パンの愛憎
鏡花の住む牢が、内側から強固な結界で閉ざされて三日が経った。それは、怜羽の首がさらされた日から数えた日数と同じだ。九曜の家の人間は、皆、この件に関して胸を痛めていた。牢内には冷蔵庫も食糧の備蓄もあるが、それも日頃の鏡花の食事量に比較すると微々たるものだ。このままでは鏡花の体力がもたない。また、食糧を異能の元とする鏡花にとって、異能者として命取りとも成り得る。宗太郎も禎允も焦っていた。しかし、異能者をまとめる集団の長たる禎允の力を以てしても、鏡花の結界を破ることは叶わなかった。
「もう、この際、鏡花ちゃんのバッテリー切れを待つほうが良いな」
お手上げの体で、執務室の椅子に沈み込んで禎允が嘆息と共に言った。
「……大目黒千鶴は透かし身の鏡を手にいれました」
「うむ」
「今は、寧ろ鏡花に引き籠っていられたが良いかもしれません」
「やれやれ。頭の痛いことだ。……鏡花ちゃんは怜羽殿の首級を見たのか」
「ネットに動画が上がっていました。鏡花は毎日、ネットをチェックしますから」
「それな。お蔭で白狐の一族も今にも暴動を起こしかねん有り様だ。異能課の人員が割かれる」
「それも千鶴の狙いかもしれませんね。怜羽さんの亡骸を、あのように辱めた」
「はーあ。まあ、鴉が帰れば少しは変わるだろうが」
禎允の言葉に、宗太郎がは、と顔を上げて反応した。
「そう言えば鴉ヶ谷先輩がもうすぐ遠征先から戻られるんでしたね」
「何だ。お前の耳にも入っていたか」
「昨日、本人から『帰途、なう』というラインが」
「それだけ? 意味なくね?」
「ええと、いや、他にも『愛と苦悩はデニッシュロールの渦巻き』のレビューが」
「何、それ」
「映画です。遠征先の大型映画館で観たと」
「あいつ、異能武装反社会集団鎮圧の遠征に行ったのよな? パンの映画なの?」
「デニッシュロールという団地妻がセールスマンと夫との間で揺れ動く女心を奥深く描かれた映画とありましたね」
「デニッシュロール団地妻なの?」
「はい。一戸建てで秋田犬を飼う夢があるようですが、夫が中々、煮え切らず」
禎允は、デニッシュロールが秋田犬を散歩させているところを想像しようと頑張ってみたが、上手く行かなかった。実写かアニメなのか果たして3Dなのかも気になったが、何となく、訊くのを躊躇う。
「旦那さんは焼きそばパンか何か?」
「メロンパンです」
「おかしいだろう!」
バン! と禎允が机を両手で叩いた。彼は滅多に声を荒げないので、こうしたことは珍しい。それだけメロンパンの旦那は許されなかったのである。
「メロンパンはふんわりしっとり少しさっくり甘々だ、そんな旦那がいてたまるか! セールスマンは食パンか!?」
「ジャムパン……」
「おかしいだろう!」
本日二度目の机叩きである。
「しかし、鴉ヶ谷先輩のレビューでは星四つでしたよ」
「あいつは異能にかけては天才だが他は不思議ちゃんだからあてにならん!」
「まあ……。否定はしませんが。鴉ヶ谷先輩が戻ってくれると心強いですよ。何せ、父さんに次ぐ異能課の実力者ですから。俺と卓を二人で副隊長に任命したのも、それで鴉ヶ谷先輩一人とつり合いが取れるからでしょう?」
「天才というのは、ああいう奴を言うんだろうよ」
禎允は言外に肯定した。
鴉ヶ谷尊。二十七歳の若さで異能課きっての実力者との呼び声も高い男である。西方の遠征の指揮を任されたことからも判る通り、禎允からの信頼は抜群であり、加えて鏡花に匹敵する美貌の持ち主でもある。性格も温厚で優しく、部下思いの為、彼を密かに恋い慕う女性課員は多いが、残念ながら既婚者で、現在妻は妊娠中である。ちらほらと、不思議ちゃんやら天然やらとの声もあるが、人望は厚く次期隊長候補の筆頭格に名が挙がる。
「ん」
親子、同時に声を上げる。鏡花の牢の結界が解けたことを感知したのだ。二人して牢に駆けつけた。
「鏡花!」
「鏡花ちゃんっ。おい、宗太郎、痛い痛い、私を扉で挟むな!」
「父さんこそ邪魔をしないでください! おい、鏡花、無事か!?」
押し合いへし合いしながら牢に入った二人が見たのは、畳に倒れ伏した鏡花の姿だった。宗太郎が禎允の腰を踏みつけて鏡花の傍に寄る。禎允の腰からは嫌な音がした。
そっと壊れ物を扱うように抱えた鏡花は、目を閉ざし、長い睫毛が普段よりも目立っている。やつれた頬が、彼女の憔悴振りを物語り、いつもは勝気な少女なだけに、如何にも無惨な有り様だった。
「鏡花……」
予想した通り、食べ物を断っていた時間の分、異能が目減りしている。宗太郎は家政婦を呼んで部屋の中を整えてもらうと、鏡花を床に寝かせて、おとよに食事の用意を頼んだ。その間も禎允は、干した魚のように畳の上に平たくなっている。ピクピクと指が動く。
「そ、宗太郎……」
「何ですか父さん。今ちょっと忙しいんですけど」
「私のね? 腰がね? ぐきってね?」
「自助努力推奨」
「お前のせいだろうがああああいったああああ」
「騒ぐな、鏡花が起きる!」
宗太郎が一喝し、最早、父親の尊厳も上司の権威もない。
「……う」
「鏡花!」
ぼんやり目を開けた鏡花が宗太郎を視線の先に据えた。
「宗太郎」
「うん」
「れいちゃんは」
「…………」
「死んだんだな」
「…………」
解り切った事実の筈だった。それでも鏡花は、宗太郎に尋ねた。尋ねずにはいられなかった。宗太郎は答えを持たず、鏡花の顔を見返すことしか出来なかった。おとよが粥と鴨南蕎麦を持って来てくれた。
「鏡花。食えるか」
「うん。……お腹空いた」
その返答を聴いて、少しほっとする。食欲は生への活力だ。粥はまず、絶食状態に近かった鏡花の胃袋を宥める為のものだ。それをゆっくり食べると、胃に余裕が出来たのか、鏡花は鴨南蕎麦の丼ぶりに手を伸ばす。いつものように、丁寧に出汁が取られているのだろう、鴨南蕎麦からは鼻腔をくすぐる良い匂いがして、柔らかそうな具材が、鏡花の小さな唇に少しずつ運ばれるのを、宗太郎は見守った。
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