「百九」 チャンスはそろそろ尽きちまうぜ
[ 百 九 ]
「バトンタッチだ」
二人が何を言っているのか、よく分からなかった。
こんな口調の杉先生を、わたしは知らない。それにわたしが思っている以上に、ふたりは仲が良さそうだ。
「いいぜ。じゃあ次は俺だ」
オダマキが窓辺から離れる。
わたしは咄嗟に椅子から立ち上がった。オダマキの動作はゆったりとしている。攻撃的な様子ではない。だというのに無意識でわたしは逃げの姿勢をとった。それは生き物としての本能だった。
いつもは近しい友人のように感じているオダマキなのに。
このオダマキには触られたくない。咄嗟にそう感じた。
「怖がるなよ、ももちゃん。おっさん傷ついちゃう」
軽口をたたきながら、オダマキが向かった先は千花ちゃんのベットだった。
千花ちゃんに覆いかぶさる様に、オダマキが身を屈めた。
こんな夜中にマッサージをするつもりなんだろうか。わたしはかるい緊張を残したまま、オダマキの行動を見つめた。
オダマキの両手が、眠っている千花ちゃんの頭を撫でる。
「さ、ちいちゃん。気持ちよくなろうな」
オダマキの節くれ立った指先が、千花ちゃんのやわらかな髪の毛をすくいあげていく。慈しむような仕草だった。なのにどういうわけか、わたしは不快感をおぼえた。
「千花ちゃんに何をするの?」
わたしは震える声で問いただした。
「たのしくて気持ち良いこと」
オダマキが応える。
オダマキの声の調子は、いつものいい加減なものだ。なのにわたしは、オダマキの声の裏側に、湿り気をおびた異質さを嗅ぎ取った。ちいさいけれど、目を逸らしてはならない違和感であった。
これはわたしの知っているオダマキとは違う。
なにがどう違うのか。決定的な理由は言葉にはできない。けれど近寄るのをイヤだと感じる程、目の前のオダマキは得体の知れぬ存在に映った。
オダマキの手の動きが。
オダマキの千花ちゃんを見る目つきが。
何もかもがぞっとする程、醜悪にわたしの目には映る。
「やめて……」
震えながらも、わたしは叫んだ。そのつもりだった。けれどわたしの口からもれたのは、酸欠であえぐ魚のような、ちいさな声でしかなかった。
「ムリだなあ。ももちゃん」
オダマキは立ち尽くすわたしを面白げに見つめる。手の動きは止めない。千花ちゃんの頭を、ゆっくりとした動作で撫で回す。
「おねがい。やめて……」
「やめてだってさ、ちいちゃん? ちいちゃんは続けて欲しいよなあ? 気持ち良いもんなあ?」
くつくつと喉の奥から嗤いをもらすオダマキは、得体の知れぬ、不気味な他人だ。どうしてこんな男に懐いたのだろう。どうして信頼していたのだろう。
わたしは成り行きを黙って見守っている杉先生につめ寄った。
「先生。止めさせて」
「どうしてですか? 百花さん」
「だって。だって、イヤなんです」
「明確な理由もなしに、とめられません」
白衣に包まれた杉先生の片腕に、わたしは必死にすがった。この場で頼れるのは杉先生だけだ。なのに先生は、わたしの手を振り払おうとする。
左右に振られる腕を離すまいと、わたしはますます力をこめた。
先生が短く舌打ちをする。
その音に哀しみがわきあがる。けれど手の力は弱めない。わたしの内側のなにかが、警鐘を鳴らしている。
オダマキをとめろ。とめろ。止めなければ。
「お願い。先生、止めさせて」
「小田巻君を止めたければ。あなたがきちんと理由を説明するんです。百花さん」
諦めたのか。腕を振り回すのをやめると、杉先生はわたしをやんわりと拘束した。抵抗する間もなく、わたしは先生に抱きしめられた。
「私たちが納得できるように。きちんと説明するのです。でなければーー」
先生はわたしの躯の向きを変えた。
そうすると抱きしめられたまま、わたしは眠っている千花ちゃんとオダマキに、正面から向き合う姿勢となった。
千花ちゃんはもう無表情なんかじゃなかった。
瞑ったままの目元が、うっすらとやわらいでいる。
唇が笑みのかたちをとっている。そして、うすく開いている。
オダマキの指が千花ちゃんの頭を揉む度に、唇に浮かぶ笑みは、少しずつふかくなっていく。今にもそこから千花ちゃんの舌が飛び出してきそうで、わたしの肌は粟立った。
「さあ。話すのです。百花さん」
先生がわたしの耳元で、誘う様にささやく。
「イヤ、イヤ。イヤ」
頭を振る。涙がもりあがってくる。先生の腕の力は弱まらない。
「チャンスはそろそろ尽きちまうぜ、ももちゃん」
オダマキが、目をひからせながら言う。
ながい髪の毛をすいていた指先が、千花ちゃんの両の耳の形を確認するかのように、さすっていく。千花ちゃんの上半身が、びくりと大きく動いた。
「嘘だ、嘘、うそ。こんなの全部うそっこだ」
千花ちゃんが動くなんてありえない。オダマキはなにをしているの? ナニをしようとしているの? 頭が混乱する。考えられない。目の前の状況が理解できない。
拘束している先生の腕に、わたしはしがみついた。
「嘘じゃありません。小田巻くんに、このまま好き勝手やらせて良いのですか? さあ、どうします?」
耳元に、先生の息がかかる。
「やめて。千花ちゃんを無理やり起こさないで」
わたしは涙を流しながら、ふたりへ頼んだ。
「話すんだ」
オダマキが言う。そして見せつけるように、ゆっくりと千花ちゃんの耳の穴に、指先を押し込んでいく。そこには、アレがいる。ちいさくて、不気味で、怖いアレがいる。アレを起こしたらダメだ。アレは千花ちゃんを食べている。むしゃむしゃ。むしゃむしゃ。邪魔をしたら、どうなるか。わたしは知っている。だってわたしは……
「話す。話すからやめて」
全く見知らぬ他人のようになってしまったふたりの先生に促され、わたしは千花ちゃんから預かっている、記憶の箱をこじ開ける。
箱の蓋はしっかりと閉まっている。けれどそこに鍵はない。あるのは飛び出すしかけだけ。
わたしを差し貫くであろう、鋭く尖った針金の槍だ。
※ ※ ※ ※ ※
うららかな春の一日だった。
幼稚園の遠足で具合が悪くなったのは、わたしではない。千花ちゃんだった。
車酔いは生まれて初めてだった、千花ちゃんは着いた途端にバスの陰で、げえげえ吐いた。汚れた幼稚園のシャツをつまみあげ、「いやんなっちゃう」ママは眉をひそめた。
千花ちゃんは、吐き終わるとすっきりしていた。
先生から借りた予備の水色のシャツを着て、お友達と駆け出して行こうとしていた。けれどママがそれを止めた。
「少し休んでいなさい」
千花ちゃんは木蔭のシートのうえに連れて行かれた。
「ええーー。だって皆遊んでいるよ。ちいちゃんも遊びたい」
「酔って吐いちゃったでしょう。皆に迷惑をかけたんだから。よくなるまで大人しくしていて」
「もう治った。ちいちゃん、なおったもん」
「ダメ! ママがシャツを洗ってくるから。それが終わるまでは、ここにいなさい」
子どもの車酔いなんて、吐いたらけろっとするものだ。けれどママは千花ちゃんを足止めした。もしかして、罰のつもりだったのかもしれない。
優しいけれど、厳しいママ。
千花ちゃんはママの言葉にしぶしぶ従った。
「いいなあ。いいなああ。ちいちゃんも、したいなあ」
目の前で遊んでいるお友達を眺めながらひとりで呟いた。
たこさん滑り台を、豪快にすべっていくお友達。芝生を駆け回るお友達。あっちではシャボン玉をしている。あ、ルリちゃんも、エリちゃんもいる。いいなあ。ちいちゃんも、したいなあ。公園の水道へと遠ざかっていくママの後ろ姿に、ちょっとだけ舌をだして、すぐひっこめる。
不満げに唇を尖らせた千花ちゃんは、けれどもシートからこっそり抜け出したりしなかった。
ママは礼儀にうるさい。集団行動で他の人に迷惑をかけたり、足を引っぱる行為に、必要以上に目をつり上げる。
「あーーあ。つまんない」
千花ちゃんはシートに寝転んだ。
ママの膝枕はない。髪を撫でてくれる優しい掌もない。
走り去って行くシュン君たちの色とりどりの靴が、視界をよぎった。
「あーーあ」
せっかくの遠足なのに。つまんない。
千花ちゃんは寝そべったまま、躯を左右に揺する。ひだりにごろん。右にごろん。またひだりにごろん。そこで目に止まったのは、紫いろの小花だった。
スミレの花がある。手をうんと伸ばせば、シートから出ずに摘めた。
「きれい!!」
千花ちゃんは、摘んだスミレを指先でくるくる回す。ひとつに気がつくと、次々に可憐で奇麗な花に気がつく。
「ちいちゃんは、シートから出てないもん。出てもちょっぴりだけだもん。ママにごめんね、ありがとうってプレゼントするんだもん」
幼い言い訳を積み重ね、千花ちゃんは夢中で野の花を摘んでいった。
そこに悪魔みたいな螺がいるだなんて、予想していなかったのだ。
「誰も予想できなかったのかもしれない。でも、でも……」
わたしは、言葉をきった。
だって、そんな。
信じられない。
どうして? 今。目にしているものは現実なの? それともわたしの頭が変になったの? わたしは杉先生の腕のなかで、震えながら喘ぐしかできなかった。