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美食牢  作者: 九藤 朋
美食牢 
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聖夜のこと

 聖夜。宗太郎は今日も仕事をさっさと切り上げると、九曜邸の牢内に帰った。もう、〝帰る〟という言葉がしっくり来るくらい、この牢に居ついてしまっている。季節柄、着流しに綿入(わたい)れ、袴の上に分厚い黒の外套を羽織り、濃紺の大判マフラーをぐるぐる首に巻き付け、手には革手袋、という重装備だ。特に寒さに弱い訳ではないのだが、油断して風邪でもひけば、鏡花の傍にいられなくなる。それを恐れて、鏡花が眠って以降、彼は自身の健康に人一倍、気を遣うようになった。寄り道せず、帰宅しようとした宗太郎だったが、途中で気が代わり、宝飾店に立ち寄った。そこで手に入れた、綺麗にラッピングされた小箱をそっと鏡花の枕元に置く。

「メリークリスマス。鏡花。外は冷えてるよ。お前は寒くないか? ……それでな。お前に似合いそうな指輪があったから、プレゼントで買ってみた。サイズが合わなかったら、店に直してもらいに行こう」

「うん」

「普通に、ありきたりなダイヤなんだけどな。別にその、深い意味がなくても、構わないんだけど」

「うん」

 宗太郎は安堵の笑顔を見せる。

「あ、開けてみるか? 嵌めてみるか? お前、指が細いから、指輪がクルクル回るかもしれな……」

 そこまで言って、ようやく宗太郎は違和感に気づいた。

〝鏡花が返事をして、意思疎通が成り立っている〟

 宗太郎は喜ぶより前にぎょっとして、思わず飛びずさった。鏡花の目が開いている。宗太郎を見ている。

「――――おい、鏡花」

「何だ、宗太郎」

「起きてるのか」

「見れば判るだろう。ああ、よく寝た」

「お前、今がいつか解っているのか?」

「秋……になったばかりだろう。にしては寒いな」

「え? 寒い?」

「うん。すーすーする」

「待て。暖房を強くするから」

 朱塗り格子には薄い硝子が嵌め込まれ、実際には牢の機能を果たしていない。見せかけだ。空気が遮断されているので、空調も効果がある。

「宗太郎はどうして、こんな時間に私の牢にいるんだ? あれ? 私はいつ食事をした? 何だか頭がぼんやりして、記憶がはっきりしない」

 鏡花は、額に手を当てて顔をしかめている。記憶が混乱しているようだ。

「鏡花……!」

「わ、どうした、宗太郎!」

 元から細かった身体は、昏睡状態が長かった為に、より一層、細く、折れそうになっていた。そんな鏡花の身体を、宗太郎は傷めないように抱き締めた。柔らかく温かく、ずっと焦がれていた温もりだ。

「……なあ、宗太郎」

「何だ」

「指輪、くれるのか?」

「えと、うん……」

 鏡花がにっこり笑う。

「有り難う! 嵌めてくれ!」

 結果。宗太郎が大枚はたいて買ったダイヤの指輪は、鏡花の左手の薬指をメリーゴーランドのようにぐるぐると回った。勢いの良い回りっ振りに、買った宗太郎が閉口してしまったほどだ。

「……ごめん。身体が快復したら、今度、一緒に店に行ってサイズ直しを頼もう」

「うん」

 宗太郎は鏡花をちらりと見る。精神状態は、安定しているように見える。食事を断っていたせいで、ひどく痩せてしまっているのが痛々しいが、表情は元気だ。

「鏡花。あの夜のことを、どこまで憶えている?」

「あの夜?」

 宗太郎は、千鶴の名前を言い淀んだ。もう、宗太郎の中でさえ、忘れ難いものとなっているその名前。結局、慎重に口にした。

「大目黒千鶴に、お前が海辺の小屋に連れ去られた……」

 鏡花は、切れ長の目を丸くして、きょとんとしている。それから、宗太郎の顔の前に掌を広げて、大きく振って見せた。

「宗太郎。お前、大丈夫か。大目黒千鶴とは、一体誰のことだ?」

 宗太郎は愕然とした。嘘や冗談を言っている雰囲気ではない。鏡花は真面目に、宗太郎が迷いながら告げた名前を、知らないものとして認識している。

「……白衣太鳳は解るか」

「どうして私が、母様のことを忘れるんだ」

 些か、憤然として鏡花が答える。

「大目黒千里」

「…………?」

 小首を傾げている。本当に、本気で解っていない。宗太郎は理解した。鏡花は、自分の記憶の中から、とりわけ憶えておくに辛い名前を抹消したのだ。それは、千鶴の存在が軽かったからではない。逆だ。鏡花にとって、千鶴がどこまでも特別だったから、忘れたのだ。忘れることを選択したのだ。どうすれば良い、と思う。こんな鏡花に、婚約指輪を贈って、結婚を迫るような真似をして許されるのか。記憶は失くしても、鏡花の中で千鶴はまだ、確かに生きている。〝存在しない人間〟は、つまり〝死にようがない〟。そのようにして、千鶴を死から遠ざけようとする。

『良いか、鏡花に、俺を惜しませるなよ』

 惜しませるも何もなかった。鏡花は千鶴を、誰にも触れさせぬ宝のように、記憶の海に沈めてしまった。

「……暖房強めても冷えるな」

「宗太郎、お前も布団に入れ。ほら」

 鏡花が、自分の隣をポンポン、と叩く。宗太郎は、綿入れや袴に煙草などの臭いがついていないか確認してから、鏡花の隣に長身を押し込んだ。少女の隣は温かかった。長らくの昏睡状態で弱っている筈なのに、生命の放つ熱がある。

「鏡花。昔話をしても良いか?」

「珍しいな。何だ?」

「うん……。昔々、緑の目の少年がいてな……」

 宗太郎は、千鶴の存在を、架空の物語として鏡花に語って聴かせた。鏡花は興味深そうに聴き入っていたが、やがてすうすうと寝息を立てて眠った。鏡花の記憶を、悪い方向に刺激した可能性はなさそうだ。宗太郎は複雑な心中で、鏡花の床から抜け出て、自分の布団を敷くと、着替えて眠りに就いた。

 鏡花が目覚めたと知った時の、禎允のはしゃぎようと来たらなかった。盛大に祝うぞ、かずさんにご馳走を作ってもらうんだ、と宣言して、執務室でご機嫌だった。但し、鏡花が大目黒千里、千鶴親子の記憶を失くしていることを宗太郎が告げると、複雑な表情になった。かずさんとは、おとよ、もとい千鶴の後に入った家政婦頭で、おとよにも負けない料理上手のふくよかな女性だった。陽気でよく笑い、目覚めた鏡花とも気が合っているようだ。そこではた、と思い当たった宗太郎は、鏡花におとよのことを訊いてみた。

「私がおとよさんを忘れる筈がないだろう。娘さんの出産に伴い、里帰りされたのは実に残念だった。かずさんの料理も劣らぬ美食だがな!」

 どうやらおとよは、千鶴とは別の存在として鏡花の中で認識されているらしい。それが如何にも鏡花らしくて、宗太郎は少し笑った。鏡花が目覚めてから、どやどやと千客万来の日々が続く。尊、明子、卓、咲、篠等々。とりわけ尊は、鏡花ちゃんに翔子(しょうこ)を抱っこしてもらうんだ、と意気揚々だった。翔子というのは、尊と明子が一緒に考えて名付けた、愛娘の名前である。少し前までは世界の終わりのようだった鏡花の牢内が、一挙に賑やかになる。鏡花が尊にずずい、と赤ん坊を差し出され、恐る恐る抱っこした。鏡花もいつかは母になるのだろうか、などと夢想した宗太郎は、その中に自分の邪心を感じて、自分の頬を平手で打った。卓がぎょっとした顔をする。

「うお、何してんだ? お前。相変わらず、訳わかんねー奴だな」

「お前には言われたくない……。俺はこれでも色々考えて悩んでるんだ」

「宗太郎、その内禿げるぜ」

 鏡花は、自らの時間のブランクに余り疑問を抱いていない。その証拠に、宗太郎に問い質すこともない。それもまた、彼女の一種の逃避であろうと思いながら、誰もそれについて言及はしなかった。


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