物思い
宗太郎は優れない顔色で出勤した。習練場で彼と顔を合わせた卓は、目を丸くする。
「どうしたよ、色男」
「ちょっと色々あってな」
「あー、昨晩は凄い降りだったなあ。ここに来るまででかい水溜まりやらぬかるみやらに足を取られたぞ」
廊下を、準備室のほうまで歩く。今日は昨日の降りが嘘のような快晴だ。草葉に乗った露に朝の光が反射して眩しい。宗太郎の目は、窓硝子向こうの、そんな景色に向く。
「鏡花ちゃん、雷に怯えてなかったか?」
「あれがそんな可愛いタマか」
卓が溜息を吐く。準備室のドアを開ける。広がるのは無機質な世界だ。さっさと自分の机まで行き、鞄を置いて宗太郎にビシッと人指し指を向けた。
「お前な、そんなんだから、どこぞのとよ太郎なんぞに鏡花ちゃんを取られるんだぞ。彼女だって女の子だ。激しい雷鳴の一つも聴けば怖かろうさ」
宗太郎も自分の机に着きながら時計を見る。生徒たちを指導する始業時間まで後十分。
「シャインマスカットを食べていた……」
「ふうん? 美味しいもの食べてたら怖くないのかもな」
卓があっさり前言を翻す。そんな卓を憂いがちな目で見る。
「大目黒千里について何か判ったか」
場の空気が一変する。卓も顔を引き締めた。
「それがな、宗太郎。驚くなよ。大目黒千里は、白衣太鳳と数回、会っていた形跡がある。それも、昵懇の友人のように」
宗太郎は無表情だった。卓が奇妙に思うほど。
「二人は親密だったのか」
「あ、ああ。しかし、所謂、男女の仲だったかどうかまでは判らない。大目黒千里は妻を亡くしていて、その妻との間に千鶴という息子がいた」
「知ってる。鏡花と仲が良かったそうだ」
「えっ」
卓が険しい顔になる。普段、おちゃらけた優男でも、異能の遣い手で、県庁勤務だ。鼻の下に人差し指を置き、思案顔になる。
「……鏡花ちゃんは、どこまで知っているんだ。場合によっては、彼女に事情を聴くことにもなるぞ」
「俺が、今話したところまでが全てだ。多分な。あいつを連行なんかさせんぞ」
「俺だってしたくて言ってる訳じゃない。官吏の端くれとして言うべきことを言っているだけだ」
今日は一限目から合同練習だ。その支度は出来た。
「鏡花に直接、尋ねるな。俺を通せ。でなければ、お前との仲もこれまでだ」
卓が眉間に皺を作る。宗太郎は、それ以上はもう構わずに準備室を出た。気息を落ち着ける。異能を扱うにおいては、平静さが必要だった。
その日の晩、鏡花は牢の中でずるずると香味野菜の冷やしぶっかけうどんを食べていた。胡瓜と紫蘇、茗荷に生姜、枝豆を冷やしただし汁に浸け込み、それをうどんにかけた逸品で、夏には必ずと言って良いほど、おとよが作る定番料理だった。白いかまぼこもおまけについている。タンパク質を考えてのことだろう。
「うん。美味。香味野菜の風味よ。バテた身体にも優しい。宗太郎。そう情けない顔をしていないで、お代わりをついで来てくれ」
「……俺、情けない顔してるか」
「主人に叱られた犬のようだ」
そんなに酷いか、と言いながら、宗太郎はうどんの入っていた硝子鉢を持って台所に向かう。その後ろ姿を眺めていた鏡花は、冷ややかな顔をしていた。
「宗太郎」
今はこの場にいない相手に語りかける。
「私は千鶴からお前を守らなければならない。千鶴は、きっとお前を殺そうとするだろうから」
「それが本音か」
はっと鏡花が振り返ると、台所に向かった筈の宗太郎が立っていた。宗太郎は嘗てない真剣な顔をしている。
「千鶴はお前に盲目という訳か。だから俺を殺すと」
「そうたろ、」
「舐められたものだな。これでも県庁所属異能教授師範第一の甲なんだが」
「……」
「お前は勘違いしている。お前は九曜の虜囚だ。虜囚を守るは九曜の本分。お前こそが、守られて然るべきなんだ」
お代わりついで来る、と言って、宗太郎は今度こそその場を立ち去った。鏡花は唇を噛み締め、着ていた友禅の、ちょうど菊花の文様のあたりを、ぎゅう、と握り締めた。




