「百八」 興味深いデータもとれました
[ 百 八 ]
「随分元気な様子です」
杉先生がわたしを見下ろし、呟いた。
「だろ? こいつデリケートっぽいふりして、結構しぶといんだって。俺のお見立て通り」
オダマキが得意そうに言う。
「うるさい! バカ」
オダマキだけじゃなく、二人にむかってわたしは叫ぶ。
オダマキはともかく。先生に対してこんな口をきくのは初めてだ。
呆れられるかもしれない。けれどそれがどうした。もうどうだっていいんだ。わたしは抱きついた格好で、オダマキの足をわざと蹴ってやった。
「痛い! いたいってば、ももちゃん。落ち着こう。まずは落ち着こうぜ」
オダマキが、ひょいとわたしを持ち上げる。いくら小柄といっても十三歳なのに。オダマキは驚くべく馬鹿力だ。おまけにこれは、女性に対する態度ではない。
わたしは赤面しながら、躯をよじった。
「離せ。バカ」
「ももちゃんは、かっるいなあ」
「馬鹿、バカ」
「はいはい」
千花ちゃんの枕元にある折りたたみ椅子に、わたしは無理矢理座らされた。
先生が後ろ手に病室の扉を閉める。オダマキが懐中電灯の灯りを消した。
部屋のなかが夜の闇に包まれる。あるのはベットサイドのちいさな灯りだけだ。灯りをうけて、千花ちゃんの寝顔が白々と浮かび上がってみえる。離れた位置から見ると、千花ちゃんの寝顔は表情に乏しくて、まるで水中を漂っている死体のようだ。
「大丈夫そうですね。百花さん」
先生が壁際の予備の椅子を広げて、わたしの前に座る。ここの椅子は回らないけれど、これではまるでカウンセリングの時みたいだ。わたしは下唇をつきだした。
「大丈夫じゃない。全然ない」
「そうですか。それは、困りましたね」
先生が眉をよせて、ため息をつく。
「なにかこころを痛める事でもありましたか?」
「あったに決まっている!」
わたしは椅子から立ち上がった。
途端椅子が床に転がり、派手な音をたてた。少しだけうんざりとした顔つきの先生を、わたしは真上から睨みつけた。
杉先生のこんな表情を見るのは始めてだった。もしかして今までも、こんな顔をしていたのかもしれない。わたしの無条件の信頼が、わたしに見せていなかっただけかもしれない。
「ショックなんてもんじゃないです。先生だって分かっているくせに!!」
「私はあなたから、説明をされなければ分かりません」
「なにソレ!」
先生の言い草に、わたしは憤慨した。
「あなたの口から。あなたの言葉で聞かなければ判断できない。そういう事です、百花さん」
知っているくせに。
真昼のわたしの叫びを聞いていたくせに。ナニもしてくれなかったくせに。
今夜の杉先生は、どこまでもカウンセリングごっこをしたいようだ。わたしは怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。
窓際によりかかり、このやり取りを眺めていたオダマキが肩をすくめた。
「言ってやれ。ももちゃん。こいつは悪気なく、ホント分からないんだ。そこんとこ、すっげえ鈍くできている。だから何でもかんでも、ぶちまけてやれよ、ももちゃん」
「……わかった」
わたしは床に倒れた椅子を戻すと、改めて腰をかけた。息を吸い込み、先生を見上げる。
「わたしはママに腹をたてています」
「はい」
先生が頷く。そうしながら白衣のポケットから小型のテープレコーダーをだし、「いいですか?」と聞きながら早速スイッチを押す。カルテじゃないのは、光源の乏しい夜の病室だからかもしれない。わたしは無言で頷くと、話しを続けた。
「ママは突然いなくなった」
「ええ」
「一言もなにもなし」
「ええ」
「そんなの間違ってる。ずっと。ずっと千花ちゃんの側にいたのに!」
「ーーお母さんにも生活があり。都合があります。そうは考えられない?」
「むり」
「そう。それは何故かな?」
「だってママは側にいなくちゃいけないから」
「お母さんだから?」
「それだけじゃない」
わたしはゆっくりと頭を振る。
「ママは、そうしなきゃならないから」
「それは、義務みたいなもの?」
「そう」
「母親としての義務かな?」
「ちがう」
「じゃあそれは、百花さんの考える義務なのかな?」
「わたしじゃない。千花ちゃんの」
「千花さんはずっと眠っているよ。お母さんが側に居ても居なくても。千花さんは構わないんじゃないかな?」
「ちがう」
「どうして?」
「わかるから」
「どうして?」
「千花ちゃんがわたしに教えてくれるから」
「眠っているのに?」
「そう」
「どうやって?」
「それは……」
ここで初めて、わたしは口ごもった。
滅茶苦茶にしたい。反抗したい。ぶちまけたい。もやもやとした感情は、未だわたしのなかにある。けれどそれとは別に、衝動的になるなと、わたし自身をいさめる別の声がひきとめる。
「それは?」
先生が問う。
「……しらない」
わたしは視線を外して真横を向いた。
そうすると窓が自然と視界にはいる。網戸越し。暗闇のなかで尚いっそう暗いシルエットの森が、窓の向こうには広がっている。
風が吹く。樹々の尖端が風にたなびく。そうすると、森全体がひとつの怪物のように動き出す。
おおお。
おおおう。
おう。おう。風と樹々が鳴く。トリが後追いのように声をあげる。
ジャー ジェイ ジャアアアア。
暗闇の縁でトリが鳴く。
「百花さん?」
先生がやんわりと、わたしの名を呼ぶ。わたしは慌てて先生へと視線を戻した。
「先生には言わない」
無言の答えを盾に、わたしはきっぱりと先生の質問を拒否した。
「だって千花ちゃんの秘密だもん」
「あなたではなく。千花さんの秘密なんですね」
先生が問う。
わたしははっと躯を堅くした。落ち着け。わたしは千花ちゃんの、物言わぬ死体のような表情を真似た。無言で口を真一文字に結ぶ。
「言えないのかい?」
先生の問いかけに、無言で頷く。
「そう。……ここまでかな?」
短いため息と共に、先生が窓際のオダマキに視線をなげる。
何だろう。わたしもチラとオダマキの様子をうかがった。オダマキはいつも通りの飄々とした表情をしている。
「私はここまでだと思います。随分もった方だし。興味深いデータもとれました」
カチリ。先生の指が録音機のスイッチを切る。
「そうか? 俺はいろいろと、まだ面白いけど」
オダマキがおどけた口調で返す。
「なら、今度は君がする番です」
先生がぞんざいな態度で、椅子から立ち上がった。