普通のエクスパート①
「もう無理やわ」
諦めたような笑みを浮かべて、舞星はポツリと呟いた。
谷川も、ライトも、西田も、何も言い返せない。視聴覚室の重苦しい空気が、容赦なく四人の肩にのしかかる。
舞星は静かに教室を後にすると、非常階段へ向かった。冷たい風に吹かれながら、ぼんやりと校庭を眺める。
(平井君に誘われてバンドに入った時は、あんなに楽しかったのにな……)
舞星は、去年の今頃のことを思い出していた。
自分は「普通」の人間だ。そう痛感しながらも、舞星は音楽から離れることができなかった。
ベースを始め、高校進学を機に心機一転しようと軽音部の門を叩いたあの日。彼女はそこで、伊藤ののかと再会する。
(伊藤さん……! 私と同じで、音楽を辞めてなかったんや!)
溢れ出す喜びと、音楽への共感。舞星は吸い寄せられるように、ののかの元へと駆け寄った。
「あの、伊藤さん」
話しかけるのは、それが初めてだった。ののかは自分とは違う、雲の上の天才。かつて、決して縮まることのない才能の差を見せつけられ、「私は普通なんだ」と音楽を辞めようと思ったことさえある。それでも、彼女の音への憧れは消えなかった。
勇気を振り絞った舞星に対し、ののかは一瞬「ん?」と小首を傾げた。そして、記憶にある通りの満面の笑みを浮かべて言った。
「はじめましてやね!」
――認識すら、されていなかった。
舞星は、その事実に打ちのめされた。狼狽える彼女を見て、ののかは不思議そうに言葉を続ける。
「あれ? どっかで会うたことあった?」
屈託のない笑顔で接してくるののかに、舞星は何も言い返せなかった。
「まあ、ええか。これから一緒に活動していくんやもんね。うちは楽器やなくて、PAとかDAWとかやろう思てんねん」
「え? ピアノは……?」
舞星は、喉の奥が詰まるような感覚に陥った。
「あれ? なんでうちがピアノやっとったん知っとるん?」
いつか、彼女と一緒に演奏できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてベースを始めた。期待なんてしていないつもりだった。けれど、「あなたの演奏を聴いて、私はピアノを辞めたのに」という言葉にできない想いが、自分を惨めな泥沼へと引きずり込んでいく。
舞星は何も言わず、ののかに背を向けて逃げるように教室を飛び出した。ののかはきょとんと立ち尽くしていたが、すぐにクラスメイトの増田優庵に呼ばれ、PA班の輪へと合流していった。
準備室へ逃げ込んだ舞星は、自分のベースが入っているロッカーの鍵を震える手で開けた。
「あれ? 君、ベースか?」
個人ロッカーの前で数人を押し除けるようにして声を掛けてきたのが、平井だった。
平井は、ギグバッグの大きさから楽器を言い当てた。彼は「プロ志望であること」「すでに精鋭とバンドを組んでいること」「今の軽音部の先輩にはロクな人材がいないこと」を饒舌に語った。
「ベースで本気の人材を探しとるんや。一度、君の音を聴かせてくれへんか?」
案内された教室には、谷川雄一、田中ライト、西田真理央の三人がいた。彼らが鳴らしたセッションの音は、舞星を納得させるには充分な密度を持っていた。
平井に促され、舞星は黒いヘッドレスベースを取り出す。三人の音の渦に、思い切り飛び込んだ。
楽しい。久しぶりに感じる、指先から伝わる振動。親指で弦を激しく弾き、太い低音を響かせる。
「ええやん! 一緒にやろう! この部で一番のバンドになろうや」
演奏を聴き終えた平井が、拍手と共にそう言った。
「その親指スタイル、ええなぁ。太い音で俺の好みや」
ギターの谷川も、満足げに頷く。
ののかに言われた言葉でボロボロになっていた舞星にとって、その「必要とされている感覚」は救いだった。普通の私が、特別になれるかもしれない。一瞬でもそう夢見たあの日を、彼女は非常階段で反芻していた。
「辞めても、誰も文句言わんと思うよ」
背後から、谷川が声を掛けた。
「軽音部イチのバンドになるって約束は果たされたけどな……。正直、俺はこのバンドの方向性が見えへん。ライトも同じ意見や。ライブをやるたびに、どんどん胡散臭いもんになっていく気がしてな」
それは、舞星も感じていた違和感だった。
「舞星、一緒に抜けへんか? 軽音で別のバンド組むんでもええし、外部でやるんでもええ」
舞星は谷川から視線を逸らし、小さく首を振った。
「そんなことしたら、平井君が何してくるかわからへんよ? 一年も一緒にいたんやから、わかるやん」
「……まあ、そやな」
「私は大丈夫やから。谷川君は、外部のバンドで思い切り頑張って」
「そう言われても、放っておけるわけないやろ」
「たかが高校の部活やん。音楽を辞めるわけやないし。それに、平井君には一発かまさな気が済まへんから」
舞星の瞳には、かつてないほど強い意志が宿っていた。
「そうか……。わかった、安心したわ。でも、俺らはこのバンドを抜ける。ライトと一緒に何かやってみるわ」
「それがいいと思う。私は私でやるから」
谷川が右手を差し出す。舞星はその手を力強く掴んだ。
それは決別ではなく、それぞれが「音楽」を取り戻すための握手だった。




