雨障
粛々と雨が降っている。
梅雨の名残のような長雨は降り始めて、そろそろ五日になるだろうか。
日の差さない室内は昼間だというのに大層薄暗い。
雨籠りに同じだけの時を過ごしてきた男は聞き慣れてしまったはずの雨音に、ふと気を取られ顔を上げた。内と外を隔てる障子戸へと目を向ける。
静かな雨だ。
無音ではないからこそ物寂しい程の静寂に包まれている。
手にしていた筆を置き、男は立ち上がった。誘われるように障子戸へ向かい、桟に手を掛けると無造作に戸を滑らせる。
途端、湿気交じりの空気が肌を撫でた。
濡れた土の匂いが鼻孔を擽り、降るのは霧かと見紛うほどに繊細な細雨であった。
絹のような白く柔らかい雨糸が庭を濡らす。
水を吸った地面に出来た水溜りは何も映し出さずに波紋を描いている。
朧に霞む見慣れた中庭を眺めながら、彼は縁側に出ると腰を下ろした。
柱に背を預け顔を上げる。
軒先に切り取られた空は曇然と重たい雲に覆われていた。太陽の所在は窺えず、沈んだ彩光が目の前の緑や花の色さえも淡墨色に染めていて、幽かな濃淡はまるで水墨画の様である。
息を吸うと、雨の匂いが肺を満たした。
退屈に倦んでいた頭が少しばかり冴えた気がして、男はそのまま瞑目する。
果たしてそれは、どれほどの時間であったのだろうか。
僅かばかりであったような気もするし、随分と長い時間であったような気もする。
雨音は時の流れを知らせてはくれるが、それがどれ程かは教えてはくれないから。
曖昧な時の流れに身を任せていた彼の着物の袂を、何者かがついと引いた。
「こんなところに長居をしては、御風邪を召してしまわれますよ。旦那様」
優しい女の声だった。
瞼を上げず狸寝入りを決め込めば、嫋やかな指が額に掛かった髪をかき上げ肌を掠める。
ほんの細やかな感触。男は僅かに口角を釣り上げて、その手首を掴んだ。
目を開け、そこに在った女の顔に破顔する。
「やはり、お前は困り顔なのだな」
「……旦那様が困った人なのです」
心配するようなことをしておいて、男に反省の色は無い。それどころか。
「仕方あるまい。お前を困らせるのは楽しいのだ」
お前を幸せにするのと同じくらいに、楽しいのだ。
と、そんな風に笑う。
「やっぱり、旦那様は困ったお人です」
溜息を零し、そう繰り返した女に、男はくつくつと笑みをこぼした。
捕まえた手を引き、隣に座らせる。そして、一度手を放し、手を繋いだ。
触れ合える距離で、二人で並んで雨の庭に目をやる。
沈黙の中、雨声の静けさが心地よい。
「孝雄が結婚することになった。しっかり者のお嬢さんでな、今から尻に敷かれている」
何の前振りもなく男が口を開いた。
男の口下手も、息子の性格もよく理解している彼女は、戸惑うこともなく嬉しそうに笑う。
「ふふふ、あの子は少し優柔不断な所がありますから、ちょうどよいではありませんか」
夫婦生活は妻が少し強いくらいが上手くいく。実体験として知ってはいるものの、男の沽券が邪魔をして中々素直にうなずけない。
だが、確かに。
困ったように笑う息子の顔は幸せそうだ。
どんな時代であっても、どんな人間であっても、平坦な人生などないだろう。
多かれ少なかれ、山あり谷ありというのが世の常である。
だからこそ、ともに偕老を願うことの出来る夫婦であってほしいと思う。
「……余計な世話か」
苦笑交じりに零れ落ちた言葉に、からりと否が返される。
「親ですもの。子の幸せを願うことに何の遠慮がありましょうか。堂々伝えればよいのです」
思わず、隣に座る女をまじまじと見つめる。控えめなようでいて、そう言えば彼女は自分の思いに素直な性格をしていたことを思い出した。
合された目がやんわりと細めらる。
「私の分までたっぷりとお伝えくださいね」
「自分で伝えればよかろう」
「祝いの席ですよ?」
「だからこそ、だろう」
「嫁姑問題になりかねないので、却下です」
もう、と小さく苦笑して女が、男の頬に手を伸ばし、そっと撫でた。
優しい感触に瞼を落とす。
頬に触れていた指がゆっくりと離れていく。同じくして、繋いでいた手の感触がほどけるように消え去った。
柔らかで愛おしい女の声はもう、聞こえない。
目を開ければ、縁側にいるのは己一人だった。
繋いでいたはずの手をじっと見つめ、まだその手の感触を覚えている掌を握りしめる。
「……律儀なものだ」
部屋に戻り、仏壇の前にどっかり腰を下ろす。線香を立てて、リンを鳴らした。
そうして、茄子と胡瓜で作った精霊牛と精霊馬を軽く撫で、苦笑う。
「盆でいいのだぞ。……もう、大丈夫だから」
「準備万全に用意しておきながら何を言っているのか」と言われそうだと自覚しておきながら、彼は位牌に向かってそう言った。
二人の出会いは見合いの席。
後は若い二人でと、決まり事めいた流れで仲人に庭へと追いやられ、ぎこちなく顔を見合わせながら初めて見たのは紫陽花の花。
翌年、恙無く終えた祝言は、天気雨がちらつく生憎の空模様。しかし、雲間から差し込む日差しが空に飾ったのはとても美しい虹だった。
初めての喧嘩は梅雨真っ最中の座座ぶりの中。怒って外に出た男を、やはり怒った顔で追いかけてきた妻は自分だけはちゃっかり傘をさしていた。
走って帰宅した玄関で産声が聞こえた時には、草履を脱ぐのももどかしく。駆けよれば、少しばかり疲れた顔で、それでも幸せそうに微笑む妻が、「もう、泥だらけじゃないですか」とタオルを差し出し噴き出した。
「お前はよく知っていたのだな。人の命など、不意に消えてしまう儚いものなのだと」
妻が怒ったのは後にも先にもあの時だけだ。
家族を幸せにするのは男の甲斐性と、無理を押して仕事をする男を、女は膝を突き合わせて真正面から叱り付けた。
「ともに生きるのが幸せなのに、旦那様だけに無理をさせて、私が幸せだと本当に思われるのですか」
憤りに顔を赤くして、その目は雨降る前の空のようだった。
そんな心配性で愛情深い妻は、それなのに。
そんな男を置いて、先に逝ったのだ。
どれほど、心配だったのだろう。
どれほど、心残りだったのだろう。
その想いは盆という風習さえも無視して、この時期に彼女をやって来させる。
ずぶ濡れの男の心を温めるために、包み込むために。
夫婦としてともに在った時間よりもずっと長い間。
共白髪は迎えられなくとも、その心はともに在り、七夕の彦星と織姫のように短い梅雨の逢瀬に男は長い年を経て、ようやく笑えるようになった。
今まで生きてきた時間に比べれば残された時間は短いだろう。
「俺がお前のもとに行けるのも、それほど遠い話じゃない」
雨の中に妻の姿を探すことは、どうしたってやめることはできないが。
……あの世の役人を困らせていないか心配なのだ。
妻はおとなしく見えて、これと決めたことは決して譲らない頑固者。
茶道、華道を嗜みながら、得手は薙刀と中々に力業な性格をしているから。
「無理を押しているならば、やめてやれ。盆でいい。ちゃんと迎え火を焚いて待っているから」
そう言って男が笑う。
上に伸びる線香の煙が返事をするかのように、ゆらり揺れた。
共白髪を誓い合った夫婦の予期せぬ別離。
残された男が穏やかな気持ちで笑えるようになるまでに、どれほどの時間が必要だったのだろう。
触れることの出来なくなった女はどんな思いで、その背を見つめたのだろう。
薙刀を振り回してでも彼に声を届けたかった妻と、妻と逢いたいがためにせっせと精霊馬と精霊牛を作り続けた夫。
その姿はちょっとだけ可笑しくて、哀しいのです。
雨障 ……雨に降りこめられて外出しないこと