幸せの囚人
指輪のサイズ直しが出来上がった。鏡花は宗太郎にせがんで、左手の薬指にそれを嵌めてもらった。非番の今日、宗太郎もゆっくりしていて、午前中に店で指輪を受け取った帰り、鏡花が待ち切れないと言って、近くの公園で指輪の箱を開けたのだ。陽光に左手をかざして、鏡花が微笑んでいる。
「キラキラしてるな。とても綺麗だ」
「お前、もう痩せるなよ。サイズ直しは肉がついた場合のみ、許可する」
「どうしてだ! 宗太郎は豊満がタイプなのか!」
ザーーーー、と滑り台を何気なく滑り降りながら、宗太郎は断固として首を横に振る。
「お前が痩せ過ぎだから言ってるんだ。どうして大食漢の癖に細いんだ!」
「それは異能に蓄積されるからで」
「知ってるけど! お前、下手に自分の体質をばらしたら、世の女性を敵に回すからな。言動にはよくよく気をつけろよ」
「うん。ブランコ楽しいな」
「言ったばかりで何してるんだよ」
「宗太郎も乗ろう。たまには童心に帰ることも必要だぞ?」
鏡花はいつも童心に帰っている気がする、と宗太郎は思いながら、仕方なく鏡花の隣のブランコに乗った。すると鏡花が、自分のブランコを漕ぐのを止めて、宗太郎のブランコを物欲しそうに見つめる。
「……何」
「二人で乗ろう。片方が立ち漕ぎして」
「良いけど……。お前が座れよ。俺が立って漕ぐ」
「何で?」
「俺が男だから!」
「解り切ったことを言うな」
「うん……。もう良い」
座る鏡花を脚の間に挟んで、宗太郎はぐん、とブランコを漕いだ。寒空に届きそうな勢いだ。
二人乗りは、宗太郎にとって甘美な地獄だった。小さな遊具だ。鏡花の柔らかな身体が宗太郎に当たる。宗太郎は耐えた。鏡花の嫌がらせの可能性も考えながら、ブランコという遊戯を耐え抜いた。
そんな日々を送っていたから、宗太郎は鏡花との仲は多少の問題はあれ、落ち着くべきところに落ち着くべきもの、と信じて疑わなかった。しかし、ある日、禎允に執務室に呼ばれ、話を聴いてから顔色を変えた。自分の楽観を知る。
「鏡花ちゃんがな。時々、深夜、私の執務中に来る」
「は? どうして父さんなんかの部屋に。俺も一緒に寝てるのに!」
「うん、まあ、今の暴言は聴かなかったことにしてやる。それでだな、泣くんだ。あの子」
ドキリとした。なぜ、とも思う。逸る鼓動が、禎允の続く言葉を待っていたし、拒んでもいた。
「どうして……」
「冷静に聴けよ。……千鶴、と言っておる。時々、名を呼びながら、顔を覆って静かに泣くのだ」
宗太郎の心臓にひびが入った気がした。
「無意識下に、抑え込んでいる記憶が顔を覗かせるのだろう。宗太郎。あの子の傷はな、まだ到底、癒えておらんのだよ。……それはまあ、お前の前で泣く訳にも行くまいよ。私も困ってな。あの子が落ち着くまで、頭を撫でてやることくらいしか出来ん」
禎允から聴いた話がショックで、宗太郎は足取りも覚束なく、牢に戻っていた。牢では鏡花が待っている。
「宗太郎! 禎允殿の話は何だった?」
邪気のない笑顔に、途方もない苦悩と悲しみを抱えているのかと思うと、遣る瀬無くなる。
「別に……。どうってことのない、仕事の話だったよ」
「男の人は仕事の話が好きだなあ。千鶴はどうだったか知らんが」
「え?」
「ん? 何だ?」
「鏡花。今、お前、何て言った?」
「男の人は仕事の話が好きだなあと」
「違う、その後」
「千鶴はどうだったか知らんが――――え? 千鶴? 誰だ?」
あれ? と言いながら、鏡花の頬を涙の粒が滑っている。鏡花は、千鶴を決して忘れない。宗太郎は改めて、そのことを思い知った。鏡花の心を返してくれ、と、今は亡き相手に願う。それが叶うのなら、何をしても構わない。宗太郎には、鏡花の涙を止める術がない。こんなにも想っているのに、泣き顔を呆然と見ていることしか出来ない。遠い、と感じた。幼い頃からずっと一緒にいた少女が、今はこんなにも遠くなってしまった。今の鏡花に、自分が何をすれば良いのか、どうしてやることが出来るのか、まるで見当がつかず、宗太郎は途方に暮れた。
常ならば許されない巫女との面会に、宗太郎は千鶴の一件の功労者として、特別に許可を得て臨んだ。押小路の温情である。思えばもう何年も会っていない母との再会である。青い、寒々とした色の部屋に宗太郎は通された。伊織は穏やかな微笑を湛えて、久し振りとなる息子の顔を見つめた。
「久し振りね、宗太郎君。元気だった?」
「――――はい。母さんも」
伊織が目元を和ませる。
「母さんと、呼んでくれるのね。有り難う」
「昔は俺も、色々と判らなかったから」
「大人になったということかしら。……禎允さんも喜ぶわね」
「母さん」
「なあに?」
「死んだ人には、どうしたって勝てないのですか?」
「……鏡花ちゃんのことを言ってる?」
宗太郎は両手で握り拳を作り、下を向いた。伊織は巫女として、『婦女子連続胸穴事件』にも、千鶴の一件にも通じている。千鶴と鏡花の間柄、その顛末も。
「勝てないわね。残酷なことだけれど、それが真実よ。宗太郎君」
「…………」
「でもね、人は生きている限り、前を向くしかないように出来てるの。勝てなくても良いじゃない。鏡花ちゃんを、生きている、今の貴方が共に歩いてあげればそれで。私は、禎允さんとそれをしたくても叶わない。仕方ない。それが私の宿命だもの。でも、貴方たちには傍で支え合える未来がある。そのことが、どれだけ貴重なことか。千鶴君に、宗太郎君が一生、勝てないとしても、千鶴君は千鶴君で、生きている鏡花ちゃんを幸せにすることは、もう不可能なのよ。その道は、永遠に断たれてしまった。宗太郎君は、千鶴君から見れば、とても恵まれているの。少しくらい、鏡花ちゃんの心に彼が住まうことなんて、許してあげなさい。鏡花ちゃんと、恵まれた牢内で、美味しい食事が出来るのは、生きている貴方の特権なんだから」
宗太郎は、巫女であり、母でもある伊織の言葉を黙って受け留めていた。彼女が、真摯に言葉を紡いでくれるのが判る。それが判る分、鏡花の全部が欲しいのだとは、言い出せないものがあった。それは、母の前で張る子供の意地のようなもので。宗太郎は、礼を言って、部屋から出ようとした。それから、ふと思い留まり、伊織を振り返った。
「母さん」
「何?」
「父さんは、今でも、結婚指輪を嵌めています。……それだけです。お元気で」
宗太郎が去った室内に遺された伊織は、成長した息子がくれた言葉を反芻していた。今は逢えない。けれど、いつかきっと、また共に暮らせる日が訪れる。それは、巫女としてと言うより、一人の女性として、妻として、願い確信する事柄だった。
巫女としての異能が顕現した運命の日。伊織は県庁の一室に事実上、軟禁され、家族との接触を禁じられた。それが、覆ることのない決定事項だと押小路に告げられた彼女は、絶望し、自害を試みた。伊織の命を救ったのは、他でもない伊織を追い詰めた張本人である押小路だった。病室から出て行けと叫ぶ伊織に、押小路が頭を下げた時には目を瞠った。堪えてくれ、と。何をしてでも償いはするから、生きて巫女の務めを果たしてくれ、と押小路は言った。それから、取り上げられた筈だった結婚指輪を返された。
自分の薬指に嵌まる指輪を撫でる。
「……本当、生きてみるものね。今日は、良い日だったわ」
それから伊織は、離れた家族を想い、少しだけ泣いた。
宗太郎は九曜邸の牢内に戻った。心は晴れたとは言い難い。それでも、母からの助言で得られたものは確かにあった。宗太郎には、千鶴に出来ることが出来ない。逆に、千鶴にも、宗太郎に出来ることが出来ない。おあいこだ。牢の炬燵でうたた寝をしていた鏡花が、宗太郎の戻った気配に目を覚ます。笑顔の花が咲く。
「お帰り、宗太郎」
「ただいま、鏡花。……なあ、鏡花。今日から、同じ布団で一緒に寝ないか? 結婚するまでは何もしないから」
「良いけど。結婚したら、何かするのか」
「え、いや、まあ、夫婦だから……」
それなりに、とボソボソ答える。宗太郎は、それから黙った、沈黙が長かったので、鏡花が不思議に思い、宗太郎の顔を窺う。冬の早い黄昏が、牢内に暖色の顔をして忍び入っている。
「本当は、お前の全部が欲しいんだ。千鶴にだって、少しも譲りたくない。……俺は、心が狭いから」
鏡花は、耳慣れない名前に首を傾げながらも、宗太郎が真剣に話しているので、大人しく聴いている。宗太郎が、急に自分を見たので、ドキリとする。彼の双眸は水を湛えていた。同時に、口角は上がり、笑みを形作っている。
「――――宗太郎。宗太郎、どうした。何があった。話してみろ。私に出来ることなら、何でもしてやる」
「……何でも? 本当に?」
「うん」
じゃあ、と言って、宗太郎は鏡花を抱き締めた。加減なしの、ありったけの力を籠めた。鏡花が苦しいかもしれない、などという頓着はしなかった。
「死ぬまで傍にいてくれ。幸せにする約束は、難しい。俺には、俺に出来ることしか出来ないから。九曜宗太郎であることしか出来ない。……他の、人間にはなれない。だから、これは不平等条約だ。俺の、一生の我儘だ。ずっと、鏡花と一緒にいたい」
「不平等条約じゃない、不平等なんかじゃないぞ、宗太郎! 私もお前と一緒にいたい。ずっと、ずっとだ。いつか言っただろう。お前なら、私に何をしても良いんだ。私の全てを、お前にやるから」
その言葉は、確かに過去、鏡花が言ったものだった。だが、あの時、鏡花はまだ千鶴を強く想うほどには至っていなかった。血の繋がりも知らなかった。しこりは、残る。それでも、宗太郎は、悪魔に魂を売る気持ちで、鏡花を手放すまいと思った。いつかその罰が下り、自分こそが牢に繋がれ、地獄の業火に焼かれるとしても。ますますきつく、鏡花を抱き締める。それでも鏡花は、一度も苦しいとは言わなかった。宗太郎は、腕の力を少し緩めた。
「なあ、鏡花」
「うん?」
「この家の中で、…………いや、お前に連なるこの世界中の人間の中で……、誰が一番好きだ?」
「何だ、今更それを訊くのか? 大層な言い回しだな」
鏡花の呆れ混じりの声が耳元で響く。
「うん。鏡花の口から、はっきり聴きたい。なあ。誰が一番好き?」
鏡花が、上を向いて宗太郎と顔を合わせ、宗太郎の両頬を包んで笑った。
「世界中で宗太郎が一番だな!」
千鶴の遺言を鏡花に伝える日は、きっと一生来ない。千鶴が、彼女の中、奥深く仕舞い込まれている限り。言わなくても、恐らく鏡花には伝わっている気がする。そう確信するだけの絆を、二人の間に感じ取ることは苦しい。けれど背負って行ける。鏡花が笑って、宗太郎が一番だと言ってくれたから。例え仮初めだとしても、宗太郎は幸せだった。死人に勝てないと言われた。それでもいつか、鏡花の中の千鶴を超えてみせる。
贅を尽くした牢に、囚われているのは一体、誰だろう。
幸せの形ですら、人には定かに解らない。
直に夕闇が訪れる。滋味の芳香が流れ漂う。
今宵もまた、美食牢に明かりが灯る。
<完>
本編を振り返る後書き(司会者九藤)を21時に更新します。




