【閑話】とある研究者の妻の話(後編)
経済状況の厳しいゾフィーだけれど、東部病院すぐそばにあるこの食堂は、病院関係者が多く利用するため、日々賑わっている。
昼間は私と厨房担当の二人で回すから、息をつく間もないぐらいに忙しい。
少し空いてきたな、と思う頃には退勤時間になっていて、夜番の先輩主婦と交代する。
――心地よい疲れを感じながら、休憩室でまかないのパンを食む。ふと、このパンも研究所の発明品だわと気づく。
(酵母は本当に素晴らしい発明だわ。そのおかげで、毎日ふわふわのパンを食べられるんだもの)
『りんごや干しぶどうを5~6日砂糖水に漬けておくだけで、パンが驚くほど美味しくなる´酵母´が手に入る』そう研究所が発表したとき、にわかには信じられなかった。しかし、発表された方法で酵母なるものを作り、パンを焼いたところ、事実劇的に美味しかったのである。ふわふわで美味しいし、使った果実の香りがほんのりと香るから、いつものパンが途端にすごくいいものに感じるのだ。
乾燥粉末の酵母は店でも買えるけれど、各家庭で手作りしている方が多い。使う果実が家庭の好みによって違うから、流行始めの頃はお隣さんとパンのおすそ分けをし合ったな、と思い出す。
この味を知ってしまったら、今までの固いパンなんて食べていられない。
――パンを3つ頂いたところで、食堂を後にする。
市場に寄って、夕飯の材料を調達する。
そういえばこれも王妃様関係らしいのだけど、化学工場で新しい肥料が開発されたので、各地で作物が豊作だそうだ。おかげで店に並ぶ作物の値段は下がり、豊かではないゾフィーの住民は冗談ではなく涙を流して喜んでいる。
日雇い時代なんて、一番安いお芋や、とうもろこし、よくて豆しか買えなかったのに。今は、両手いっぱいに食材を買い込んで帰宅することができる。幸せな重みを感じながら、家路につく。
帰宅して荷物をおろし、居間の時計を確認する。
もう17時だ。夫は18時半には帰ってくるから、あまり余裕はない。
庭に干しておいた洗濯物を取り込み、手早くたたむ。
陽射しをたっぷりと受けた洗濯物から、薔薇の良い匂いがした。
◇
「お帰りなさい。ご飯、できてるわよ!」
「ただいま。ありがとう、家の外までいい匂いが漂っていたよ。今日は鶏の香草焼きかな? お腹ぺこぺこなんだ、さっそく食べたいな」
にこりと笑う夫。
今日も仕事が楽しかったんだろう。彼のこの表情を見ると安心するし、温かい気持ちになる。なんせ、日雇いの時代はその日その日に必死だった。私も彼も楽しいという感情などなく、ひたすら疲れていた記憶しかない。
「わかった。じゃあお皿によそうから、あなたはとりあえず着替えてきてくれない? 服がひどいことになっているわよ」
べったりと何かが付着したシャツを指差す。
仕事中は白衣を羽織っているはずなのに、なぜか夫は私服をあちこち汚して帰ってくる。危険な汚れではないらしいから、ただ洗濯が大変なだけだけれど。
「うん、わかった。ごめんね、洗濯大変だよね」
「いいわよ。王妃洗剤を使えばだいたい落ちるから」
風呂場へ向かう小さな背中を見送る。
――夫は優しいし、温厚だ。偉ぶることもない。小さい頃から機械いじりが好きで、色々なものを黙々と分解してはおばさんに怒られているような、どちらかと言えば内向的な子だった。物事の仕組みを知るのが好きなんだと、満面の笑みでわたしに教えてくれた。
だけどその特徴は、ゾフィーの労働者階級ではあまり長所とはいえなかった。平学校を卒業した後、夫は機械職人になろうとしたのだけれど、厳しい師弟関係についていけなかった。自分のペースを乱されると途端に何もできなくなってしまい、怒鳴られる日々。しばらはく耐えていたようだったけど、ついに身体を壊してしまった。
しかし、働かないと生活できない。少しだけ休んだのち、どうにか日雇いで働き始めたけれど、体力や筋肉のない彼はとても辛そうだった。わたしはそんな彼が見ていられなくて、せめて1人じゃなくて2人で頑張ろうと言ったのだ。
夕飯の配膳をして、夫が戻るのを待つ。
暖かい部屋に、温かい食事。
日暮れと同時に帰って来れるありがたみに、夫の曇りのない笑顔。
改めて今の幸せを噛みしめる。
研究所ができたから。もっと言えば、王妃様がいてくれたから。
対面の椅子に座った夫に話しかける。
「ねえあなた。本当に、王妃様には頭が上がらないわね。わたし、こんなに良い暮らしができて、たまに夢なんじゃないかと思う事があるの。数年前に比べたら、あなたは別人のように元気になったし、生活も驚くほど便利になったわ」
「アンナの言うとおりだね。僕もさ、信じられないんだ。機械以外に熱中できることがあったなんて。最初は生活のために応募しただけだったけど、仕事をするうちに気づいたんだ。実験も機械も、物事の仕組みを明らかにするっていうのは一緒なんだ。本当に素晴らしいよ、あの研究所は。毎日が刺激に溢れていて、みんなが同じものを目指して仕事に取り組んでいる。この国は必ず、もっと豊かになる」
夫の目はキラキラしていて、全身から活力が溢れているように感じた。
その姿を見て、わたしはふとある考えが頭に浮かんだ。
「……王妃様はすごく立派なお方だわ。わたしなんかが想像するのも失礼だけど、きっと国王陛下も素敵な方なんだと思う」
「どうしてだい? 確かに陛下は税を軽くしたり、失業者の支援をしたり、暮らしやすいように考えて下さっているけれど……。お姿を見たことがないから、素敵かどうか、ちょっと分からないな」
「ふふふ、それはね、恋する女子だけが分かるのよ」
不思議そうに首をひねる夫に、冷めないうちにと食事を勧める。
納得していない表情をしながらも、彼は鶏の香草焼きにナイフを入れた。
その様子を見ながら、わたしはくすりと微笑む。
――女は、好きな人がいるから頑張れるのよ。私がそうだったように。自分のためより、好きな人のための方が、力が湧いてくるの。
王妃様がこんなにも色々発明して、バリバリ仕事をなさっている理由――。仕事がお好きなんだろうなとは思うけれど、多分それだけじゃないと、女の勘が言っている。
そう、きっと。王妃様もお1人の女性だから――陛下の事が、とってもお好きなのかもしれない。
そして、そう想われている陛下は、とびきり素敵な人なんだろうと思う。
わたしにとっては、お見かけすらしたことがない雲の上の御人だけれど。――恋する気持ちだけは、もしかして同じなのかしら? そう思うと、少しだけ身近に感じられた。
「――アンナ、きみもしっかり食べなきゃ! もう1人の身体じゃないんだからね?」
身をほぐした鶏をわたしの皿に入れながら、夫が眉を寄せる。
「あ、うん、そうね。……あと半年後には生まれているなんて、全然実感がないわ」
夫に笑みを向けながら、そっとお腹に手を当てる。
数年前までは無理だろうなと諦めていた、もう一つの幸せがここにいる。
「きみに似た、可愛らしい女の子がいいな」
「わたしは、あなたに似た優しい男の子がいいわ」
顔を見合わせて、微笑み合う。
数えきれないほど交わしたやりとりだけど、きっと飽きることはないだろう。
わたしたちの幸せ、わたしたちの家族は、ここにある。
素晴らしい国王と王妃が治める、ブラストマイセスに。
次回、本編の続きとなります。
いよいよ最終章です!




