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美食牢  作者: 九藤 朋
美食牢 
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ルパンの素顔

 結界が開錠された。鏡花の牢の結界も同様である。

 夕暮れが迫る。薄紫の雲が棚引く。卓が九曜邸に到着し、いよいよ切迫した事態が露わとなる。男たちが、異能や刀の手入れ等を気遣い、話し込んでいる時、鏡花は牢の外の庭にいた。烏が群れを成して飛んでゆく。安心出来るねぐらがある彼らを、今だけは羨ましいと思う。今日、ここが正念場なのだ。この宵をしのぎ切れば、鏡花の牢屋も再び安心のねぐらとなる。宗太郎と、一緒に食事をして、他愛ない話をするのだ。宗太郎は鏡花を嫁にしたいと言ってくれた。その時の彼の顔を思い出して、鏡花も釣られるように赤面し、俯いた。南京櫨や銀杏が、色直しの準備をしている。上を向いてそんなことを確認しつつ、胸元に拳を置く。紅蓮の玉が埋まるそこは、今は静まり返り、何の反応もない。

「鏡花様?」

 思わぬ声が掛けられ、鏡花は驚いて目を瞠った。温和そうな初老の婦人。

「私です。おとよです。娘の出産から無事、戻ってまいりました」

「――――おとよさんっ。赤ん坊は、お孫さんは、無事に産まれたのか?」

 おとよが柔和に笑んで頷く。

「はい。お蔭様で、母子共に健康で」

「そうか。それは良かった。……あ、しかし、今は時期がまずい。おとよさん。追い返すようで済まないが、娘さんの自宅に引き返すことは出来るか? ここは今夜、戦場になる」

 おとよが目を丸くする。

「まあ――――。それで」

 おとよの目が、次に細くなった。まるで三日月だ。次に彼女が言った台詞を、鏡花は信じられない思いで聴いた。

「結界も開錠されているんだね? 鏡花」

「…………は?」

「カラーコンタクトもね、慣れない内は痛かったよ」

 そう言っておとよは、目からコンタクトを外す。現れたのは緑色の瞳。まだ、鏡花が切り捨てられない森の色。

「迎えに来たよ、鏡花」

「――――嘘だ、おとよさん」

「本当だ。俺が変装の名人だということ、君もとうに知っているだろう? 俺は大目黒千鶴。おとよなんて言う人間は、最初からどこにも存在しなかったんだよ」

 いっそ憐れむように、慈愛深い表情と口調で、千鶴は鏡花に迫った。鏡花がじり、と後ずさる。

「まだ疑うなら、九曜家の台所の間取りや、棚の奥から何番目に菜切(なきり)包丁や刺身包丁が置かれているか、言おうか? 椎茸や鰹節、昆布なんかの乾物の置き場所、塩、砂糖、味噌の備蓄場所でも良い」

「おとよさん……」

「鏡花っ!!」

 牢に姿の見当たらない鏡花を捜しに来た宗太郎が叫ぶ。〝おとよ〟の姿を見て訝しむように眉根を寄せ、急ぎ鏡花の立つ庭まで駆けて来た。おとよの変装を解かない千鶴は、無表情に、無感動にそんな宗太郎を見ている。

 日が沈む。

 最後の黄金の欠片が、ひと際、眩く輝く。

「おとよさん……?」

「やあ、宗太郎」

 応じたのは、初老の婦人からはかけ離れた男性の声だった。目が緑色だ。信じ難い事実を、宗太郎の脳は導き出した。

「大目黒……、千鶴」

「そうだよ。声色もね、変えられるんだ。どうだい、俺の演技は。如何にも、それらしく振舞えていただろう? おとよにとって、君は物覚えの良い生徒だったよ」

「鏡花。知って……?」

 宗太郎の猜疑の問い掛けに、鏡花は激しくかぶりを振った。

「違う! 私は、知らなかった」

 千鶴が緑の目を細めた。

「想い人を疑うか。君も大した度量ではないらしい。それじゃあ、鏡花は貰って行くよ。彼女個人に結界が施されていなくて助かった。九曜禎允か、鴉だかの、らしからぬ油断かな?」」

 千鶴が、着ていた道行を脱ぎ去ると、もうそこに立つのはおとよではなく、大目黒千鶴の他、何者でもなかった。

「精霊の腕」

 鏡花を素早く抱えた千鶴が、異能を発動させ、鏡花を眠らせる。鏡花の身体から力が抜けた。宗太郎は、下がった手を目掛けて思い切り、手を伸ばした。しかしその手は虚しく空を切り、千鶴は鏡花を宝物のように抱きかかえたまま跳躍すると、疾風の速さで姿を消した。宗太郎は追えなかった。ご丁寧なことに、千鶴は宗太郎の両脚に枷の異能を掛けていたからである。目の前で、最愛の少女が連れ去られるのを、只、見ていることしか出来なかった。知っていたのかと問うた時の、鏡花の傷ついた顔を思い出す。知っている筈がない。


〝なぜなら、鏡花は今まで唯の一度もおとよと顔を合わせたことがないのだ〟


 いつも、おとよの美食を賛美し、その料理に虜になり、人柄の想像を膨らませて憧れていた。もしかすると、亡き母の面影を探していたのかもしれない。

『この家で、誰が一番好きだ?』

『おとよさんだな!』

『鏡花には……とよ太郎という想い人がいるから諦めたが良いぞ』

『鏡花の目にはとよ太郎しか映っていない』

『良いか。彼女を至上と思え。丁重に、厚く看病するんだぞ』

『私はここにいるぞ? 何と言ってもおとよさんがいるからな』

 鏡花は、一途におとよを慕っていた。ガラガラと、足元を支えていた岩が崩れ去るような心地がする。鏡花は、おとよを通して千鶴を慕っていたのだろうか。いや、そうとは思えない。――――思いたくない。思えば、おとよがいない時は、決まって宗太郎たちが千鶴と対峙していた時だった。

「千鶴。どうして鏡花を裏切った。どうして……」

 櫨の葉が一枚、はらりと落ちる。藍色が空を濃くする。

「鏡花はお前のことが大好きだったんだ。この家の誰より、俺より好きだと言ったんだぞ!」

 鏡花は連れ去られる時、目を閉じていた。それは、もしかすると千鶴の異能によるものばかりではなく、現実を直視したくない逃避からのことだったのかもしれない。

「宗太郎!」

 卓も異変を察知してやって来る。

「おい。何があった。鏡花ちゃんはどこだ」

「……卓」

「おう」

「鏡花が、千鶴に連れ去られた。あいつは、おとよさんに化けていたんだ」

「はあ!? おい、おとよさんは家政婦頭の女だって、お前言っただろうが! 鏡花ちゃんを連れ去るだと?」

「でも、千鶴だった。俺たちは皆、あいつに騙されていた」

 卓はこういう非常時に対する適応能力が高い。

「解った。隊長と、先輩にも話す。どうせあちらさんから攻めてくるんだ。――――必ず鏡花ちゃんを取り戻すぞ。あのオカマ野郎、ぶん殴ってやる!」

 宗太郎は、再び心に深く痛手を負うであろう鏡花を想い、暗澹たる気分で戦友の顔を眺めた。許せないと思った。鏡花の心を、余裕で支配していた千鶴。嫉妬もある。鏡花の一番は、いつでもおとよだったから。それが偽りの姿だったとは言え、千鶴の一部だ。枷の異能が消えるのを確認すると、庭の下草を蹴って、卓に続いて屋内に入る。

 鏡花が泣いている気がした。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 完全に騙された……! 鏡花も読者も……! しかし鏡花は本当に気づいていなかったのだろうか?
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