葉を続ける。

「あれ? どっかで会うたことあった?」

 屈託のない笑顔で接してくるののかに、舞星まいせは何も言い返せなかった。

「まあ、ええか。これから一緒に活動していくんやもんね。うちは楽器やなくて、PAとかDAWとかやろう思てんねん」

「え? ピアノは……?」

 舞星まいせは、喉の奥が詰まるような感覚に陥った。

「あれ? なんでうちがピアノやっとったん知っとるん?」

 いつか、彼女と一緒に演奏できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてベースを始めた。期待なんてしていないつもりだった。けれど、「あなたの演奏を聴いて、私はピアノを辞めたのに」という言葉にできない想いが、自分を惨めな泥沼へと引きずり込んでいく。

 舞星まいせは何も言わず、ののかに背を向けて逃げるように教室を飛び出した。ののかはきょとんと立ち尽くしていたが、すぐにクラスメイトの増田優庵ゆうあんに呼ばれ、PA班の輪へと合流していった。


 準備室へ逃げ込んだ舞星まいせは、自分のベースが入っているロッカーの鍵を震える手で開けた。

「あれ? 君、ベースか?」

 個人ロッカーの前で数人を押し除けるようにして声を掛けてきたのが、平井ひらいだった。

 平井ひらいは、ギグバッグの大きさから楽器を言い当てた。彼は「プロ志望であること」「すでに精鋭とバンドを組んでいること」「今の軽音部の先輩にはロクな人材がいないこと」を饒舌に語った。

「ベースで本気の人材を探しとるんや。一度、君の音を聴かせてくれへんか?」

 案内された教室には、谷川雄一、田中ライト、西田真理央の三人がいた。彼らが鳴らしたセッションの音は、舞星まいせを納得させるには充分な密度を持っていた。

 平井ひらいに促され、舞星まいせは黒いヘッドレスベースを取り出す。三人の音の渦に、思い切り飛び込んだ。

 楽しい。久しぶりに感じる、指先から伝わる振動。親指で弦を激しく弾き、太い低音を響かせる。

「ええやん! 一緒にやろう! この部で一番のバンドになろうや」

 演奏を聴き終えた平井ひらいが、拍手と共にそう言った。

「その親指スタイル、ええなぁ。太い音で俺の好みや」

 ギターの谷川も、満足げに頷く。

 ののかに言われた言葉でボロボロになっていた舞星まいせにとって、その「必要とされている感覚」は救いだった。普通の私が、特別になれるかもしれない。一瞬でもそう夢見たあの日を、彼女は非常階段で反芻していた。


「辞めても、誰も文句言わんと思うよ」

 背後から、谷川が声を掛けた。

「軽音部イチのバンドになるって約束は果たされたけどな……。正直、俺はこのバンドの方向性が見えへん。ライトも同じ意見や。ライブをやるたびに、どんどん胡散臭いもんになっていく気がしてな」

 それは、舞星まいせも感じていた違和感だった。

舞星まいせ、一緒に抜けへんか? 軽音で別のバンド組むんでもええし、外部でやるんでもええ」

 舞星まいせは谷川から視線を逸らし、小さく首を振った。

「そんなことしたら、平井ひらい君が何してくるかわからへんよ? 一年も一緒にいたんやから、わかるやん」

「……まあ、そやな」

「私は大丈夫やから。谷川君は、外部のバンドで思い切り頑張って」

「そう言われても、放っておけるわけないやろ」

「たかが高校の部活やん。音楽を辞めるわけやないし。それに、平井ひらい君には一発かまさな気が済まへんから」

 舞星まいせの瞳には、かつてないほど強い意志が宿っていた。

「そうか……。わかった、安心したわ。でも、俺らはこのバンドを抜ける。ライトと一緒に何かやってみるわ」

「それがいいと思う。私は私でやるから」

 谷川が右手を差し出す。舞星まいせはその手を力強く掴んだ。

 それは決別ではなく、それぞれが「音楽」を取り戻すための握手だった。

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