腹下し
今日の夕食は冷しゃぶだった。いつも通りに堪能し、いつも通り、美食で幸せに浸っているであろう鏡花のいる牢に行くと、どうも様子が変だ。見れば盆の上には手をつけておらず、鏡花が丸くなって床の上に転がっている。病気だろうか。心配になった宗太郎は、朱塗りの格子越しに呼び掛けた。
「おい、鏡花。どうした」
「宗太郎お~~~~」
弱った猫のような声である。声が湿っている。泣いているのだろうか。宗太郎は牢の扉を急いで開けると、中に入った。
「お腹が痛い……」
「食べ過ぎか!?」
訊いてから、鏡花に限ってそんなことがあるだろうかと思う。
「解らない。お腹がしくしくする」
「待ってろ。医者を呼ぶ」
うん、と頷いた鏡花は、普段の十倍はしおらしく、いつもこうだと可愛いのに、と宗太郎は思った。果たして呼ばれた白髪の医者が言ったことには。
「軽い腹下しですな」
「大事には至りませんか」
「至りません。ほい、お薬」
丸い丸薬の入った硝子瓶を渡された。
「朝晩に二錠、飲みなさい。じゃ、お大事に」
後には虫のすだく音と、仔猫のように小さくなった鏡花が残された。
「おい、鏡花。とりあえず、浴衣に着替えろ。着物じゃきついだろう」
「うん……。あっち向け」
「はいはい」
蓮の花柄の浴衣に着替えた鏡花は、しどけなく床に横たわった。宗太郎は常温の清水を入れた湯呑みを持って来た。
「ほら、薬を飲め」
「ん」
鏡花の上半身を抱え起こして支えてやり、薬と湯呑みを渡した。鏡花は、今日に限っては従順に宗太郎の言うことを聴く。
「それからな、これ」
そう言って、宗太郎は土鍋を差し出し、蓋を開けた。独特の芳香が牢内に満ちる。
「豆腐を煮崩した粥だ。お前のことを話したら、おとよさんが作ってくれた」
粥には胡麻油がほんの少し入っていて、それが食欲を刺激する。優しく柔らかい口当たりの、養生食である。鏡花は散蓮華で粥を掬い、ふう、ふう、と息をかけて冷ましながら少しずつ食べる。日頃の大食漢振りとはまるで違う在り様に、宗太郎の庇護欲がそそられた。
「食べ終わった。美味しかった……」
「今日はグルメリポーターをしないんだな」
「私はそんなことをした憶えないぞ」
「そうかそうか。下げてくる」
土鍋を載せた盆を掴み、牢の扉に向かおうとすると、宗太郎の着ている単衣の袖を、鏡花が摘まんで引っ張る。
「うん?」
「すぐ戻る?」
「うん」
上目遣い、潤んだ瞳で尋ねられて、「諾」以外の返答が出来ようか。
台所ではおとよが心配して宗太郎を待っていた。
「若様。鏡花様のお加減は如何ですか?」
「だいぶ落ち着いてましたよ。大丈夫です。おとよさんの作ったお粥を美味そうに食べてました」
「良かった……。若様、しばらく鏡花様について差し上げてくださいね?」
「その積もりです」
「理性を忘れてはなりませんよ?」
「……その積もりです」
牢に戻ると、鏡花はすうすうと、寝息を立てて眠っていた。
「すぐ戻れとか言った癖に」
呆れつつも宗太郎は鏡花の眠る傍に片膝立てて座った。牢内にはまだ、優しい粥の匂いが残っている。持参した文庫本を読みながら、宗太郎はしばらく鏡花が眠る牢内に留まった。虫の清らな音色はいつも通りで、これでは邪心も起こらないな、と宗太郎は軽く苦笑いした。