次なる課題
「……そういうことでしたら。デル様、黙っていましたけれど、私は一つ不満があるんです。すごく悩んでいたことが」
途端、彼の肩がビクッ大きく震えた。
背中が見えるくらい顔と首が下を向き、彼は苦しげに声を絞り出した。
「…………言ってくれ」
彼の首の後ろ――さらさらとした髪から覗く頸椎が皮膚から浮き上がっていて、ちくりと心が痛む。
「デル様が、全然ぎゅーとかキスしてくれないことです」
「……は……? ぎ、ぎゅー……だと?」
デル様は、困惑した表情で顔を上げた。
私は大きく頷いて、言い間違いでないことをアピールする。
「はい、ぎゅーです」
デル様が体調不良になって以降、私は1回しかぎゅーをしてもらえていない。セイレーンさんのことで落ち込んでいた、あの日きりだ。キスに至ってはゼロである。
恥を忍んで何でしてくれないのか聞いてみたことがあるのだけれど、彼はその度に「こんな恰好のつかない自分が、セーナを抱きしめる資格はない」とかなんとか、持論を展開していた。そんなのどうでもいいからはよぎゅーせいや! と内心穏やかではなかったけれど、無理強いするのもどうかと思ったので、泣く泣く引っ込んだという経緯がある。
忙しい日々。それはそれで充実していたけれど、デル様とのふれあい不足は、仕事で埋まるような穴ではなかったのだ。
「ほら! 悪いと思っているのなら早くぎゅーしてください。欲求不満のマッドサイエンティストは何をしでかすか分かりませんよ? してくれたら、許してあげますから!」
バッと大きく横に両手を広げる。
はしたない女の自覚はある。しかしもう限界だ。デル様が足りない。日々頑張るためのデル様成分が、圧倒的に足りていない。
おろおろと目を泳がすデル様。
今度という今度は逃がさない。そういう思いで、彼の視線を追う。戸惑ったデル様の視線とぶつかり、彼は困ったように瞬きをした。
彼はしばらく目をさ迷わせた後、おずおずと私に腕を伸ばしてきた。
私はその腕をぐいと引っ張り、ありったけの力で彼を抱きしめた。
「……何も、難しく考えなくていいんですよ。デル様が私に申し訳なく思うなら、その度にこうしてくれたら嬉しいです。それだけで、私はどんな漢方薬を飲むよりも元気になれるんですから」
ぴくり、と腕の中が震える。
骨の浮いた彼の背中をさすりながら、言葉を続ける。
「どんなデル様だって私は大好きです。デル様に触れてもらえないと寂しいし……元気が出ません。だから、これからはこうしてぎゅーしてくださいね?」
もぞもぞと身じろぎをしたデル様は、少しして、こくりと頷いた。
「うん、デル様はいい子ですね。いい子にはよしよしをしてあげます」
じっと、賢い犬のように大人しくしているデル様。
形のいい頭を撫でていると、否応にも折れた角が目に入る。
(……角さえ、元通りになれば――)
そう思わずにはいられない。
角が折れた状態に慣れれば、体調も元通りになる。そういう見立てにはなっているけれど、デル様の体調は明らかに悪化している。しだいに起きていられる時間が減っているのも知っているし、身体はどんどん痩せ細っている。
本当にいつか元通りになるんだろうか? このままデル様が衰弱してしまったら、どうなるんだろう……
想像して、胸に氷を押し当てられたような感覚になる。
(――――それはだめ。絶対だめ!)
私の第六感が、このままではいけないと警鐘を鳴らす。
ドクターフラバスは国一番の医者だけれど、魔王の角治療は未経験だと言っていた。彼の予想に反する事態になったとしても、おかしくはない。
他の人に任せていていて、万一のことがあったら私は納得できるんだろうか? このまま衰弱していくデル様を見守ることが正しいのだろうか?
――否。
(大事なものは自分の手で守らなきゃ。そのために私は薬剤師に、研究者になったんだもの)
私が薬剤師になって、研究職を目指すようになった理由。それは、お母さんが乳がんになったことがきっかけだ。幸い手術で完治したけれど、当時感じた家族を失うかもしれない怖さは、今でも鮮明に思い出せる。
だから私は、大切な人を守れるように、自分の技術と頭脳で人の命を救える職業を目指した。
忙しい日々で忘れていた想いが、するすると自分の中に戻ってくる感覚があった。
胸の奥から、熱いエネルギーのようなものがじわりと広がっていく。
デル様の背中越しに、自分の両手を眺める。
(――大切な人を、誰ひとり死なせたりしないわ。デル様、私はあなたを絶対に助けてみせる。妻として、王妃として)
だいぶ痩せてしまった彼の身体をぎゅっと抱きしめ直し、私は決意した。




