散歩
『良いですか、鏡花。美味しいものを食べなさい。真心の籠った食事は、人をまっとうな、正しい在り様に導きます』
残暑が最後の爪痕を記そうとするかのように、連日、高い気温が続いていた。宗太郎はいつもの和装に書類鞄を持つと、邸を出て緑陰を選びながら歩いた。バスと電車を乗り継いで県庁に行く。禎允には運転手付きの車での通勤を勧められているが、時間のロスを考え公共交通機関を使っている。そもそも、自分は運転手付きの車に乗れる程の大尽ではない、という考え方もある。大家に生まれ育ちながら、いや、だからこそ、贅に慣れ切ってしまうことを宗太郎は恐れた。
県庁に着くと本棟とは隔離された習練場に赴く。特別な材質で作られた建物は、異能の干渉を受けにくく出来ている。実技を伴う異能の指導においては、本領発揮出来るだけの入れ物の強靭さが必須であった。
教官室に向かう途中、同僚の渡瀬川卓と会う。気さくで朗らかな気性の彼は、唯一の点を除いて、宗太郎が気を許せる朋輩だった。
「よお、宗太郎」
「おはよう、卓」
縞の単衣、紺袴を粋に着こなした卓はにこっと笑う。笑った時に出来るえくぼが可愛い、などと女子職員には受けが良い。
「鏡花ちゃん、元気?」
朗らかなまま、単刀直入に訊いて来る。
これが、唯一、宗太郎が卓に気を許せない点である。強い異能力者同士、卓は鏡花にも面識がある。そして鏡花の美貌は、彼が執心するに余りあるものだった。鏡花の家が九曜家に乗っ取られるまでは、交流もあり、卓は鏡花の見た目以外の独特の気質も気に入っていた。
「元気だけど会わせないぞ」
「何でよ」
馴れ馴れしく、卓の腕が宗太郎の肩に回る。
「何度も言っただろう。鏡花は幽閉の身の上なんだ。部外者と気安く会わせられるか」
「釣れないこと言うねえ。幽閉とは名ばかり、との噂も聴くぜ? それに俺は部外者でもないだろう」
小煩い、と宗太郎は思う。快男児だが、鏡花に関してだけは宗太郎にも譲れないものがある。にやにや笑っているところを見ると、そんな宗太郎の反応を見て面白がっているところも否めない。左耳に下がる翡翠の円環に、栗毛がかかっているのを見て、イラっとした。
「お前、鏡花には……とよ太郎という想い人がいるから諦めたが良いぞ」
「マジかよ。そんなん、初耳なんだけど。お前も相手にされてない訳?」
「ああ、鏡花の目にはとよ太郎しか映っていない」
わざとらしく溜息を吐いて見せると、俺の鏡花ちゃんが~、と悲鳴が上がった。
今日は仕事が早く終わったので、夕方前には帰れた。宗太郎は帰宅して湯を使うと、その足で鏡花のいる牢に向かった。鏡花は文机の上に端座して、漫画雑誌を読み耽っている。文机にはバトルものの漫画単行本の他、川端康成の『古都』、ゲーテの『ファウスト』などが置いてあり、いまいち統一性がない。宗太郎の気配に気づいた鏡花は、雑誌を置いてこちらを向いた。
「お帰り、宗太郎。今日は早いんだな」
「ああ。久し振りに早く上がれた」
「どうだ? 生徒たちは」
「千差万別。合同練習ならともかく、個人指導となると、相手に合わせた指導の必要があるから、気を遣うよ」
「教師殿は大変だな」
鏡花の赤い唇の端が吊り上がる。
「今日は、お前と散歩しようと思ってな」
「散歩?」
「ああ。毎日、喰っては寝て、喰っては寝て、だと不健康だろう。幸い、敷地内は広いのだし、俺と散歩でもしよう。お前、このままだとデブまっしぐらだぞ」
「私はそれなりに運動もして……、いや、良いだろう。付き合ってやる。しかし、禎允殿の許可はあるのか?」
「あのお前に砂糖山盛り親父が許可しない筈がないだろう。さ、行くぞ」
宗太郎は牢の錠にべたべた貼られた呪符を剥がし、扉を開けると鏡花に手を差し出した。
桜の樹や梅林は季節ではないので、どこか余所余所しい。南京櫨や銀杏はこの先が見頃だろう。下草は手入れが行き届き、適度な繁茂でふかふかしている。付き合ってやると言った鏡花は、日傘を差してそれなりに楽しそうにしている。その様子を見て、宗太郎はほっとしていた。
「桔梗も、もうそろそろ仕舞いだな」
「ああ。摘んで帰るか?」
「いや、良い。あるがままで良いのだ」
そう言えば鏡花の牢で花を見た記憶がない。あれが欲しいこれが欲しいと遠慮ない鏡花だが、今まで花を欲しがったことはなかったと宗太郎は思い出す。
小鳥の囀りと蝉の声が響く中、二人は言葉少なに歩を進めた。時折、虫や蝶が飛んで、二人に纏わりついた。
「もうすぐ祥月命日だな」
そっと、差し出すような声音で宗太郎が呟く。
鏡花の母・白衣太鳳は、三年前に起きたテロ事件『百花の乱』で落命した。極めて強い異能の持ち主だったが、その場に居合わせた老人や女子供を庇いながら戦い、果てた。『百花の乱』の首謀者はまだ捕まっていない。鏡花の父は、それより早くに病没しているので、鏡花は事実上、太鳳に育てられたと言って良い。
陽光が眩しく注ぎ、鏡花の日傘をも貫かんばかりの勢いである。
「母様の仏前は整えておくと禎允殿が約束してくれた」
「そうか……」
「私はな、宗太郎。百花の乱の首謀者を許す積りはない」
ジ、ジ、と音を立てて蝉が飛び立つ。
鏡花の瞳は底冷えがするようだ。
「草の根分けても捜し出し、必ず相応の報いは受けてもらうぞ」