春、巡る
メアリ・クラークソンは、クラークソン家の長女として生を受けた。
国の英雄と名高い父と、没落寸前の貴族令嬢の母の恋物語は、なぜか有名で二人をモデルにした本まで出版されている。
メアリも本は読んだが、身内がモデルだと思うと気恥ずかしくて最後まで読めていない。
そんなクラークソン家は、爵位がさほど高いわけでもない『子爵位』だ。
暮らしも贅沢三昧というわけでもなく、むしろ慎ましく、使用人も他家に比べてかなり少ない。
なのにも関わらず、庶民(と一部貴族)からは憧れを持たれ、貴族からは一目置かれる存在であった。
それはなぜか?
答えは、メアリの父──平民育ちにして現在、国中の騎士達のトップに君臨する第一騎士団の副団長を務めるまでになったアシュレイ・クラークソンにある。
加えて、父と懇意にしている面々がすごい。王の信頼厚い公爵を始め、臣下に降りた元皇子と、この他にもビックネームが連なるのである。
記憶はないがメアリが生まれた時には、王家から祝いの品々が贈呈されたり、当時まだ王ではなかった第一皇子の腕に抱かれたりと、吃驚仰天なエピソードがたんまりある。
環境にはとても恵まれていると思う。
……思うのだが、メアリ本人は二つ下の弟のように剣の才覚があったりと特技もなく、とても平凡な少女なので家族のことが話題に上がると、少々肩身が狭かったりもする。
とはいえ、メアリは家族が大好きだ。
頼もしくて優しい父と、穏やかで愛情深い母はメアリの自慢の両親で、女の子が恋物語に憧れるように、メアリも両親に対してそんな憧れを抱いている。
父にそっくりな容姿のやんちゃ盛りの弟も、自分をとても慕ってくれていて可愛い。父のような騎士になりたいと言って、鍛錬を積む姿は眩しいし誇りだ。
そして、母と年の離れたメアリにとっての叔母だが、彼女とは五つしか年が離れていないこともあり、長い間自分の姉だと慕っていた。もちろん今も姉妹のように仲が良い。
そんな天真爛漫で、その場にいるだけ周囲を明るくする叔母はメアリが十二になった年に嫁ぎ、つい最近、子供を産んで母になった。
*
今の髪の色は白に近いけど、これから金色になっていくよ。
叔母は、幸せそうにメアリにそう語った。
「わあ、可愛い」
「ふふ、そうでしょ?」
メアリは、その小さく愛しい存在に思わず釘付けになった。
ぷあ、と欠伸をしてはむはむと口を動かす様子に、ほわわんと胸に火が灯っていくのを感じる。
にこにこと嬉しそうに「父親似なの嬉しいなあ」と、名前の決まっていない赤子をあやす叔母。そんな叔母に「耳の形はお前に似てるよ」と優しく返すのは叔母の夫のカイル・バンクス子爵だ──公爵家の次男だった彼は、自身の結婚と共に祖父が残した子爵位を名乗っている。
侯爵位も名乗れたそうなのだが、妻がのびのび過ごせるように、彼女が育った爵位と同じにしたそうだ。
いいな、と思った。
心底羨ましい。
母も、叔母も、幸せそうで。
なのに、メアリは……。
*
目を閉じると、そよそよと吹く風から水と光をたっぷり浴びた緑の香りがした。庭師が水やりをしたのだろう。
この庭は花の香りよりも、葉っぱや土の匂いを強く感じる。
「はあ」
思わず溜め息が出た。
こんな素敵な庭なのに。
せっかく叔母が招待してくれたのに。
そう思っても、ふとした瞬間に心が陰ってしまうのだ。
「どうしたんだ、メアリ。疲れちゃったか?」
何度目かの溜め息を吐いたところで、叔父に見つかった。
隠れていたわけではないのだけど……いや、嘘だ。心のどこかで誰かに見つけてほしいと願っていた。
「……ううん」
「嘘が下手だな。何かあったんだろ?」
叔父と言っても、年は六つしか離れていないので、叔母同様に兄だと思っている期間が長かった人だ。もちろん今も兄のように慕っているし、兄と呼んでいる。
そんな彼の「話してごらん」と言う声が優しくて、メアリは何だか泣きたくなった。
「カイルお兄様、誰にも言わないって約束してくれる?」
父にも、母にも、叔母にも。もちろん弟にだって、言えないことだけど、叔父になら言える気がした。
「言わないよ。約束する」
騎士の誓いをしようか、と真面目な顔で言う叔父に、メアリはくすくす笑ってそれを制した。
昔は叔父によく騎士の誓いを強請っていたが、もうすぐメアリも十五になる。
いつまでも子供のような我儘は言わないし、言えない。
「……あのね、セルジオのことなの」
セルジオ・オズモンドとの婚約は、メアリが九つになった時に決まった。
はじめましてと挨拶をしたのが、セルジオが七歳、メアリが六歳の時だ。
当時のセルジオは十も迎えることはない、と言われるほどに体が弱かった。
体も小さく、常にベッドの上で過ごすというセルジオを可哀想に思った彼の両親は、友人であるアシュレイ・クラークソンの娘に自分の息子と遊び友達になってほしいと打診をした。
大人しいメアリなら、セルジオに負担を掛けないと思ったからだ。
結果、セルジオの両親の思惑通り、いや、それ以上だった。
メアリとセルジオはとても仲良くなったのである。
セルジオはメアリのことを好きだと言ってくれたし、メアリもセルジオが大好きになった。
そして、自然な流れで婚約と相成った。
ずっと一緒に過ごそうね、と約束をした二人は仲が良く、一時期は叔母や弟に嫉妬されるほどだった。
それくらいに二人は仲が良かった。
だが、ある日。セルジオが空気の良い隣国で療養することが決まり、二人は離れ離れになることとなる。
彼が旅立つ日は、寂しくて泣いてしまいそうだったけど、セルジオの為に我慢してメアリは笑顔で見送った。
手紙を書いて、返事を貰って、また返事を書いて。手紙を待って。
遠く離れていても、季節が巡っても、メアリのセルジオを思う気持ちは変わらなかった。
そして、「またね」と約束してから五年目。
雪がすっかり溶けて上着が要らなくなった頃、セルジオは帰ってきた。
再会した彼は、病弱だったのが嘘のようだった──メアリよりも白く、いや青白くて線の細い少年と同一人物だとは思えないほどに、立派な青年になっていたのだ。
肩は、父や叔父ほどがっしりしてはいないが、それでもメアリとは確実に違った。
けれども、瞳は当時と変わらない綺麗な空色で。
メアリは目線を上にやって、煌めく蒼眼を見つめて微笑んだ。
長く生きられないと言われていたセルジオが元気になったことが嬉しくて。
また二人で話せることが嬉しくて。
だが、セルジオはメアリから目線を外した。いや、会話も拒否するように体ごと向こうへ向けさせた。
拒絶されたのだと思った。
それでもメアリは仲良くしようと、努力した。
──だって、約束したもの。
でも、彼はメアリと目を合わせてもくれない。
話してくれたとしても、ぶっきらぼうな態度ばかり。
なのに、彼のエスコートは完璧で、父と母への挨拶も満点で、もちろん友人達への挨拶も文句の付けようがなかった。
だけど、二人きりになれば、まだむすりと貝のように口を噤む。
メアリは、もう訳が分からない。
しかも、極めつけは、
『セルジオって、クラークソン家の長女と婚約してるんだってな』
『……そうだけど、それが何?』
『弟の話はよく聞くけど、姉はあまり聞かないからどんなかなあって思って』
『話すことはない』
である。
三ヶ月前。タイミングが良いのか、悪いのか聞いてしまった会話だ。
これを聞いた日以来、メアリはセルジオに手紙を送るのをやめた。
彼にとっての自分が、仲の良い友人に話したくもない存在なのだと悟ったからだ。
そして、メアリが連絡して誘わなければ、週に一回の二人の面会もなくなる。
これではいけないと思いながらも、面会のある日には両親に嘘を吐いて、王都の図書館に通うようになった。……おかげで読みたかった物語のシリーズをまるごと読破してしまった。
そもそもだが『面会』とは名ばかりで、それは目の合わない婚約者にメアリがせっせと話し掛ける苦行の場であった。
だから、いけないと思いつつも、メアリは面会をすることをやめてしまったのだ。
だって、話し掛けても、返事は「ああ」「そう」「そうか」だけなのだから。
そこまで話を聞いたカイルは、「あー……」と言って口元を手で覆って、何か苦いものでも噛んだかのように顔を顰めた。
可愛い妹分の味方をしたい気持ちは十二分にある──だって、メアリは最愛の妻に面立ちがよく似ているし、何より「お兄様」と慕われれば可愛さは何倍にも膨らむものだ。
が。十五歳のセルジオの気持ちも何となく分かる気がするのだ……というより、思い出したくない妻への拗らせ行為が思い出されて、のたうち回りたくなるというのが正しい。
つまり、カイルもセルジオと同じ年頃に、随分やらかしたということだ。
「私、嫌われてるの。でも、何で嫌われてるのかわからなくて……お父様とお母様に嘘まで吐いて……。お兄様、私、どうしたらいいの?」
「あー、えっとな? 嫌われてるとかは、ない……あと、ご両親のことも心配しなくていい」
どうせメアリの両親は、娘のサボり事情を知っている。
なぜなら、メアリが一人で図書館に行くことは絶対にないからだ。よって、必然的にメアリ付きのメイドが執事を通し、夫婦に報告する流れとなる。
あの人ってそういうとこあるよなあ、とカイルは元上司であり、師でもあり、妻の父代わりでもある男の顔を思い浮かべた。
「何で嫌われてない、って分かるの?」
「……俺にも、思い当たる節があるから、だな」
「?」
「ええと、つまりだな……」
黒歴史を穿り返し、恥ずかしい思いをするのは嫌だが、妹分の方がずっと大事だ! と、カイルが腹を括った時だった。
メイドがアポイントのない来客を知らせにやってきた。
「セルジオが、メアリに会いたいって来てるけど、どうする?」
「……え」
カイルの言葉にメアリは目をまん丸にして二秒ほど固まった。
なんで? どうして?
自問するが、分からない。
「会いたくないなら、俺が話してくるよ」
「……」
返事をしないまま俯くと、叔父は「行ってくるよ」とセルジオを待たせている部屋へ行ってしまった。
会わなくてもいいのだろうか?
会わないままでいいのだろうか?
ずっとこんなことを繰り返すのだろうか?
*
「メーちゃん」
「……お姉様」
ぐるぐる悩んでいると、いつの間にか叔母が隣にいた。
立ち尽くしているメアリを心配してくれたのだろう。
そして叔母はメアリの手を優しく取り、「ふふっ」と笑って……そのまま引っ張った。
「お姉様、どこへ行くの?」
「二人のところ。カイルがセルジオ君のこと、怒り過ぎないか見張らなくちゃ」
「わ、私、心の準備が……っ」
「盗み聞きだから大丈夫だよ!」
「ぬす? え?」
それは、果たして『大丈夫』だと言えるのだろうか?
メアリが「ん?」と思っている内に、きゃっきゃっと楽しそうな叔母に手を引かれ、いつの間にか客間の扉前にやってきてしまった。
「……お姉様?」
「しっ! メーちゃん、しー、だよ?」
「ここかな?」「ここです」と言い合っているのは叔母と、叔母付きのメイドである。
メアリは頭に疑問符を浮かべたまま、人差し指を口元に当てる叔母に、おいでおいでとジェスチャーをされ、困惑しながらも従うとまた腕を引かれた。
「メーちゃんの場所は、ここ」
目線の先には、客間の様子がよく見えた。つまり、セルジオと叔父が向かい合っているのが見えた。
「こちらが絶景ポイントになります」
「ふふ」
叔母付きのメイドが親指を立てているのが可笑しくて、笑いが漏れないようにメアリは口元を押さえる。
そういえば、叔母が嫁ぐ前。この二人はいつも執事を巻き込んで追いかけっこをしていた。
*
「……──どうせ口約束の婚約だろう? 婚約を白紙にするなら早いほうがいい。メアリと婚約したいと言う男は、掃いて捨てるほどいるからな。私は協力を惜しまないよ」
叔父の珍しい態度と話し方が新鮮だと驚く。
と、同時に、嘘は駄目だとも思った。
自分みたいな平凡な人間と、喜んで結婚してくれる男性なんて……とそこで気付いた。
ああ、そうか、メアリの父だ。皆、父の持っている縁に肖りたいのだ。
……何だか落ち込んでしまう。
この際誰でもいいから、メアリを好きになってくれる人はいないだろうか。
なんて都合の良いことを願ってしまう。
そんな人、いるわけもないのに。
「口約束なんかじゃありません!」
「ふうん? 証拠は?」
「来月には婚約式を挙げます! もう中止には出来ません! 俺、いえ、私はメアリと婚約し、結婚します!」
セルジオの真剣な言葉に、メアリの心臓が跳ねた。
もしかして、という期待の気持ちが湧いて、目線はそのままにメアリの手が自然とドアノブを探す。
しかし。彼と話し合ってみよう、と思ったメアリの小さな決意を「はあ……っ」と演技がかった叔父の溜め息が『待った』をかけ、ついでにメアリのドアノブに掛けた手の動きも止めた。
「君がその気でもね? 私はメアリへの君の態度に思うところがある。だから彼女の父親に進言して、婚約式を中止にすることだって出来る立場にあるんだ。分かるかな、坊や」
「……っ」
と、ここで叔父が悪い顔を解して、ふっと優しい表情で笑った。
それをメアリが不思議に思っていると「見つかっちゃったぁ」という叔母の呟きが耳に入る。
「で? 君はメアリのことをどう思ってるんだ?」
見つかったのなら終わりだろうかと思った盗み聞きだが、それは続行のようで、脈絡のない突然な質問がセルジオに投げられた。
「……か、可愛い、と思ってます。……久しぶり会ったら、もっと可愛くなってるし、俺、緊張して……」
「分かるよ。あいつ等は、目を離すとすぐ可愛くなるからな」
「え?」
「あ、いや、まあ、うん。君の気持ちは分かった。でもそれは本人に伝えないと、誤解を生むぞ? 面と向かって言えないなら手紙という手もあるだろう?」
「……はい、その通りです」
セルジオの言葉に驚いて視線を横に移動すれば、叔母が恥ずかしそうに顔を覆って、叔母付きのメイドが「旦那様、ご成長なさいましたね」と半目で呟いていた。
……よく分からないが、叔父は成長したらしい。
いや、叔父が成長したとかは今はどうでもいい。
そんなことより、セルジオの先程の発言は何だったのだろうか?
もしかして、空耳かも知れない。
でも、はっきり聞こえた。
セルジオは、メアリのことを──
「わ、私……」
身体中が熱くなり、居ても立っても居られない。
メアリは屈めていた体を起こして即座に回れ右をして、そのまま足を動かした。
立ち上がった時、少し目眩がしたがそれすらも今はどうでもいい。
とにかく、この場から離れたかった。
*
「メアリ!」
ばさばさと布をさばく音が大きい。
「待って、メアリ!」
呼ばれているのだから立ち止まるべきなのに、足は止まらない。
それどころか更に足早になり、メアリはとうとう走り出していた。
しかし、メアリは平凡で特出するところのない少女である──叔母のように機転が利くわけでも、弟のように身体能力がずば抜けているわけでもないので、すぐに追いつかれてしまった。
「……メアリ」
メアリの腕を掴むセルジオの手の力は強くない。
メアリが腕を動かせばすぐに振り払える。だけど、メアリはそれをしなかった。
理由は分からない。
いや、今の状態の中でメアリが分かっていることなど、一つもないのだけれど。
「メアリは、俺と結婚するのは嫌?」
セルジオの顔を見ることが出来なかったが、彼の声は切羽詰まったような、それでいて同情を誘うようなものだった。
この声にめっぽう弱いメアリは、セルジオに背を向けたまま首を左右に振る。
嫌ではない。
嫌ではないのだが、今のままでは嫌だ。
だが、これをどう伝えればいいのだろう。
出来ることなら、メアリも昔のように仲良くしたい。
……しかし、はて。『昔のように仲良く』とはどういうことだろう?
子供の頃のように、手を繋いだり、抱き着いたり、一緒に昼寝をするなんて、とてもじゃないが言えやしない。
「わ、私、両親やお姉様とお兄様達のような、温かい家庭を築きたいの……」
「メアリは小さい頃から、ずっとそれを言ってたな」
悩んだ結果の言葉は、とても小さくか細いものだったが、それは彼にしっかり届いた。
そしてセルジオの返事に、メアリはしっかりと頷いてから言葉を続けた。
「それでね、子供は二人以上欲しいの」
「………うん」
「でも、夫婦が仲良しじゃないと、神様は子供を授けてはくれないでしょう?」
「……え? まあ、そう、だけど……」
「だから、だから! 私……、私を好きになってくれる人と結婚したいの!」
急に返事に明確さがなくなってきたセルジオに焦れて、メアリが言いながら振り返ると、セルジオの顔はなぜか真っ赤で汗までかいていた。
「……セルジオ? 大丈夫?」
「えっ?」
「あの、汗が、」
メアリを追いかける為に走ったから、というには納得出来ないほどの汗に驚きハンカチを当てると、その手をがしっと掴まれた。
「きゃっ」
「大丈夫だ! だ、からっ、聞いてほしい!」
「う、うん」
セルジオの真剣な様子に気圧されて頷くと、彼は「ごめん」と言って掴んでいたメアリの腕から手を離し、頭を垂れた。
「まず、ずっと手紙をくれてありがとう。メアリの手紙に何度励まされたか分からない。……あと、ごめん。そっけない態度を取って、傷付けて、ごめん。久しぶりに会ったら、当たり前だけど成長してるから、」
「思ったより、平凡に『成長してるから』? だから、ご友人にも私のことを話さないの?」
セルジオの言葉を遮って、あの日聞いたことを勢いで聞くと、彼は慌てて首を振った。
「違う! メアリが、か、可愛くなってるから、だよ! あいつ等に話したくないのも同じ理由だ。誰だって、自分の婚約者に興味を持たれたいなんて思わないだろ?」
「でも、私……特別なところなんてないよ?」
「メアリは自分のこと過小評価し過ぎなんだ、って、俺のせいか。これも、ごめん」
今後はそんなこと絶対思わせないから。そう言ってセルジオは真剣な目をメアリに向ける。
「メアリ、俺にもう一度チャンスをくれないか?」
「……チャンス?」
その綺麗な空色の瞳を、メアリはじっと見返した。
「俺はメアリのお父上や、カイル様のような立派な騎士ではないけど、メアリの夢を叶えたい。誰よりも、叶えたいんだ。だ、だから、婚約者に、俺を、選んでほしい。…………メアリのことが、好きなんだ……」
一生懸命に言う様子は、格好良いとは言えないかも知れない。
花もないし、場所は日も当たらない裏庭だ。
しかも、最後の告白の声は、いっそ情けないほどに小さい。
でも、メアリは嬉しくて堪らない。
「私も! セルジオが大好き!」
掴まれていた手と腕を振り解いて、絶望した顔を見せたセルジオに飛びついて叫んだ。
──近くで一部始終見ていた庭師が、「懐かしいなあ」と呟いていたとか。
***
「メアリ。いいかい? 婚約式が済んだからといって、いや、お前はいい。セルジオ君、君に言おう。いいか? 節度を持て。節度だ」
叔父の注意(?)は、いつの間にかメアリからセルジオへ変わっていた。
メアリがそのことに首を傾げている横でセルジオが「はい!」と、やや緊張気味に、しかしはっきりと大きな声で答える。
「分かっていると思うが、若者らしく爽やかな交際をしろ。いいな?」
「はい!」
まあこれくらいは言わないと。と、得意顔の叔父の腕の中には、彼によく似た赤ん坊がいた。……凄む声にも泣かずにいるこの子は大物になるやも知れない。
そして、呑気なメアリはと言うと。
機嫌の良い赤ん坊の様子に癒やされ、そのぷっくりした頬に唇を落としていた。
*
「キスも、その先も、結婚してからだ。メアリは良い子だから、言い付けを守れるね?」
セルジオが友人に呼ばれ、彼がいなくなると叔父は声を潜めていっそう真剣にメアリに言った。
ほやほやと柔らかく湿っているお手々に骨抜きになっていたメアリが、その質問に答えるのには少々時間がかかった。
だって、唇へのキスは子供が出来る行為だ。
婚約中にしてはいけない。
結婚式にて、初めてする行為だ。
母も、叔母も、最初で最後のキスの相手は現在の夫だと言っていたし、つまり、そういうことだ。
それを言うと、叔父は「そういえば、そういう教育方針だったな……」とセルジオのいる方向を見つめ「頑張れ、少年」と言いながら目を細める。
メアリはきょとんとした顔でその横顔を、小さな手に指を握られたまま見つめていた。
……それにしても、『キスの先』とは何だろう?
「メアリ!」
セルジオが、彼とその友人達の輪から、手を大きく振ってメアリを呼ぶ。
どうやら、友人を紹介してくれるらしい。
紹介が終わったら、叔父の言ってたよく分からないことについてセルジオに聞いてみよう。彼は頭が良いので何でも知っているから、きっと教えてくれるはずだ。
そう思いながら、メアリは婚約者の元へと足取り軽く向かうのであった。
【完】