四粒目のシャインマスカット
来たる秋を思わせる、冷えた晩夏の宵だった。空には薄藍の雲が垂れ込め、今にも降り出しそうである。鏡花の牢にはそんな少し物寂し気な空気を払拭する、温かな食事の匂いが立ち込めていた。白い磁器の丸皿に並ぶのはコロッケ。もちろん、市販ではなく、おとよ特製で、中にはじゃが芋と合い挽き肉の他、チーズが仕込まれており、熱で蕩けている。キャベツの千切りにはさっぱりする梅紫蘇ドレッシングがかけられ、コロッケの他、ほかほか湯気を上げるのはトマトとセロリのスープである。おまけにデザートはシャインマスカットだ。
「コロッケ、コロッケ、おとよさんのコロッケ」
「おとよさんをコロッケにするんじゃない」
「私は今、気分が良いのだ。つまらん茶々を入れるな、宗太郎」
コロッケは、鏡花がリクエストした、おとよからの快気祝いだった。手間がかかる料理と知る分、普段は遠慮するが、おとよからお好きな物を、と伝えられた鏡花は、迷わずコロッケと言った。宗太郎もそのご馳走を味わってきたので、何となく今は鏡花を和んだ目で見守る。さくり、と鏡花の皓歯がコロッケを齧る。はふ、はふ、と口に入れて、よく味わい咀嚼し、硝子コップに入っていた牛乳を景気よく一気飲みした。
「ぷっはー! 美味いな!」
「親父くさ……」
「何か言ったか」
「いえ、何も」
トマトとセロリのスープを付け合わせに選んだおとよは、流石である。ややパンチの効いたコロッケに、野菜の滋味溢れる優しい味が胃袋をも慰撫する。復調したばかりの鏡花を、おとよは慮ったのだ。
窓硝子の向こう、遠雷が走る。
「降り出したな」
ポツポツ、雨の音がする。今はまだ微かだが、その内、土砂降りになりそうだ。鏡花は天候など一向に気にしない様子で美食を堪能し続ける。良い食べっぷりで、皿に行儀よく並んでいた五つのコロッケはあっと言う間に姿を消した。キャベツもいつの間にか消えている。恐るべきは鏡花の食べるスピードだった。これで料理を味わっていない訳ではないのだから、大したものである。当然のように宗太郎にお代わりを要求すると、次はスープを匙で掬い、一口飲んでふう、と息を吐いた。トマトの酸味とセロリの歯触りが嬉しい。宗太郎がコロッケとキャベツの千切りのお替りを持って来た。キャベツも律儀に添えられてあるのは、鏡花の胃袋を心配してのことである。キャベツは殊の外、胃に優しく、薬にも利用されている。
「大目黒千里については何か判ったか」
近くに落ちたと思われる雷が、白光で牢内を染め上げ、宗太郎は一瞬、鏡花が何を言ったか捉えられなかった。意味を呑み込んだのは、数秒後である。続く雷鳴。
「いや、……まだ何も」
「そうか。大目黒千里については、私のほうが県警より詳しいくらいだからな」
「――――どういうことだ?」
鏡花がシャインマスカットに白い指先を伸ばす。
「お前は知らないだろうが、父様の死後、しばらくして母様は大目黒千里と懇意にするようになった。その息子・大目黒千鶴と一緒に」
宗太郎の脳裏に、寂しそうな顔の幼い鏡花が蘇る。
雨音が強くなる。外を歩く人間には難儀だろう。それは安全な屋内にいるものだからこその余裕だ。
「千鶴と私は仲が良かったんだ……」
シャインマスカットの三粒目を口に含む鏡花。
俄かに宗太郎は胸が焦がれた。嫉妬である。自分は知らなかった。鏡花にそんな友人がいるだなんて。一番に仲が良かったのは、自分だった筈なのに。そんな、子供じみた感傷が湧く。苦しい息を、無理矢理、言葉にした。
「今、大目黒千鶴と会ったらどうする?」
鏡花がシャインマスカットに伸ばす手をふと止める。再び、雷光。凄まじい音がした。だから、宗太郎は、鏡花の答えを聴きそびれた。後から、聴きたくないという感情がそうさせたのかもしれないと思った。




