包皮、無事到着
翌日。
デル様の手術は無事に終了したと連絡があり、昼過ぎには採取した包皮が研究所へと届けられた。
騎士団の一行に厳重に警備された小さな保冷箱が、私へと引き渡された。
「これがデル様の……!! 騎士団の皆さん、運搬の任務お疲れ様でした。さあサルシナさん、始めますよ!」
はやる心を抑えながら、丁寧に保冷魔片具を開封する。
イエティの爪を使って製造されたこの魔片具は、冷蔵も冷凍もできるというたいへん高性能な逸品だ。
封を開けると、しっかりと固定されたガラス瓶が入っていた。それを見て、私は喜びでいっぱいになる。うん、しっかり採れているわね!
酒精を染みこませた脱脂綿で容器の外側を消毒し、さっそくクリーンベンチの中へ搬入する。
「ここから繊維芽細胞を培養するんだったね?」
「そうです。ここの操作は私がやりますので、サルシナさんは見て流れを学んでくださいね」
今か今かと包皮の到着を待っていたので、実験の準備は万端だ。
自分の手も酒精で消毒し、さっそく作業に取り掛かる。
「はいよ。このへんから見てるから、邪魔だったら言っておくれ」
サルシナさんは私の後ろに椅子を運び、手元が見える位置に陣取った。
――採取した包皮を、ガラス瓶の中から滅菌済みピンセットでつまみ出す。
新しい容器に移し、生理食塩水で洗浄する。この時に使うアスピレーターは、魔術具だ。
ついで、滅菌済みのガラス板上で皮膚片から余計な皮下組織を切除する。
脂肪組織など、目に見えるものはここで丁寧に退けておく。脂肪細胞なんかが一緒に育ってしまってはまずいからだ。
それが終わったら、皮膚片を1mm程度に細切りにしていく。これは、滅菌したカミソリ刃を使って行う。強くつまんだりすると組織が損傷してしまうので、緊張感を持ってやっていく。
――カチャカチャと器具を動かす音と、私の呼吸だけが響き渡る。
新しい60mm径シャーレに細切りにした皮膚をのせ、カバーグラスをかける。これは、皮膚組織が浮かないようにするためだ。
カバーグラスが浮き上がらない程度に、細胞培養液を注ぐ。この培養液は、先日考えたものに、ペニシリンを添加したものだ。培養液に抗生物質を入れるのはよくある手法で、培養中に万が一菌が混入しても、殺す役割を持ってくれる。
シャーレに蓋をして、恒温器へ運ぶ。
37℃に保たれているこの中で、およそ2週間培養する。そうすると、初代繊維芽細胞が得られるはずだ。
2週間放置、というわけではない。
皮膚片からの繊維芽細胞の遊走自体は3~4日で見られるため、様子を見ながら培地の交換作業を行う必要がある。菌が混入していないか、妙な細胞が混じっていないかなど、随時顕微鏡で観察しながら過ごすのである。
「――ふう、これでとりあえず処理は終了ね。ちゃんと育ってくれるといいのだけど」
恒温器に細胞をしまえば、今日の作業は終了だ。時計を見ると、作業開始から1時間程度が経っていた。
あまり時間をかけると細胞に負荷がかかるので、まあまあなタイムで終えられたことに安堵する。
胸をなで下ろし、サルシナさんの方を振り返る。神妙な顔をしていた彼女に笑いかけると、彼女もふっと体の力を抜き、疲れたような顔で笑い返してくれた。
「作業が上手くいって安心したよ。皮膚を細かくする作業、あれは大変そうだねえ。老眼のあたしには、出来ないかもしれない……」
「ふふ、眼鏡を買ってくださいね。今後はサルシナさんにも細胞培養をやってもらいますから」
「なんだいセーナ、冷たいじゃないか!」
「そんなことないですよ? しいて言えば、早くデル様の所に帰りたいだけです。デル様は初めての手術でしたから、落ち着かない気分になっているかもしれません。なるべくお側にいたいんですよ」
そんなことを話しながら、手分けして実験器具を片づける。
今後の実験スケジュールを再度打ち合わせし、今日はこれにてお開きとなった。
白衣を脱いで壁掛け時計を見上げると、20時を指していた。
(思ったよりは早く帰れそうね)
なにはなくともデル様が心配だ。
初めての手術だし、気持ち面の不安はもちろんのこと、術後麻酔が切れれば多少の痛みや違和感があるはずだ。ドクターフラバスに鎮痛薬は渡してあるけれど、出来る限り私も側にいて、力になりたい。
通勤カバンに手帳やポーチなどを突っ込み、所長室を飛び出す。
ロビーへの階段を駆け上がり、そのままの勢いで魔法陣へと飛び込んだ。
◇
「ただいま帰りましたっ! デル様、お加減はどうですか!?」
「セーナか。入ってくれ」
入室許可の応答があると同時に、部屋に突入する。
シンプルだけど、重厚な雰囲気を持つデル様の私室。その中央にあるベッドにいるデル様が目に入った。
「おかえり。体調は、特に問題ない。少し、その……違和感はあるが」
「セーナ君、おかえり。陛下の手術は成功だ。傷口は見た目にも綺麗に縫合したし、もちろん機能面にも支障が出ないようになっている。今のところ順調に経過しているから、安心してほしい」
デル様はベッドから上半身を起こしていて、私を見てニコリと笑ってくれた。なんとなくその表情がぎこちないように見えるのは気のせいだろうか。初めての手術だったから、緊張疲れがあるのかもしれないなと解釈する。
デル様の顔色は相変わらず悪いけれど、手術で大きなダメージを受けた様子はなく、ホッとする。
手元に本がある所を見ると、読書中だったのだろうか。
デル様の足元に椅子があり、そこにドクターフラバスは腰かけていたようだ。私の入室に合わせて立ち上がり、礼をしてくれた。
「問題なさそうで安心しました! ドクターフラバスの腕はもちろん信用しているんですけど、やっぱり手術となると緊張しちゃって……! なんか、本人より家族の方が気が気じゃないかもしれないですねえ、こういうときって。あっ、こちらの細胞調整も上手くいきましたよ。デル様の包皮由来繊維芽細胞は恒温器ですくすく成長中です」
「さすがセーナだ。こちらへおいで」
デル様の枕元に駆け寄る。
ドクターフラバスがササッと椅子を出してくれたので、お礼を言ってそれに座る。
深い青色の瞳が、優しく私に微笑みかける。
少々やつれた青白い頬さえも、すごく失礼な言い方だけど彼は様になっていた。いやもちろん健康が一番なんだけれど、とにかく何が言いたいかというと、デル様はどんな時でも恰好が良いということだ。
健康だったころを美丈夫と言うのなら、今の状態は儚げな美青年と言った感じだ。ドクターフラバスいわく、デル様は300歳超だけれど、人間に換算するとまだ20代中ごろ相当の若い魔王様らしいのだ。
「デル様、初めての手術はどうでしたか? 痛みは大丈夫でしたか?」
「ああ、痛みは麻酔のおかげで全くなかった。天井の染みがセーナの顔に似ているなと思っていたら、あっという間に終わっていた」
「染みが私の顔みたい……!? すごく気になりますね。治験の集まりで病院に行くとき見せてほしいです、ドクターフラバス!」
「陛下が教えて下さって僕も見たけれど、確かに少し似ていたかな? まあ、セーナ君を知らない人が見たら、ちょっと怖いかもしれないけどね……」
くいっと眼鏡を上げながら、人のいい笑顔を浮かべてニヤつくドクターフラバス。
そのニヤニヤが、わたしをからかうような色を含んでいることに気づくには、そう時間はかからなかった。これ、絶対似ていないやつだ。そもそもデル様は地味な私を可愛いと言ってくれる希少種なのだから、それに似た天井の染みなんて普通の人が見たらただのホラーだ。
(――なんだ、冗談言えるくらい余裕だったんじゃない。心配して損したわっ)
ぷうと膨れていると、ごめんごめんとドクターフラバスが謝ってきた。
「……とにかく、お元気そうで安心しました。それが分かれば一安心ですから、私はもう失礼しますね。今日は色々大変でしたから、早くお休みになってください」
「も、もう行くのか? もう少しいたらどうだ?」
デル様が声を掛けてくれたけど、丁寧にお断りして部屋を辞した。
自分の部屋に戻ると、ロシナアムが湯あみの用意をしてくれていた。手早く湯あみと食事を済ませ、ベットにぼふんと飛び込んだ。
(はあ~。なんか、あっという間の1日だったわね…………。とりあえず滑り出しは順調でよかったわ。さあ、明日からも頑張りましょう!)
――ベッドに寝転び、医療に関する書物や、魔物の生態に関する資料を読み込んでいるうちに、外は明るくなっていた。




