とあるケルベロスの数奇な人生
冥界の番犬として魔王様にお仕えする名門魔族。それが我がケルベロス一族だ。
勤勉な同族のなかで、わたしには「怠けもの」いう不名誉なあだ名がついていた。ひとつのことが長く続かず、飽きっぽい。戦闘するよりも、家でジャーキーをかじって寝転んでいたい。
そんな性格は群れのみんなに馴染まず、わたしは早々に奉公へと出されることになった。
勤め先は、魔王城だった。責任ある仕事に就かせれば嫌でも働くだろうという目論見だったらしい。「怠けもの」というあだ名がつきながら、わたしは何故かとても強かったから、まだ幼いデルマティティディス殿下の護衛という職で採用された。
わたしが入職したとき殿下は30歳。庭をよちよち歩く、可愛らしいお姿だった。
魔王城はあらゆる魔物の中から実力のある者が集っているから、むしろ最も安全な場所と言える。護衛とは名ばかりで、わたしは一日のほとんどを殿下の遊び相手として過ごしていた。殿下はわたしの3つある頭に「あなたはお父さまね! そして、あなたはお母さま。それで、あなたはぼくの妹ね!」と言って、おままごとをするのが好きだった。
もう少し成長すると、わたしの尻尾を追いかけまわすようになった。いつ覚えたのか、魔法で火焔球を飛ばしてきたときは、冗談ではなく丸焦げになるかと思った。逃げ惑うわたしを見て高笑いする殿下は、まさしく魔王のお姿そのものだった。
――まあ、いろいろあったけれど。陛下の幼少期にお側に置いていただけたことは、素晴らしい体験だった。のちに陛下がご両親を亡くされた時も、人間たちとの戦争で毒を受けたときも、わたしはできうる限りのお支えをしてきたつもりだ。怠けものという不名誉なあだ名は、いつの間にか誰も口にすることはなくなっていた。
このまま護衛として退官まで勤め上げるんだろう。そう思っていたのだけど。時がたち、なぜか今わたしは国立医療研究所の副所長という、まるでおかしな立場になっていた。
「サルシナさん! 見てください! タマ菌が胞子を出しています!!」
顕微鏡をのぞきながら大興奮しているのが、今の主であるセーナ様だ。背中に背負われた王子殿下はすやすやと寝息を立てていて、母の歓喜の叫びにも動じない。
「タマ菌が、胞子? ……よかったねえ」
「サルシナさん、分かっていますか? これはすごい発見ですよ。タマ菌の生殖方法が明らかになったんですから!」
「ああ……うん」
セーナ様と研究をすることは楽しいが、研究そのものが好きかと問われたら、答えは否だ。まず第一にこれは仕事であるし、セーナ様といると楽しいからやっているに過ぎない。
だから、正直なところタマ菌が胞子を出していると言われても、心は踊らない。
すごい勢いでスケッチを始めたセーナ様を残して、わたしは休憩をとることにする。ロッカーに入っている鞄からジャーキーを数本取り出し、実験室の隅にある休憩用スペースに入る。
ジャーキーはいい。噛みしめるほどに肉の旨みが口に広がる。適度に顎が疲れるから、気分もリフレッシュできる。昔と比べていろいろなことが変わったが、ジャーキーだけは変わらない美味しさを保ち続けているなあと、最近は感動すら覚えてしまう。
目を閉じて咀嚼していると、念話が入る。魔王陛下だ。
『サルシナ。わたしだ』
『陛下。どうされましたか?』
用件は分かっている。しかし、形式上、聞き返す。
『セーナとバチルスは息災か?』
『お二人ともお元気です』
『ありがとう。邪魔したな。二人を頼むぞ』
『命に代えてでもお守りいたします』
念話が終了し、わたしは三本目のジャーキーに手を伸ばす。
陛下の幼少期を知る者としては、陛下がこんなにも愛妻家になるとは、少々予想外だった。というか、愛妻家を通り越して、過保護と言ったほうが適切かもしれない。とにかくセーナ様に甘く、そして頭が上がらないのだ。公務中も、こうして必ず一回は様子伺いの念話が飛んでくるくらいには。
お互いに、そこまで想い合える相手と結ばれたことは、純粋に素晴らしいことだと思う。
わたしはもう適齢期を過ぎてしまったし、もともと結婚願望もない。まわりの色恋沙汰を見て楽しむだけで、十分お腹はいっぱいになる。このまま役割を終えて、朽ちていくのだろう。
「サルシナさん。休憩中、すみません。もうすぐ授乳の時間なので、その前にお話が」
「ああセーナ。どうしたんだい? もう休憩は終わりだから、平気だよ」
ひょっこりと顔を出したセーナ様に問いかける。
「次のサルシナさんの研究テーマなんですが……。あっ、嫌そうな顔をしないでください!」
しまった、顔に出ていたか。
別に、仕事が嫌だっていうわけじゃない。ただ、たまには、ゆっくりしたい時もあるというだけなのだ。セーナ様の熱量とアイデアは尽きることがない。一つテーマが終わると、すぐ次の課題が与えられるのだ。
「ん~。どうやらサルシナさんはお疲れですね? 次の研究テーマは栄養補助ジャーキーの開発をお願いしようと思ったんですけど、私がやろうかな――」
「詳しく教えておくれ!」
急に立ち上がったので、ガタガタッと椅子が音を立てる。
じ、ジャーキーの研究開発って言ったのか?
セーナ様はにこにこしながら続けた。
「サルシナさんをはじめとして、肉食の魔物たちにジャーキーは人気でしょう? でもやっぱり、お肉だけだと栄養が偏りますからね。ビタミンやミネラルなどを調整した、栄養バランスのいいジャーキーを作れば、魔物の皆さんの健康維持に貢献できるんじゃないかと思いまして」
その微笑は、天使のようにも、悪魔のようにも見えた。こんな提案、わたしが食いつかないわけがない。セーナ様はもちろんそれを知っていて言っているのだから。
「どうします? やりますか? やめておきますか?」
「……やる。やります。やらせていただくよ」
「ありがとうございます! そう言ってくれると思ってましたよ! じゃ、こちらが研究計画書です。あとでミーティングしましょうね。それじゃ!」
足取り軽やかに去るセーナ様の後姿を見て。わたしはこのお方こそ、影の魔王ではないかと思う。また実験に追われる日々が始まると思うと気が重いが、それも悪くないと思う自分もいるのだった。




