徒然なるままの果てに①
軽音楽部行事選考会を翌日に控え、岡崎舞星はゼニスムジカの練習を終えて自宅へと戻った。
「ただいまー」
夕食の支度をしていた母・美智代が、キッチンから「おかえりなさい」と顔を出す。
三階の自室に入り、制服を脱ぎ捨てる。五月とはいえ、夕暮れ時はまだ肌寒い。オーバーサイズのプルオーバーを被り、もこもこしたルームソックスを履く。冷え性の舞星にとって、ショートパンツにこれがお決まりのスタイルだ。
リビングに降りると、母が淹れたての紅茶を運んできてくれた。
「ありがとう、ママ」
ふーっと息を吹きかけ、熱い液体を啜る。芳醇な香りと温もりが、張り詰めていた身体の芯をゆっくりと解きほぐしていく。舞星はこの時間が、そして母の淹れる紅茶が何よりも好きだった。
「ママー、パパは今日もライブ?」
「そう。だから今日も、二人で先に食べちゃいましょう」
「お兄ちゃんは?」
「今日もボカロがどうとか言ってスタジオ入ってるらしいよ」
「ふーん」
キッチンから明るい声が返ってくる。父・流星は、ウッドベースを操るプロのジャズプレイヤーだ。自らバーを経営し、各地を飛び回る人気者。兄・紫音はネットで活躍するボカロPで、作曲の傍ら、歌い手のMIXをやっている。
コンクリート打ちっぱなしの自宅には、ドラムセットやピアノが備えられた本格的な防音スタジオがある。舞星は幼い頃からそこで指を鍛えてきた。けれど、バンド仲間の誰一人としてこの場所のことは知らない。自分の聖域だという意識もあるが、何より平井に知られたら、便利に使い倒されるのが目に見えていたからだ。
舞星は地下のスタジオに降りると、ハンガーに掛かった父親のベースであるタバコバーストの『Gibson Thunderbird』にそっと手を伸ばす。
六〇年代のビンテージ。知識もなかった頃、父に勧められるままこれを練習に使っていた。今思えば恐ろしい贅沢だ。学校へ持って行く愛機、黒の『Ibanez』のSKLヘッドレスベースも気に入っているが、このサンダーバードには、他では代えがたい「重み」がある。
スツールに腰掛け、チューニングを始める。一音、一音が重厚に、腹の底まで響く。母の紅茶と、このサンダーバード。それが舞星にとっての「ビタミン剤」だった。
ブリッジミュートをかけながら親指で弾くのが舞星のスタイル。父のウッドベースの音に近い音が心地良いからだ。定番のリフを何度もなぞる。指先に伝わる弦の振動だけが、今の自分を肯定してくれる気がした。
ふと、スタジオの隅に鎮座するアップライトピアノが目に入った。
立ち上がり、蓋を開けてAの鍵盤を叩く。ポーン、と手入れの行き届いた澄んだ音が、地下の静寂に溶けていった。
「いとう、ののか……」
その名を呟いた瞬間、小さいため息が漏れた。
(なんで、あんなこと言っちゃったんだろう。よりによって、平井くんに……)
後悔なのか、罪悪感なのか。自分の中から湧き上がる感情を追い出すように、舞星は独り言を続けた。
「あっくんのことは、もう吹っ切ったつもりだったのに。……敵うわけない。あんなに綺麗で、自信満々で……あんなに、音楽に愛されてる人には」
ののかの演奏を初めて聴いたあの日。舞星は、自分のピアノを殺された。
どんなに練習しても届かない場所がある。そう思い知らされた絶望と、同時に彼女の旋律に見惚れてしまった屈辱。ののかが描く鮮やかな音の色彩を全身に浴びてしまったら、もう自分の「普通」な音には耐えられなかった。
(……わたしはピアノを諦める原因になった相手に、復讐したかったのかな)
憧れにも似た絶望。本当は近づきたかった。話してみたかった。けれどどう接すればいいか分からぬまま、彼女は急に表舞台から姿を消した。いつか再会したらセッションしよう、今度こそ声をかけよう。そう決めていたのに。
高校で再会した彼女は、なんの魅力もないただの女子高生になり果て、音楽すら捨てていた。
「……興味ない。もう、関係ない」
毎日、自分に言い聞かせてきた。
わたしは、普通。
普通にパパとママに愛されて、普通に高校に通って、普通に友達もいっぱいいて、普通にクラブ活動もするし。放課後で部活が無い日は、普通にカラオケやファミレスにも行くし、メイクやファッションだって、みんなと同じように興味がある。どこにでもいる、普通の女の子。
普通、普通、普通……。
わたしは、普通の女の子なんだ。
舞星は再び鍵盤を見る。
ポン、ポン、ポン。
Cの音をゆっくりと、確かめるように叩く。
それから、幼い頃に大好きだった『ハート&ソウル』を弾き始めた。
本来なら弾むように明るく、心を躍らせるための連弾曲。けれど、地下のスタジオに響き渡るその音色は、今の舞星の心を映し出すように、どこまでも物悲しく、独りぼっちだった。




