人参金平
「宗太郎よ」
「はい」
「鏡花ちゃんのことだがな」
「はい」
「牢の維持費が今や我が家の最も痛い出費となっているのだが」
早朝。宗太郎が父・禎允に執務室に呼ばれて、その禎允が厳かな顔で口を開いたと思えばこれである。日当たりの良い執務室は樫の木などの木材がふんだんに使われた重厚な雰囲気で、観葉植物の緑が目に優しい。威厳と優美とを兼ね備えた部屋である。
宗太郎が嘆息した。
「父さんがあれこれと鏡花に便宜を図る為でしょう。螺鈿の櫛やら硝子ペンやら、また新しく買ってやったんですって?」
「鏡花ちゃんが欲しいって言うから」
「……俺は仕事に行かなくてはいけませんから、これで」
宗太郎は県庁所属の異能特殊部隊に、異能の指導をしている。禎允が艶光りする机上にのの字を書く。
「鏡花ちゃん、可愛いんだもん」
「きしょ」
これが異能の大家を乗っ取った首魁の言うことだろうか。
禎允の容貌は宗太郎に似て、整っており、ロマンスグレーと呼べて見栄えがする。内外では謹厳実直な人柄で知られており、九曜当主の名に恥じぬ異能の遣い手でもある。それがどうしたことか、鏡花には異常に甘い。殊の外、甘い。この邸でも一、二を争う居心地の部屋を牢に仕立てたのも禎允だし、鏡花が不自由しないよう、何くれとなく気を配っては散財している。宗太郎から言わせれば自業自得である。儂が後十年、若ければ、などとこれ以上の世迷言を聴かされるのは嫌だったので、宗太郎は群青の単衣に白袴を穿いた身なりを殊更、整える振りをして禎允にそれではと言ってそそくさと部屋を出た。
幽玄の美があるとすれば鏡花の牢こそそれであろう。
今宵も彼女の牢は塵一つなく清潔で、日に干された布団がふっかり畳の上に鎮座している。そして座卓には言うまでもなく美食が並ぶ。今日の献立は茄子の煮浸しに、人参と牛蒡の金平、帆立と紫蘇、大根のサラダに烏賊の刺身である。
「はあ、烏賊の、この歯応えと透き通る風味。醤油と戯れて私の口に入るのは、真、いじらしい」
「そうか」
今日は宗太郎も鏡花の牢に入って、鏡花の食事の世話を細々と焼いている。禎允のことをとやかく言えない甘さである。
「はい、宗太郎」
「は?」
「あーん」
「……」
目の前に箸で差し出された烏賊の刺身を咀嚼しながら、その白い手にも噛みついてやろうか、などと思う。実は宗太郎、鏡花に来ている縁談を密かに握り潰している。なぜ、幽閉の身の彼女に縁談が来る、と言った根本的な疑問を抱いたら負けである。とかく、鏡花に関する物事は規格外であり、常識が通用しない。
「鏡花。お前さ」
「うん?」
「この家で、誰が一番好きだ?」
座布団の隅の房を弄りながら、俯いて訊いてみる。答えは瞬息で返った。
「おとよさんだな!」
「ふーん……。って、え? あの、家政婦頭の?」
「ええ」
鏡花の箸が人参と牛蒡の金平に伸びる。
「見ろ、宗太郎。この根菜類の味の醸し出すハーモニー。おとよさんの料理の中でもこれは格別だ。仕上げに、麺つゆと、擦り胡麻、鰹節を混ぜ込んであるのがこの金平の決め手だ。尖りがなく、まろやかで、かと言って薄過ぎない。いくらでも食べられる。お代わり!」
宗太郎は唯々諾々と、鏡花の皿に金平を補充してやる。今の彼は鏡花の給仕係だった。
「おとよさんはお元気か? くれぐれもお身体、ご自愛なさるよう鏡花が言っていたと伝えてくれもぐもぐ」
「……二番目は?」
「ん? もぐもぐごくん」
「二番目にうちで好きなのは?」
宗太郎もめげない。鏡花の瞳に悪戯っぽい光が躍る。
「ひーみつ!」
おおお、この大根帆立サラダの涼やかさよ、チキンコンソメの風味が程好く効いて、などと感激の声を上げる鏡花に、宗太郎は何かどっと疲れた気がした。
「片想いなのだろうかいや片想いではない」
「どうした、宗太郎」
「何でもない」
禎允やおとよに何を思う前に、鏡花に誰よりも甘い自覚はある宗太郎だった。美食の夜が、今日も更けてゆく。