かりそめの国王(中編)
「セーナ陛下、そろそろお休みになったらどうですか。もう20時ですわよ」
「――あ、本当だ。もうそんな時間かあ。そうね、今日はここまでにするわ」
集中していたら、あっという間にこんな時間になってしまった。
書類をさばくスピードと、新しい書類が届くスピードが同じくらいなので、なんだかやってもやっても進んでいないような感覚に陥っていた。
手元の書類にポンと判を押し、「済」と書かれたトレイに入れる。
「はあ~~疲れた。1日座ってると体中が凝り固まるわねえ」
ぎゅっと両手を突き上げて、大きく伸びをする。
首を左右に倒すと、ポキポキ音がした。
「ごめんねロシナアム。新婚さんなのにこんな時間まで付き合わせちゃって。もっと早く声かけてくれて大丈夫だよ?」
「いえ、大丈夫ですわ。夫もまだ帰っていないと思いますから」
ロシナアムは半年前に結婚した。
私に悪いと思ってずっとタイミングに悩んでいたみたいで、すごく申し訳なかった。侯爵令嬢が20代後半まで結婚しないことは極めて異例で、何か問題があるのじゃないかとよくない目で見られることもあるからだ。
彼女には幸せになってほしいと、心から思っている。「ロシナアムの幸せが、私の幸せでもあるんだよ」と何度も背中を押して、ようやく結婚してくれたという経緯がある。なお、暗殺者という職業上、結婚式は挙げなかった。
彼女の旦那さんは、すごく家庭的な人だ。紹介されて一度会ったことがあるけれど、ニコニコした背の小さな人で……なんていうか、良い人そうな感じだった。失礼ながら、ちょっと意外だった。ロシナアムは面食いのイメージがあったからだ。
でも、仕事命の彼女にはすごく合っているなあと思い直した。
私のサポートに日々忙しい彼女を癒してくれてありがとうと、心の中でお礼を言う。
「……お食事にしますか?」
ロシナアムが、少しだけ遠慮がちに聞いた。
「……いや。とりあえず、温室に行って来るわ。部屋に軽く食べれるものを用意しといてくれると嬉しいかな。戻ったらつまんで、湯あみにする」
「かしこまりました。では、そう伝えてから、わたくしは夜勤の護衛と交代いたします」
「ありがとう。お疲れさま~」
彼女をねぎらい、ひらひらと手を振った。ロシナアムは丁寧にお辞儀をして、ドアへ向かう。
パタン、と開閉音がして、私は一人になった。
――がらんとした、国王の執務室。
デル様が使っていた頃はあまり来ることのなかったこの部屋も、もう見慣れた日常の一部だ。
黒と茶を基調に整えられた、シックな部屋。大きな一枚木の執務机に、応接机。両側の壁には背の高い本棚が並ぶ。いずれもモデル体型のデル様に合わせて作られているので、私にはどれも大振りなのが可笑しい。
絨毯や調度品なんかも、そのまま使っている。私の使いやすいように買い替えましょうかと宰相が提案してくれたけれど、断った。デル様は必ず戻ってくるから、その必要は一切ない。私はあくまで代理だもの――。
(寒くなってきたから、保湿の軟膏でも持っていこうかしらね)
いつも自分が使っている保湿軟膏を執務机の引き出しから取り出し、ポケットに入れる。蜜蝋に人参と薏苡仁を練り込んだものだ。
書類を机の左側に片づけ、ペンにインクを補充し、執務室を後にする。
いつデル様が戻ってもいいように、彼の習慣を真似て退室するようにしている。
秋も深まったブラストマイセス。暖房のない廊下は、思わずぶるりとするほど寒かった。
部屋の前に待機していた夜勤の護衛騎士に、温室に行くと伝える。
少し距離を開けて護衛されながら、私は温室へと向かった。




