「百七」 ママが突然戻ってきた
[ 百 七 ]
周囲の樹々がざっくりと緑の葉を茂らせて、山が初夏の装いになる頃。療養所にママが、突然もどってきた。
「ご無沙汰しておりました」
すっごく久しぶりのパパが、杉先生へ挨拶をする。
わたしはわずかだけ開けた扉の陰から、こっそりと二人を眺めていた。
暑い日なのに、ふたりそろってかっきりとした服装だ。
パパは白いぱりっとしたシャツに、レジメ柄のネクタイをしめている。ママはヒールの低い靴を履き、髪を奇麗に結い上げ、べっちんのリボンでとめている。
千花ちゃんが眠り姫になって以来の二人は、常に憔悴し、目の下に隈をこしらえていた。上下ちぐはぐな服装を、恥ずかしいとも思わず過ごしていた。なのに今日は、素敵にめかしこんでいる。
どうしてこんな格好をしているんだろう。
本当ならママに会って、すぐにも話したい事がたくさんあった。
わたしも千花ちゃんも、そろって背が一センチ伸びたんだよ。
千花ちゃんの首に汗疹ができちゃって、担当の看護師さんが軟膏をぬってくれたんだ。その千花ちゃんは夜になると夢に現れて、わたしを驚かそうとする。でも大丈夫だよね? 千花ちゃんは、わたしと仲良しだよね? わたしの気のせいだよね、ママ。
ママに「大丈夫だよ」って、慰めて欲しいんだ。
ママがいない間、わたしはずっと千花ちゃんを見守っていたんだ。いっぱい褒めて。良い子だよって褒めて。
報告したいことはいっぱいあるのに。久しぶりの対面に戸惑いと照れがあった。
まずは先生に会うという予定を聞かされて、意固地な気持ちもわきあがった。だから杉先生へお願いして、隣の資料室からこっそり覗いていたのだ。それが、こんなことになるなんて!
わたしは扉の陰で、言葉をうしなって立ち尽くしている。立ち聞きなんてするから、罰があたったんだろうか。
「おめでとうございます」
杉先生がママとパパに、お祝いの言葉を告げる。
ふたりが互いに顔を見合わせる。千花ちゃんがねむり姫になって以来、こんなしあわせそうなママを見たことがない。ママのやさしさが、ママの顔を照らしているようだ。
ママもパパもわたしに気がつかない。先生にだけ熱心に話しかけている。
冷房をつけている診察室の窓は、きっちりと閉じられている。珍しく風もぴたりと止んだ午後で、大人たちの会話はなんの苦もなく聞き取れる。なのに二人の話しが、信じられない。
わたしはママの身につけている、夏用のこざっぱりとしたワンピースを、食い入るように眺めた。見た事もない、濃いみどり色のワンピースを着た、ママのすっきりとした躯の線。以前のママより痩せたくらいだ。だから余計に信じられない。
嘘だよね? ママ。
ぜんぜん信じられないよ。せっかくオダマキのおかげで、わたしはただのおんなの子になれていたのに。また透明人間になるんだろうか。そしてこれからは、千花ちゃんも透明人間になっていくんだろうか。
「ですから……あの、」
ママが戸惑いながらも、先生へ告げる。
ママの言葉は最終通告だ。聞きたくない。
「しばらくは」
やめて。ママ。
いくら耳を塞いでも、言葉はわたしに向かって降り注ぐ。
「こちらに、来られなくなると思います」
いいんだよ。来られなくったっていい。わたしはずっと一人だったもん。
「やはり、この子の事を考えますと……」
だから止めて。千花ちゃんまで一人にさせないで!
わたしの言葉は、ママたちには届かない。味方のはずの杉先生も、この場にいないわたしを、かばってくれない。
「感染は極めて低い。分かってはいるのですが。どうしても割り切れなくて」
辛そうにママが言う。
嘘だ。そんな下手っぴなお芝居。嘘っぱちだ!
辛そうな顔をして。涙声で、目元はゆるやかに笑っているじゃない。ああ、嬉しい。なんて素晴らしいのって、笑っているじゃない!!
お願い。神さま。わたしにママを、キライにさせないで。ママを、悪い子にさせないで!
「だって、この子のおかげで、ようやく前を向いていこう。そう思えるようになったんです」
前なんてない。
わたしと千花ちゃんに、未来なんてどこにもないのに! なのに、どうしてママは、前を向こうとするの?
「分かっていただけます? 先生」
首を傾げてママが尋ねる。
ほっそりとしたママの首。白鳥みたいなその首を、わたしは絞めてしまいたい。
千花ちゃんにバレる前に。全てをなかった事にしてしまいたい。
「ええ。吉川さん」
先生が笑う。わたしに良い子だよって。言ってくれた声で、顔で笑う。
「確かに人から人への感染率は、極めて低いです。ほとんど無いと言ってよい程です。ですがご心配なさるお気持ちは、痛いほど分かります」
先生がキャビネットから一枚の紙を取り出し、パパへ手渡す。パパが何の戸惑いもなくサインをして印鑑を押す。ママが晴れ晴れとした動作で、椅子から立ち上がる。
その時に、ワンピースのお腹にそっと片手を当てる。
わざとらしいその動作に、胸がむかつく。蹴っ飛ばしてやりたいのに、わたしは動けない。
「妊娠中は、なにかと不安定になるでしょう。お母さんが、安らかになれるような環境にいるのは重要です」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、安心してお任せできます」
パパが書類を先生へ渡しながら言う。
書類はまるで決別の手紙だ。先生に託された書類が、冷房の風をうけて微かに揺れる。バイバイ。またね。手紙が手を振る。新しい良い子が、手に入ったの。だからバイバイ。元気でね。欠陥品は、いらないの。
「この後は、病室へ行かれますか?」
先生の問いかけに、「いいえ。必要なものはナースセンターへ置いてきました。妻の体調が不安定なので、今日はこれで失礼します」パパが言う。
顔さえ見せにくる気はないのだ。その事実がわたしに、とどめを刺す。
ドアノブにすがるように手をかけると、わたしは床にしゃがみこんだ。捨てられるんだ。今度こそ。徹底的に。
ママとパパが診察室を出ていく。
ヒールが立てる音が、リノリウムの床にこだまする。わたしはその音がちいさくなってから、よろよろと立ち上がった。
資料室から診察室へとおぼつかない足取りで入った。先生はナニも言ってはくれない。観察しているような目つきが、ひややかだ。わたしは先生の視線から逃れるようにして、診察室からまろび出た。
すがり付く様にして覗き込んだ廊下の窓から、正面玄関を出て行くふたりの後ろ姿が、ちいさく見えた。わたしは観音開きの窓を、勢いよく外へむかって開けた。
「ママ!」
二人の背中へ叫ぶ。
こんなにも大きな声をだすのは初めてかもしれない。お腹のそこから声をしぼり出したのに、「ママ! パパ! ママ!」ふたりは振り返りもしない。
淡々と森の小道を下っていく。見舞客用の駐車場に向かっているんだ。今から走れば間に合うかもしれない。なのに足に力がはいらない。気がついて! 振り返って!
わたしの声は届かない。
ママの差す日傘だけが頼りない目印のように、ふたりの足取りを示している。
ママのみどり色のワンピースが、木立の隙間に見え隠れする。どんどんとあいていく距離に、ワンピースのみどりなのか、植物の緑なのか分からなくなる。やがてふたりの姿がすっかり見えなくなっても、わたしは窓から離れられなかった。
この日。
わたし達は、余計な。いらない子どもになってしまった。
千花ちゃんは、眠り姫から透明人間になった。
夜半。
暗くて、静かな千花ちゃんの病室にわたしは居る。
ここしか居場所は、もうない。こんこんと眠り続ける千花ちゃんを、初めて羨ましいと感じた。痛み続ける心など、いらない。わたしも眠ってしまいたい。
わたしは仰向けで眠る千花ちゃんの足元に、体育座りで蹲っている。
千花ちゃんの躯を包む夏掛け毛布に、足首だけを入れて、ぬくもりを分けてもらっている。わたしが毛布に足を突っ込んでいるせいで、千花ちゃんの肩は毛布から出ている。冷房を止めた夏の宵だ。風邪をひく事なんて、ありはしない。
それに風邪をひいたって、心配するママはいない。わたし達はもう、どうなったってよい子なんだ。
山から吹き抜ける風が、網戸ごしにはいってくる。みどりの濃い匂いは、夜に一段とふかくなる。
千花ちゃんの今夜のパジャマは、看護師さんが着替えさせてくれた新品だ。
「ほうら。お母さんから預かった新しいパジャマですよ」
そう言って看護師さんが、パジャマからタグを切り取った。ぱりりとした、クリイム色のパジャマには、スミレとおどけたリスたちが散りばめられている。これはプレゼントじゃない。これは餞別だ。わたしはパジャマの裾を指先でいじった。
ママにとってわたし達は、きっと六歳のままだ。
六歳のまま止まってしまった時間のなかにいるから、こんなこどもっぽいパジャマを選ぶんだ。でもママは違った。針金のバリケードから、ママは自力で脱出したのだ。
ママだって傷だらけになって選んだ未来なのかもしれない。けれどそれはわたし達をのけものにした、自由への脱出だ。だからわたしは、ママに同情しない。逆に傷ついて、なにもかもダメになって欲しいと願ってしまう。
まっくろい感情が、わたしの中に渦巻いて眠れない。出口を求めている感情をどうすれば良いのか検討がつかない。
胸中でママを恨み。パパを罵倒し、それにも飽き足らず、感情は暴力への道を求めている。
ママのこども。
あたらしい。どこにも問題なんて抱えていない子ども。その子どもを、どうにかしてしまいたい。その子がいるからイケナイんだ。
もしかしたら。夢の千花ちゃんは、この事を伝えたかったのかもしれない。
アブナイよ。侵入者がやって来るよ。ももちゃん、ママを見張っていて。そう伝えたくて、怒った顔に見えていたのかもしれない。
千花ちゃん、わたしはどうすればいい?
わたしが自分の考えに浸っていると、病室の扉がノックもなしに開けられた。
当直の見回りだろう。わたしは扉の方を振り返りもしなかった。病人のベットに座り込んでいたって、誰もわたしを咎めない。いっそ叱られた方がさばさばするのに、無視されるだけだ。
「おっ。ちゃんと、いるじゃん」
おどけた言葉と共に、懐中電灯の灯りが、ベットの足元をまるく照らした。うすい灯りにわたしは目を細め、声の主を確かめた。
「賭けは俺の勝ちだぞ、杉」
「……そうだな」
戸口からこちらを伺っているのは、看護師さんではなかった。
二人組の男ーーオダマキと杉先生だった。
廊下を照らす常夜灯が、オダマキのうしろにいる杉先生の白衣を、ぼんやりと浮かび上がらせている。
「先生……オダマキ」
わたしの呟きに最初に反応したのは、懐中電灯を持つオダマキだった。
「やっほう。ももちゃん。こんばんは」
オダマキが片手をあげて、快活に挨拶をする。
その明るさに無性に苛立つ。なんで二人が夜遅い時間に、そろって病室を訪れるのか。疑問に思う前にわたしは、ベットを降りて裸足で駆け出した。そのまま短い距離をつめて、オダマキに抱きつく。
「おいおい。ももちゃん。随分熱烈な歓迎じゃん」
茶化したようにオダマキが言う。
「うるさい! バカ!」
わたしはオダマキの腹に顔をおしつけたまま、怒鳴った。
夜中に大きな声で騒いでいる。今度こそ当直の看護師がやって来るだろう。オダマキと、もしかして先生も注意されるかもしれない。それでもべつに構わない。
オダマキと先生が今ここにいる。来てくれた。その事実が、わたしのなかの蠢く感情を、別の出口に向けて押し出そうとしている。
もうどうでも良かった。
ママも。パパも。
起きてくれない千花ちゃんも。
ママのなかの新しい命も。
わたしにはオダマキと先生が居る。その事実だけでわたしは少しだけ救われる。わたしはオダマキのシャツに、頭をぐりぐりと押し付けた。