夜市
九曜の人間たちが寝静まった後、邸から飛び出す人影があった。翻る袖は更紗小紋。九曜の邸には、無論、結界が張られており、鏡花の牢には特に強固な結界がある。しかし、宗太郎が指摘した通り、鏡花がその気になれば、破ることも抜け出すことも容易だった。
「ザルだ」
宙を飛翔しながら、鏡花は小気味良さそうに笑う。空には朧月が浮かび、星がまつろう。眼下には地上の星がさんざめいていた。ある社殿の領域に、鏡花は降り立つ。そこは繚乱の玉石が敷かれて、踏みしめるたびに涼やかな音色を発する。人外たちの市が開かれている空間は、喧騒、享楽、猥雑に満ちていた。
「白衣のお嬢さん、またお忍びかい?」
「そうだ。他言するなよ」
一つ目の鬼にそう答えると、周囲からどっと笑いが起こる。
「妖界隈で、お嬢さんの夜歩きを知らない奴ぁ、いませんや」
「それは構わないが、九曜の耳には入れるな。入れたら、こうだ」
そう言って、鏡花は首の下、手を横にする。
「おお、怖!」
怖いと言いつつ盛り上がっている。鏡花は、彼らの姫君にも似た扱いをされていた。
「お嬢さん、鼈甲の飴はどうだい。ろくろ首の目玉で出来てんだ」
「美味そうだ。一つ頂く」
代金を払い、飴を舐める唇は深紅で、舌も揃えたように赤い。ぼう、と見惚れる観衆たちの視線をものともせず、鏡花は買い食いを続ける。彼女は、その身体からは想像だにつかない大食漢だった。異能の行使において、非常にエネルギーを消費するのだ。裏返せばそれは、食糧さえ満ちていれば、彼女は無尽蔵に異能を行使出来ることになる。
「豚バラ、白みそ、つくね……」
居酒屋風屋台での買い食いにも勤しむ。まだ飲酒年齢に達していない為、酒を飲まないことを周囲からは惜しまれていた。さぞや酒豪であるだろう、と見られている。豚バラの、肉の脂、白みそのコリコリした食感、つくねの甘辛い柔さ、どれをも楽しみながら鏡花は忍び歩く。忍び歩くとは言っても、短い焦げ茶色の髪、白いうなじ、嫋やかな肢体、何よりその美貌が彼女を目立たせている。だから、「忍び歩いて」いる積もりなのは、本人だけだ。
だいぶ満腹になって、金魚が宙を泳ぐ中を鼻歌混じりで歩いていると、影が射した。鏡花の柳眉がふと剣呑になる。
「無粋な輩。それとも、私のデザートになりたいのかな?」
影鬼の類だ。影に潜んで人を取り込み喰らう。
「白衣鏡花。お前の肉を喰えば妖力が倍増されると聴いた」
「それは違うな。正しくは百倍、だ」
「なら尚更、食わせてもらう」
鏡花が楽しそうに笑った。
「焔召しませ」
鏡花の右手から火焔が生まれ、影鬼たちを襲う。多くは火に巻かれるが、巧みにそれを掻い潜る影鬼たちにも、鏡花は焔を出す。
「剣召しませ」
今度は同じ右手から霊刀を生み、すらりと白刃を抜くと影鬼たちを斬り臥せて行った。
「小娘がっ」
影鬼が鋭い爪で鏡花に飛び掛かる。
鏡花はするりとかわすが、頬に一閃、赤が散った。ほう、と鏡花は笑む。中には手応えのある奴もいるという、快楽の笑みである。一閃、一閃、刃を交える。擦り流し、また斬り結ぶ。そこそこの遊戯であった、と鏡花は念じると刀を構え、一気に距離を詰めると、影鬼の首を斬った。中には手傷を負いつつ、震えながら向かってくる影鬼もいたが、敵ではない。他の影鬼は散り散りに逃げ去った。
「何だ、これで仕舞いか」
鏡花はつまらなさそうに言うと、パン、パン、と着物の汚れを払い、再び空に浮かんだ。
翌朝、宗太郎が牢に密かに入った時、鏡花はまだ寝ていた。
取り立てて不審なところはない。寝具も、浴衣も、整っている。
左頬についた赤い線を除いては。
「お前は、俺に守らせてはくれないんだな……」
宗太郎の呟きを聴く者はなく、鏡花の健やかな寝息だけが美麗な牢内に響いていた。