デルマティティディスの独白(前編)
魔王様目線です。
胸の奥に、ちりちりと熱いものを感じる。そんなはずはない。私はすでに、自身の幸せについて期待するといった愚かな感情は捨て去っている。とうの昔に憧れは崩れ去り、善き魔王としてこの命を粛々と生きるだけだ。
――私は今、城の私室で珈琲を飲んでいる。それもとびきり苦いものだ。
いつもは例外なくミルク一匙と角砂糖一つと決めている。それを当然承知している侍従に、一番苦いものをそのままで、と頼んだら目を丸くされた。
この行動には正直自分でも驚いている。苦々しい気持ちを珈琲で誤魔化そう、そんな思考が働いているのかもしれない。
◇
城は王都アナモーラの小高い丘の上にそびえている。『魔族の国王』という存在が何の抵抗もなく人間に受け入れられるとは思っていないので、一国の主が住まう屋敷としてはかなり控えめな規模になっている。広さや華やかさを抑えた分、防犯や人件費に予算を分配している。機能美、という言葉がふさわしいシンプルな城、それでいて重厚さと品の良さが漂うつくりだ。
私室は城の最上階、最も眺めのよい位置にある。国王が過ごすにはいささか手狭な室内に置かれている家具や調度は、どれも質素なものばかりだ。「使えればそれでいい」というのが意向であるが、それではいけないと侍従達が質の良い品を見繕っているのである。
私はほんの数分前までセーナの家にいたのだが、色々あって居たたまれなくなってしまい、帰ってきたのだった。
(――魔王ともあろう者が、あんな小さな女性から逃げるなど、どうかしているだろう)
正直五万の兵を一人で相手にした時のほうが、よほどましだった。望んだ戦争ではなかったが、敵を吹飛ばす快感や、遠慮なく魔法を放てることに、心は昂っていた。五万の兵より強い女性が存在するなんて、今の今まで私は知らなかった。
珈琲のおかわりを頼みつつ、これまでの出来事を振り返ってみる。
私は定期的にトロピカリへ出向いている。3か月に一度行わなければいけないこの仕事が、私は好きではない。でも国の平和のためには必要なものなのだ。
この仕事の後は決まっていつも体調を崩していた。
というより、体調が良い、と胸をはって言える日なんてここ100年は無かった。常に倦怠感があり、屋敷を離れて視察などに行くと、一気に体のバランスが崩れて昏倒してしまうのだ。
そんな状態が当然になりつつあったので、行き倒れた家に住んでいたセーナという薬師の看病には驚愕した。彼女が調合した薬を飲んだとたん、身体がとても楽になったからだ。
健康を金で買えるならいくらでも出す。しかし、彼女は代金を断った。粗末な家に住んでいるのだから、生活が苦しいのではと思ったものの、そうでは無いらしい。
生き生きとスープを作ったり、畑仕事をするセーナを眺めていて、彼女はここでの暮らしを楽しんでいるのだと気づいた。
彼女は金の代わりに話し相手になってほしいと言った。話し相手に、なんて所望されたことは人生で初めてだったが、自分でも不思議なことに、受け入れた。
手持ちの薬が切れたらまた買いにこようとは思っていたので丁度いい。そんな打算もあったけれど、彼女はどんな話を私にしてくれるのだろう? という好奇心もあった。
彼女は私が魔王だと知らない。私のことを一人の友人として見てくれて、打算や恐れなどなく接してくれる。そのことが新鮮だったのだと思う。魔族なら私に跪き、人間ならば恐れられる。それが普通だったから。
……だが話を聞く前に私はまた倒れてしまった。
一緒に寝ようというのは、思いつきのちょっとした悪戯だった。見たところセーナは純朴な女性で、あまり男性に慣れていないようだった。くるくるした黒い髪の毛と、焦げ茶色の目がなんとも小動物みたいで、構いたくなる不思議さがある女性だ。我ながら趣味が悪いと自覚はあるが、少しからかっただけなのだ。
当然彼女は恥ずかしがったが、隣に寝かせたところ十五分も経たないうちに寝息を立て始めたのにはびっくりした。……本当にどこでも寝れるのだな、と感心した。
この角と生まれ持った威圧感を目の当たりにすると、大抵の人間は驚き恐怖が浮かんだ目を向ける。まさか人間の女性を抱き枕にする日が来るなんて思いもしなかった。セーナは小さいけれどふわふわして温かく、抱き心地が良かった。いつもより深く眠れた気がした。
そして翌朝、セーナから体質についての質問を受けた。ああ、遂に真実を打ち明ける時がきてしまったと落胆した。
(…………落胆? 魔王ともあろう私は、何を恐れているのだろうか)
隠していたわけではないので、事実を打ち明けた。
案の定セーナはぽかんとしていたけれど、その顔はなんだか愛嬌があって可愛いなと、ふと思った。
(…………可愛い? 魔王ともあろう私が、可愛いなどと思ったのか?)
問題はそのあとだ。私の話を聞いたセーナは、怖がるどころか、立派な王様だとか味方になりますよと声を掛けてきたのだ。
お世辞や機嫌取りでないことは、彼女の表情や眼差しを見たらすぐに分かった。
真剣にそんな言葉をかけられるのは生まれて初めてで、何と答えたらよいか分からなくなった。部下や侍従からの信頼は得ていると自負しているが、彼女の言葉はそれとは別種のものだった。
気づいたら彼女の髪と頬に触れていて、自分でも何をやっているんだと驚愕した。
交換条件にしていた彼女の秘密を聞いた。
私の魔力が不安定になっていたしわ寄せが彼女に来ていたことを知り、とても申し訳なく思った。少しでも早く彼女を元の世界へ帰すこと、それが私がしてしまったことへの責任だ。その日が来るまでこの世界で不自由がないように気にかけてやらねば、と強く決意した。
……そうか、時が来たら彼女は帰ってしまうのか。つまらないな。
そういう気持ちがどこからか湧いて出てくると同時に、私は無意識にセーナを抱きしめていた。
(……300年近く剣や魔法の鍛錬を積み、悪意ある者は容赦なく斬り捨ててきた私が、無意識に抱きしめるだと?)
自分で自分の行動が理解できないなんて、初めての経験だった。
城や騎士団にも女性はいるし、彼女たちと会話することは日常的にある。女性を前にして前後不覚になったことなどかつて無かったのに、セーナを前にすると、今まで積み重ねたことが何一つ通用しない感覚に陥る。心の臓が早鐘を打って苦しい。
抱きしめた腕を離せないどころか、もっと近くに感じたいと力を強めてしまう有様だった。専属契約の締結――つまり私の角に触れるという何てことないことでさえも気恥ずかしくて、こっそり自分から頬に押し当てるしかなかった。
――極めつけはそのあとだった!
彼女は私を抱きしめ返し、頭に手を置いて撫でるような動きをしたのだ! 門の魔力を満杯にしておいて良かったと、心の底から自分自身に感謝した。自分の中の魔力が激しく揺さぶられた感覚があったからだ。
……なぜ彼女がそんな行動をとったのか分からないが、その瞬間、胸にじわりと感じたことのない気持ちが生まれた。
抱きしめてくれる彼女は柔らかくてふわふわしていて、ほんのり良い香りがした。手の動きも心地よいものがあった。
(――――私はセーナを好きになってしまったのか)
彼女のことを思いおこすほどに、胸の違和感は大きくなる。そんなはずはない、と否定するには、見過ごせないくらい、あたたかな感情は確かに存在した。
会って数回で誰かを――ましてや異世界の人間を、好きになるなんて思ってもみなかった。
いや、上手く表現できないが、最初から彼女は何か特別だった。もうほとんど一目惚れだったのかもしれない。




