矜持
ふにいいいいいい! ふにぃぃぃぃぃぃーー!!
響きわたるそれは、赤ちゃんの泣き声だった。
セイレーンさんは素早く立ち上がり、泣き声がする続き部屋へ消えて行った。
(あぁ、そういうことだったのね)
彼女は絶賛子育て中だったのだ。
歌手に復帰、というのは育児休暇から復帰ということなのだろう。イライラした態度は、産後から続く育児疲れだったのかもしれない。
先ほどの発言がグサッと胸に突き刺さっているけれど、彼女の状況を把握し切れなかった自分にも落ち度があると感じた。
「はいはい、よしよしね。坊や、どうしたのかしら? 良い子だからねんねしましょうね~」
泣き声に混じって、必死に子どもをあやす声が聞こえる。
「随分と失礼な方だと思いましたけど、そういうことでしたのね。言ってくだされば良かったのに」
音もなく隣に来たロシナアムがつぶやく。
「……仕方ないわ。産後はホルモンバランスが乱れるし、睡眠も十分に取れないでしょうから。私の問診が不十分だったのも悪いわ」
「――あなたは知ってたんじゃなくて?」
ロシナアムが目玉をひん剥いて人魚をにらみつける。
サッと視線を逸らす人魚。多分、一番性格が悪いのはコイツである。主人同様、デル様の妃である私が気に入らないのだろう。
「喉の薬以外に、あと二つ用意しましょう。彼女自身と、赤ちゃんのために。人魚さん、赤ちゃんは生後何か月ですか? 教えてもらえますよね?」
「……3か月です」
「ありがとう」
赤ちゃんの泣き声は依然響いており、セイレーンさんが戻ってくるのは少しかかりそうな雰囲気だ。その間に調合を終えてしまう事にした。
◇
「はぁ、疲れた。……で、薬はできてるんでしょうね? 坊やが寝たから、あたくしも少し寝たいの。説明はいらないから、早く済ませてくれないかしら」
戻ってきたセイレーンさんは、履きつぶした靴のようにくたびれた様子だった。
毛足の長いソファにしなだれかかり、目は半分閉じかかっている。
「すみません、子育て中だとお察しできなくて。……お薬を安全に飲んで頂くため、説明は省略できません。手短にしますので、ご協力ください。早速ですけど、まず、喉には響声破笛丸ですね。朝に一袋煮出してもらって、三等分して朝昼夜と飲みます。吸収が良いので、食前がおすすめです。まあ、今はお子さん優先で食事も不規則かもしれませんが――」
「なによ分かったような口利いて! 子どものいないあなたに共感されたくないわ! そもそも陛下の寵愛を得られているか疑わしいもの、あなたに子どもが出来る日は来ないでしょうけど!」
「セイレーン様! 不敬です!」
「いいのよロシナアム、慣れてるから。……忙しい場合、必ずしも食前でなくても構いません。間隔が5時間程度空いていれば大丈夫ですので」
キレそうになったロシナアムをたしなめる。
こういう失礼な患者は珍しくない。病院、薬局で実習したときイヤというほど目にしてきている。割り切るしかないのだ……。
「――で。こちらは追加のお薬です。この加味逍遥散は気分の鬱屈や、身体のバランスを整えます。飲んでおいた方が、気持ちが楽になると思いますよ」
「あら、そんな薬があるんですのねえ。大きなお世話だけど、仕方ないから貰っておくわ」
パシッと加味逍遥散の袋をかすめ取っていくセイレーンさん。うん、分かりにくいけど喜んでくれているみたいだ。気分の上昇下降が激しいあたり、まさに加味逍遥散がぴったりだ。
「あと、これはお子さんの薬です。薬というと身構えてしまうかもしれませんが、赤ちゃんでも飲めるものです。夜泣きを軽減するもので、抑肝散といいます。夜、少しでも寝れたらセイレーンさんはだいぶ楽になるでしょう? セイレーンさんが笑顔でいるのが、赤ちゃんは一番嬉しいと思いますよ。こちらの分量は月齢3か月に合わせて調整済みですから、同じように煮出して飲ませてあげてください」
「……っ!」
大きく目を見開いたセイレーンさん。
鳶色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……っ、見ないで! まったく、子育てしたことがないあなたに言われてもね! お、おかしくて涙が出てしまったわ。勘違いしないでちょうだいよ!」
「――わかっています」
セイレーンさんの嗚咽はしだいに大きくなる。
人魚がそっと彼女の隣に腰を下ろし、肩を抱いた。
子育てをしたことのない私には、彼女の気持ちは分からない。どれだけ辛いものなのか、なぜこんなにもイライラしてしまうのか。知識や体の仕組みから、ある程度の推察はできるけれど、100%理解するのは無理なのだ。
理解できないから。態度が悪いから。
――だからといって、医療者は患者を独りにしたりはしない。罪は患者にではなく、そうさせる病気にあるのだから。体調が悪いと、健全な精神までも蝕んでいくことを知っている。
「……辛い」
「そうですね、辛いですよね。頑張っていますね」
人魚の肩に顔をうずめたセイレーンさんが、細い声で気持ちを吐露してくれた。
「疲れた。もっと寝たいの」
「もっともなお気持ちです。こうやってお母さんが頑張っているから、お子さんはすくすく育っていますね。素晴らしいことですよ」
薬より何より、声掛けひとつで救われることはある。患者が少しでも前向きになれるように促すことも、私たち医療者の大切な役目なのだ。
「――――セイレーンさんのお気持ちは、確かに私には分かりません。でも、薬師として力になりたいと、そう心から思っています。……薬のことでなくてもいいですよ。不安な気持ち、悩みなど、何でも良いです。話すことで楽になることはありますから。辛い時は、遠慮なく声をかけてくださいね」
しゃくりあげるセイレーンさんから返事はない。
伝わっていることを信じて、そろそろ帰り支度を始める。赤ちゃんがいるお家に長居するのが好ましくないことは、私にも分かる。
「では、私たちはこれで。何か分からないことや、困ったことがあったらいつでも王城へご連絡くださいね。お大事になさってください」
そう挨拶して、部屋を辞した。
☆加味逍遥散とは
原典:万病回春
適応病態:多愁訴で顔面紅潮、のぼせ感があり、精神不安やイライラ感を伴う者に適する。
弁証:裏・熱・実虚/気滞・血虚・瘀血/肝・脾
☆抑肝散とは
原典:保嬰撮要
適応病態:神経過敏で易興奮性、易怒性、イライラ感、不眠などの精神神経症状がある際に用いられる。小児では、落ち着きがない、ひきつけ、泣き喚くなどの症状を呈する場合に用いられる。
弁証:裏・実虚/気滞/肝・脾




