【閑話】とある研究者の妻の話(前編)
「それじゃ、いってきます!」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
夫と軽く抱き合い、キスをして離れる。
木製のドアを足取りも軽く彼は出て行き、雑踏の中に消えて行く。
彼の背中が見えなくなったところで、ドアを閉める。
時刻は朝6時半。
国立医療研究所に勤める夫を送り出し、わたしの一日は始まる。
「……さてと。パートに行く前に、家事を終わらせないと!」
定職に就けず、夫共々朝4時から日雇いで働いていた時代からすれば、今はかなり時間に余裕がある。夫がまとまったお金を稼いでくれるので、わたしは近所の食堂で昼間のパートをして、あとは家の事に時間を使えるようになった。
夫を雇ってくれた国立研究所には、感謝してもしきれない。
夫と一緒に朝食は済ませているので、洗濯に取り掛かる。
二人分の洗濯物を大きな桶に入れて、裏庭の洗い場へ向かう。
ここゾフィーは、かつて流行った疫病の中心地で、その折に多くの住民がこの地を離れた。疫病を恐れて去った者。家族を失って、失意の元に去った者。私と夫は当時まだ平学校の生徒だったけれど、その時のことを思い出すと、未だに仄暗い気持ちになる。
疫病が収束した今も、住民の戻りは芳しくない。ゾフィーの経済状況は良好とはいえず、定職に就けない者は多い。
唯一良い事といえば、住民が少ないので、低価格で広い家が借りられるということだ。
他の街だと50000パルはするであろう家に、ゾフィーであれば半分の価格で住むことができる。日雇い時代は夫の実家に間借りさせてもらっていたけれど、就職してからは自分たちで家を借りることが出来た。
我が家の裏手にある庭は広く、洗い場にもゆとりがある。日当たりもよいので、洗濯物はよく乾く。家事を担う主婦としては、とてもありがたい。
桶を抱えて庭に出ると、春の香りがふわっと鼻をくすぐった。
顔を出したばかりの陽が、やさしく街を包み込んでいる。
「今日もいい天気になりそうね。よく乾きそうで良かったわ」
洗い場に桶をおろす。
蛇口をひねり、洗濯物の入った桶に水をはる。
洗濯洗剤を手に取り、桶にまんべんなくなく振りかける。
両手で衣類を揉み込むと、もこもこと泡が立ち始める。
洗濯板でごしごしと衣類をしごいて洗っていく。
「――この洗剤も、随分いいものになったわよねえ……」
これまで使っていたものは、動物の油脂を使った、ひどく泡立ちの悪いものだった。そのうえ、汚れの落ちも悪かった。それでも、それしかなかった時は、当たり前のように何時間もかけて洗濯をしていた。
ところが、最近国立研究所が開発した『王妃洗剤』は、よく泡立つ上に、汚れもよく落ちる。パート先の先輩主婦からお勧めされて使い始めたのだけれど、もうこれ以外は使えないと思うほどの使用感だ。
難しいことは分からないけど、今までの石鹸に、重曹や塩、そしてカイメンカッセイザイというものを配合しているらしい。その上精油で香りづけまでしてあって、ラベンダーや薔薇など、いくつかの種類から好みのものを選んで買えるようになっているのだ。寒い時期の洗濯は辛いけれど、好きな香りに包まれるとその気持ちもかなり薄らぐように思う。
『王妃洗剤』のお蔭で、洗濯時間は大幅に短くなった。
実験で汚れた夫の白衣や衣類を洗い終え、物干し棒に引っかけていく。
空になった桶を片づけて、ダイニングテーブルの上にある小さな缶を手に取る。
これは『主婦軟膏』だ。手の荒れを改善し、保湿するものだという。これも研究所が開発したもので、手仕事の多い女性に大人気の商品だ。街の商店はどこも売り切れなのだけど、夫がこの軟膏の担当部署にいる関係で入手することができた。
指の先にちょみっと軟膏を取り、しもやけだらけの手に塗りこんでいく。
これも香りが何種類か選べるようになっていて、私は薔薇の香りを愛用している。
「洗濯が終わったから、次は――殺虫剤でも撒いときましょう。暖かくなると虫も湧くからね……」
台所の収納から、ボトルを一つ取り出す。
――そういえば、これも研究所が開発した商品だ。元々は王妃様が自宅に出るゴキブリを退治するために作っていたものだと聞いている。
「王妃様は本当にすごいわね……。漢方薬どころか、こういう便利な商品まで次々と作っちゃうなんて。雲の上の御人かと思ってたけど、わたしたちの暮らしをよく分かって下さってるわ……」
虫の出そうな場所に殺虫剤を振りかけながら、研究所の所長を務める王妃様のことを考える。
夫から聞くところによれば、王妃様は名前だけの所長ではなく、すべての研究を実際に指揮しているらしい。もちろんお忙しい立場だから、みんなに手取り足取りという訳ではない。見識のある者が代表して教わり、各部署へとノウハウを持ち帰っているらしい。
――働く王妃様なんて、聞いたことがない。しかも、次々と薬や生活用品を開発していることから、かなりバリバリやっていることが窺える。普通に考えて、王族や貴族はみんな、お城で悠々自適に暮らすだろうに。枠にはまらない王妃様とはいったいどんなお方なのだろう、というのがここ最近のわたしの興味である。
夫に聞いてみても、普段の仕事ではお姿を見られないらしい。唯一お会いしたのが研究所の採用面接の時だったらしいのだけど、その場では全く気づかなかったそうだ。会場を出たところで一緒に面接をした友人から「さっきの、王妃様だぜ。王妃様自ら指揮を執る研究所、っていう話は本当だったんだな」と言われ、慌てて顔を思い出そうにも、全く思い出せないぐらい地味な――いや、慎ましいお顔立ちだったらしい。
「――あ、もうこんな時間。パートに行かなきゃ」
壁に掛けられた時計は、8時を指していた。
パート先の食堂は9時に開くから、そろそろ出なければいけない。
殺虫剤のボトルを元の場所に戻し、手を洗う。
急いで荷物をまとめて、家を出た。




