メモリアル
鏡花が千鶴と逢ったのは、小糠雨の降る甘い春の日だった。母には珍しく友人付き合いをしている大目黒千里の息子なのだそうだ。太鳳は、鏡花の肩に柔らかく手を置いた。
『大目黒千鶴君ですよ。鏡花より三歳、お兄さんです。仲良くしておいで』
『じゃあ、今は十歳?』
千鶴は緊張しているのか、こくり、と静かに頷いた。
『玄関口では何です。二人共、鏡花の部屋で遊んでおいで』
太鳳は大目黒親子を招き入れ、鏡花に紅茶を淹れて持たせた。ラムレーズン入りクリームが挟んであるビスケットも一緒だ。鏡花は六畳の和室に入った。遅れて千鶴も入る。鏡花も太鳳も、普段着を着物で暮らしている。異能を持つ者は多くがそうだった。けれど千里も千鶴も洋服だ。ピシリとアイロンが掛けられた、品のある服だ。千鶴は白いブラウスに、焦げ茶色の半ズボンを穿いていた。千鶴は、どこか異国の血でも入っているのだろうか、ビー玉のような緑の瞳をしている。髪の色は鏡花と似たり寄ったりだ。鏡花は座布団を千鶴に勧めて、座卓の上に紅茶セットを置いた。
『飲んで。温まる。外はまだ冷えただろう』
鏡花がそう言うと、千鶴は面食らった顔になり、恐る恐る紅茶碗を手に取った。黄色い、明るい磁器の紅茶碗は、小花の絵が描かれている。こくり、と千鶴の白い咽喉が動いた。
『美味しい……』
『そうだろう。母様の淹れる紅茶はとびきりだ。緑茶もそうだけれど』
慌てたように付け加えると、千鶴はくすりと笑った。
『君はお母さんのことが大好きなんだね』
『もちろんだ。千鶴君もお父さんのことが好きだろう?』
『千鶴。そう呼んで』
『解った。じゃあ、私のことも鏡花と』
二人は笑みを交わし合う。たったそれだけのことで、お互いの距離がぐんと近くなったように感じた。雨の降る日には、特にそんな作用がある。
それから大目黒千里は、白衣家を訪ねる時には千鶴を伴うようになり、鏡花と千鶴は親しくなっていった。
夕暮れの光が、障子から射し初める日のこと。
千鶴が、掌を上に向け、水色の焔を出した。
『綺麗だな。それが千鶴の異能か』
『……ううん。他にもいくつかあるよ。これが一番、鏡花の気に入りそうだったから』
『ああ! 私は綺麗なものが好きだ』
ぐうう、と鏡花の腹が、忘れるなとばかりに鳴る。
『……それと美味しいものもな!』
二人、笑い合いながら塩豆大福を食べた。太鳳の淹れた緑茶は、鏡花が保証した通りに美味だった。千鶴たちと会う時、幼馴染の宗太郎とかち合うことはなかった。鏡花は二人を会わせたがっていて、千鶴にはよく宗太郎の話をした。千鶴は、僕もその子に逢ってみたいな、と言った。なぜか、宗太郎に千鶴の話をする気にはなれなかった。九曜は白衣に劣らぬ異能の名家だ。鍛錬に忙しそうだったし、何より、宗太郎に秘密を持つ、ということが楽しかったのだ。
百花の乱の前日。
千鶴が久し振りに鏡花に逢いに来た。少年の頃はビスクドールのようだった千鶴は、上背は並みだが、美丈夫となっていた。一緒に来ないかと誘われた鏡花は、行けないと答えた。
翌日、百花の乱が起こり、太鳳が亡くなった。警察やマスコミはテロの首謀者を大目黒千里と名指した。そして鏡花は、長かった髪を切り落とした。
雨音がする。驟雨か。微睡んでいた鏡花は文机から顔を上げた。ぐう、と腹が鳴る。お誂え向きに食事係、ではなく、宗太郎が盆を運んで来た。
豆腐の帆立蒸し、人参と牛蒡の金平、鯵の刺身、小松菜と海老のつゆ浸し。
「いただきます!」
豆腐の帆立蒸しは握り潰した豆腐を器に入れ、上から帆立を乗せて蒸す。蒸し上がったら、胡麻油をほんの数滴、そして塩をかけていただくが、これが程好い塩と胡麻油の風味、豆腐のほわほわとした歯触りに帆立の海鮮味が加わり、胃にも優しくとにかく美味いのだ。金平に関しては言うべくもない。そして、新鮮な鯵の刺身はご飯のおかずの王様と言えるかもしれない。但し、鏡花のおかずの王様は何人もいる。最後に小松菜と海老とのつゆ浸しだ。このつゆが手間のかかった出汁で、それにさっと茹でた小松菜を水通しし、海老と一緒にじゃぶりとつゆをかける。野菜が苦手な子供でも食べられそうな逸品だ。
「はあ。喰った。喰った」
「今日も見事な食べっぷりで」
「食事の前にな。昔のことを思い出していた……」
宗太郎の目が探る色で鏡花を見る。
「千鶴は優しい子だったよ」
雨音が強くなる。
あの頃はな、と鏡花は付け加えた。
冷たい、凍えるような目をしていた。




