甘音
秋雨の一日だった。
しとしとと、淑やかに雨音が牢内にも響く。宗太郎は非番で、今日は牢内で過ごしていた。非番であるからというより寧ろ、今では鏡花警護が禎允にも命じられた宗太郎の任務でもあった。同じ邸内に上司とその妻が滞在している現状は、多少、息苦しいものがあり、それと比較すると鏡花の住む美麗な牢は、息の吐きやすい場所だった。その鏡花は十時のおやつにクグロフとミルクティーを賞味している。美味しそうだ。
「……なあ、鏡花」
「やらんぞ! 欲しければ自分で台所に行って手に入れるんだな。明子さんが用意してくれる」
「明子さんはうちの家政婦じゃないんだがなあ」
「尊が好きにさせてやれと。元々、家事全般が趣味の人のようだ。素晴らしい話だな」
「そうだな。……そうか?」
「ああ」
整頓された調度品を見渡す。いつもながら塵一つない。鏡花の牢を見れば、牢の意味が書き換えられるかもしれない。巨大な薄型テレビや冷蔵庫まで設置された牢屋がどこにあるというのだ。雨音は途絶えることがない。激しくはない、子守話を促すような穏やかな雨だ。だから、宗太郎も切り出したのかもしれない。
「鏡花。紅蓮の玉を俺に渡す積りはないか?」
鏡花はクグロフを頬張っていた動きを止めて、無感動な瞳で宗太郎を見る。
「俺が不安なら、父さんにでも良い。千鶴はお前に執着しているが、害さない保証はどこにもない。透かし身の鏡で、お前が紅蓮の玉の持ち主ということは千鶴にも知れただろう。どんな手を使って強奪しに来るか解らない。頼む。俺は、お前を傷つけたくないんだ」
鏡花はミルクティーを一口飲んだ。
「私には螺鈿総譜がある」
「鏡花!」
「それより私は、問答の前に、お前がなぜそれを知るのかが疑問だがな」
「……父さんから聴いた。鏡花の母上・白衣太鳳が蒼穹の玉を所持し、娘であるお前の胎内には紅蓮の玉を埋め込んだと。その頃には太鳳さんも、お前から無事に玉を取り出せる目算があった。例の呪術師だ。彼は、太鳳さんに協力的だった。…………俺は、お前が自分から言い出してくれる日を待っていたよ」
「伊織殿か」
「父さんは太鳳さんとも友人だったから」
「母様は、禎允殿を余程、信頼されていたのだな。母様との約束だったのだ。誰にも言わないという。私はその言いつけを聴いた時に尋ねた。お前にも言ってはいけないのか、と」
「……」
「母様は駄目だと言った。私は、だから誰にも言わないと母様と約束したんだ」
『玉の行方は?』
『玉を誰が持っているのか、効率的に探すあてはないのか、れいちゃん』
これらの台詞を言った時も、ずっと鏡花は芝居をしていたことになる。透かし身の鏡を持つ怜羽もそれに合わせた。紅蓮の玉の在処を知りながら、まるで見当もつかない振りをした。裏切りかと言えばそうなのかもしれない。しかし宗太郎には、鏡花の孤独が痛かった。彼女はずっと独りきりで、母親と交わした重い約束を背負って来たのだ。
今では鏡花は飲食の手を止め、宗太郎の出方を窺うように、じっと宗太郎を凝視している。
「――――私を恨むか、宗太郎?」
泣き笑いのような少女の顔を見た瞬間、身体が動いた。宗太郎は、鏡花の細い身体を腕に抱き締めていた。香の匂いか。甘さが鼻につく。鏡花はびくりと身じろぎしたが、やがて恐る恐る、宗太郎の腕にしがみついた。
「鏡花」
「……ずっと怖かったよ。宗太郎。知ればお前は、私から離れて行くのではないかと」
「莫迦野郎。どれだけの付き合いだと思ってる」
鏡花は、宗太郎の腕の中、目を閉じた。
「そうか。……そうだな」
「泣いて良いぞ」
孤独に長らく戦って来た少女に、宗太郎は声を掛けた。鏡花がふと上を向く気配がする。
「私は母様が亡くなった時から、己に涙を禁じた。それに、今は空が私の代わりに泣いてくれている」
「泣けよ」
「――――――――莫迦者。話を聴いていなかったのか」
「鏡花」
「私の……、内側を、暴き立てるな……っ」
畳み掛ける宗太郎の、飽くまでも優しい声音に、鏡花の瞳から玉に似た雫が零れ落ちた。鏡花の頬に秋雨が降る。彼女は声を押し殺して泣き続け、その間、ずっと宗太郎は鏡花を抱き締めたまま、離さなかった。
雨はまだ降り止まない。二人は、今では体勢を変えて、宗太郎が鏡花を後ろからくるみ込むような形になっていた。鏡花は背中に宗太郎の体温を、宗太郎は腕の中に鏡花の体温を感じていた。涼しく湿った空気が牢内を満たしている。宗太郎は鏡花が冷えないように、彼女を腕の中に閉じ込めていた。
「玉を千鶴に渡せば良いと思ったことがある……。何度も……、何度も」
鏡花がぽつりぽつりと雨垂れのように呟く。
「そうすれば千鶴の目的を知った時点で、『婦女子連続胸穴事件』は止めることが出来た。れいちゃんを透かし身の鏡目的で殺させることもなかった。私は。母様との約束と命を秤にかけ、母様を優先したのだ。私もまた、人を殺す千鶴の手に手を添えた、共犯なんだよ」
「それは違う。少なくともお前は、千鶴を止めようと必死だった」
「……幼い私には母様が世界だった。母様の言うことは絶対だった。だから約束を守り続けることは、私には自然の摂理だったんだ……」
惨いことだと宗太郎は思う。白衣太鳳は娘を言葉の呪縛で拘束したのだ。その未来までも。彼女は確かに人格者で、可能とすることを多く持つ異能者だったかもしれないが、鏡花を縛った点においては、間違えていた。
「鏡花。紅蓮の玉を取り出すことは出来るのか」
「出来る。私が、私の意思においてのみ」
「千鶴はお前を殺さない。別の手法を以てお前から紅蓮の玉を取り出そうとしているだろう。だが、お前自身の意思で玉を取り出せるのであれば、あらゆる手段を使い、お前にそうさせようとするだろう」
宗太郎の懸念は別にもあった。もし、千鶴が鏡花ごと、紅蓮の玉を得ようとするのであれば。彼女ごと、掻っ攫おうとするのであれば。今は九曜邸内で二重三重に守られている鏡花だが、彼女を千鶴に奪われる可能性もあり得るのだ。千鶴は鏡花を恋い慕っている。多少の歪みはあれ、その想いだけは本物であるように宗太郎には感じられる。
もし、千鶴の手に鏡花が落ちたら?
鏡花の身体ごと、その心を奪おうとしたのなら。宗太郎には我慢ならない想像だった。鏡花を、女性として、千鶴に奪われる。もしかしたら千鶴は、鏡花を妻のように大切に愛し慈しむかもしれない。しかし。
「俺は嫌だ」
「宗太郎?」
鏡花を閉じ込める腕に力を籠める。こんなに華奢で、若木のように折れそうな身体が愛おしくて堪らず、宗太郎は鏡花の白い首筋に唇を押し当てた。鏡花は身体を揺らしたが、抵抗はせず、大人しくしている。宗太郎はハッとした。
「ごめん。違う。鏡花が嫌がることを、する積りじゃなかった」
最悪だ。これでは、千鶴と何ら変わらない。
「私は宗太郎なら、別段、嫌ではないぞ」
その言葉を享受しそうになる。甘えてしまいそうになる。秋雨は降り続けている。朱塗りの格子で仕切られた牢内が、今は艶美なものとして視界に映り、宗太郎の鼓動を速めた。牢内に散る風雅な調度品の数々が、品性のある小道具として沈黙している。
鏡花が振り向いた。その瞳には涙の名残があり、宗太郎の胸を締め付ける。
「……もっと早く、気づいてやれれば良かった……!」
鏡花は、実のところ牢内にずっといたのだ。独りぼっちで。事情を知る、庇護者でもある禎允もまた、太鳳との約束ゆえに鏡花に打ち明け、彼女を掬い上げる道を選ばなかった。事が起きるまで、巌のように沈黙し続けた。宗太郎は生まれて初めて、父を恨んだ。
「宗太郎」
呼ぶ鏡花の声は優しい。それで、宗太郎は、自分はとっくに彼女に赦されているのだと知る。
「お前が思うほど、私は孤独ではなかったよ。禎允殿もお前も、十分に優しくしてくれた。九曜の家がなければ、母様が私を託さなければ、私はもっと深い暗闇に落ちていただろう」
鏡花の穏やかな白い面が、自分を見ている。長い睫毛も、切れ長の瞳も、全てが宗太郎のよく知る鏡花だった。気づけば、花のようにふっくらした小さな唇に口づけしていた。予想以上の甘さに、宗太郎は陶然として、夢中になり更に強く唇を押しつけた。熱情も真摯さも、鏡花へのこの上ない愛情も、全て、ありったけが籠められた口づけだったが、それに勝る衝動を否定は出来ない。激しく求めるように舌を絡ませても、鏡花は抵抗しない。鼻から漏れる息が、宗太郎の熱を懸命に受け容れていることを知らせる。恐ろしくなった。想う女性が、目の前で自分を赦し続けることに。雨音は甘音として牢内に降り注ぎ、宗太郎は内心で誰かに助けを求めるように悲鳴を上げていた。
『私は宗太郎が好きなんだよ。もう、滅茶苦茶に暴れたくなるくらい』
嘗ての鏡花の偽言が、今は宗太郎の真実と化している。
唇を離した時に、宗太郎の唾液で光る唇を鏡花が動かした。
「なぜ泣く」
「――――俺が所詮、千鶴と同類と知ったから」
鏡花は、宗太郎の胸にこつりと額をつけた。
「違うよ、宗太郎。お前と千鶴は全然、違う。千鶴は私を奪うのに、きっと躊躇わない。謝りも、泣きもしない。愛情を免罪符に、当然の如く抱くのだろう。だからお前は、違う」
耳が、鏡花の何気ない一言に鋭敏に反応する。
『当然の如く抱くのだろう』
それは考えただけでおぞ気がする想像だった。鏡花の、白い肌を千鶴が蹂躙すると思うだけで、例えようもない激しい嫌悪感に襲われる。
「もう知っていると思うが。俺はお前が好きだ。鏡花」
「うん。ずっと態度で示してくれたな。私も宗太郎が好きだよ」
好きだよ、の台詞の箇所で、雨音がより大きくなった気がした。宗太郎の後押しをするように、鏡花は自ら後ろ向きに倒れた。白い鳥が、翼を畳みに広げたようだった。宗太郎は鏡花の頬に触れた。指が小刻みに震えている。鏡花の着物の襟元を、そっと押し開ける。肌を吸えば、例えようもなく甘い。衣擦れの音が響く。
鏡花に触れた。
気が狂いそうだった。宗太郎は、なけなしの理性で、自分を留まらせた。こんな風に成り行きで、鏡花とどうにかなってしまうことを恐れた。もっと彼女を大事にしたい。
「宗太郎は、それだから駄目なのだ」
それだから良いのだ、と言われたように思う。鏡花は起き上がると、自ら宗太郎に抱き着いた。白い、透けるような肌があちこち乱れた着物から垣間見える。自分の弱さか、罪か、判然としない。
「鏡花」
「何だ」
「お前から離れるべきかもしれない」
「……どうして?」
「今みたいに、歯止めが効かなくなる。俺は、大概、理性ある人間の積りだが、お前が絡むとそれが吹き飛ぶ」
「――――お前も私を置いて行くのか」
悲しそうな声音に、心臓を鷲掴みにされる。
「違う、言葉を間違えた、俺はお前から離れない。お前を守る」
守る、の一言に万感の想いを籠めるのが、宗太郎の愚直さだった。鏡花は微笑んだ。女神みたいに綺麗だなと宗太郎はぼんやり思う。
「頼りにしている。宗太郎。いつか私を貰ってくれるか? 私の全てをお前にやろう」
「鏡花が望んでくれるなら。合法的になら、親父に勘当されることもないだろう」
一、二発は殴られそうだがな、と続けた宗太郎の言葉に、鏡花が忍び笑いを漏らした。鬼禎允の拳に晒されることに、宗太郎は臆していない。そのことが、鏡花は嬉しかった。




