おとよさんの豆乳素麺
夜の帳が下りる頃。美麗なる牢に響く音。
鏡花が、豆乳素麺を啜っている。その勢いよく元気な様には、夏バテの気配は欠片もない。夏バテになったのは、家政婦頭のおとよだった。誠に申し訳なく、との言葉と共に、鏡花の夕食に供せられたのは、豆乳素麺と輸入物のウィンナー。自身はバテて食欲減退しているであろうにも関わらず、家人の胃袋と栄養を最低限でも満たそうとするおとよは、家政婦の鑑と言える。
「ああ、おとよさん! 忠告も虚しく病の床に。出来るなら私が看病して差し上げたい!」
ズ、ズズーーーー、と麺を啜りつつ、感極まったように言う鏡花だが、余り様にはなっていない。牢の外から見ている宗太郎も呆れ顔だ。
「この、豆乳と白出汁のコンビネーション。擦り胡麻に、紫蘇、茗荷の薬味よ。添えられた梅干しの酸っぱさがまた、豆乳のまろやかさとマッチする。何と美味しいのだろう。これならいくらでも麺が食べられる」
「お前がいくらでも食べられるのは今に限ったことじゃないだろう」
宗太郎の突っ込みは聴かなかったことにして、次はウィンナーにたっぷりの粒マスタードをつけて食べる。カリン、という小気味いい音。もぐもぐと咀嚼して、冷えた緑茶をごくごくと飲む。これを華奢な美少女が行っているのだから、呆れを通り越して感心してしまう。こいつ、本当に母親の敵討ちなど志しているのだろうか、と宗太郎が猜疑の目で鏡花を見てしまうのも詮無い話だった。
「……宗太郎」
「お代わりか?」
「うん。素麺を山盛り一杯、薬味もちゃんとつけて。後、ウィンナーは十本追加ね」
「なあ、お前の胃袋異次元袋じゃないのか」
「こんな見目麗しい女性を前にして何を言うか」
言うことは間違ってないのだが、どこか釈然としない。それでも台所に向かうあたり、立場の弱さである。本来であれば鏡花のほうこそが、宗太郎の下に位置すべき間柄であるが。鏡花を散歩に誘った日、宗太郎は禎允に問い質した。白衣家を乗っ取ったのは、私心からだったのか、と。禎允は、少し黙ってからおもむろに口を開いた。
『白衣家は最大の異能の家と目されていた。それは翻せば、それだけ風当りが強いことを意味する。まだ若い鏡花ちゃんに背負わせるには忍びない。九曜が白衣を乗っ取ったと聴けば、世間の同情は鏡花ちゃんに向かうだろうし、彼女の身の安全も確保しやすい』
この男が父親で良かった、と宗太郎が思った瞬間だ。只のロリコンかと思っていた。
『何か失礼なことを考えているだろう』
『いえ、別に』
『逃したテロリストが鏡花ちゃんを狙わないとも限らない。宗太郎。お前は異能を県庁で教えているだろう。その立場から、お前にしか探り出せないことを突き止めろ』
は、とした。確かに、内部の人間であれば、省庁のガードも緩くなる。白衣太鳳の非業の死を、今一度洗い直そう、と宗太郎は決意した。
「若様?」
「あ、おとよさん。起きていて大丈夫ですか」
台所に、浴衣にカーディガンを羽織った姿で現れたのは、家政婦頭のおとよだった。白髪が目立つ頭部はふんわりお団子に結われ、ふっくらすべすべの肌に刻まれた皺は優しい。目元がいつも和んでいるような彼女は、家事、とりわけ食事のエキスパートだった。鏡花だけでなく、宗太郎も彼女には世話になりっぱなしであり、頭が上がらない。
「鏡花様、いかがでした?」
不安そうに問いかけるおとよに、宗太郎は笑ってみせる。
「いつも通り、美味そうに食べてました。お代わりが欲しいと言うんで、俺が来たんです」
おとよの顔に、喜色が広がる。
「あらあらまあまあ、嬉しいこと。鏡花様は、殊の外、美食家でらっしゃいますから、私なんぞの食事がお口に合うかと、いつもドキドキしておりますのよ」
「おとよさんの飯が一番、だそうですよ」
それを聴いて、おとよは今度こそにっこり笑った。それから宗太郎は、おとよの指示を仰ぎながら豆乳素麺を山盛りお代わりして、ウィンナーもトースターで焼くなどした。
「待たせたな。お代わりだ」
「有り難う」
再び牢に戻り、鏡花に盆を渡すと、心から嬉しそうな笑みを鏡花は浮かべた。いつもこんなんなら良いのに、と心でぼやきながら、付け加える。
「おとよさんが喜んでたぞ」
「何っ。私の愛しのおとよさんが!」
「お前が美味しそうに食べてること話したらな」
「そんなものでおとよさんが喜んでくれるなら、いくらでも話すが良い。宗太郎、おとよさんの様子はどうだった?」
「元気そうだったよ。夏の疲れが出たんだろう」
「良いか。彼女を至上と思え。丁重に、厚く看病するんだぞ」
「……ほんと、好きな」
「大好き!」
ズ、ズーーーー、と麺を啜る音が再開する。
旦那の胃袋を飯で掴めとはよく聴くが、鏡花の場合は完全に胃袋をおとよに掴まれている。
「おとよさんは良いなぁ」
「ん?」
「いや、何でもない」
虫のすだく音が、次第に大きくなっていた。