「百六」 おいでよ
[ 百 六 ]
春から夏にかけて。
わたしはのびやかに過ごしていた。病院に居て、のびやかというのも変なものであるが、そうとしか言えない日々だった。
杉先生の部屋をノックをするのが目に見えて減り、変わりに病室でオダマキを待っている時間が増えた。
千花ちゃんの管理表に「療」の字があると、わたしは朝からそわそわして落ち着かなかった。
「ももちゃんはまあ、アレだ」
オダマキがわたしの指を、一本いっぽん丁寧に揉んでいく。そうされるとまるで自分が稀代のピアニストか画家にでもなって、とても丁寧に扱われている気がしてくる。
「アレって? なにさ」
内心ではオダマキのやさしさに感謝している。
なのにそんな気持ちはおくびにも出さない。愛想よくできない。ぶっきらぼうな口調で尋ねてしまう。
「アレはアレだ。おまけ? みたいな感じ」
「おまけ? なにそれ。バカにしてる?」
「してない。してない。俺がカワイイももちゃんを、バカにするわけないじゃん。はい足」
「足はイヤ」
「はい足、だしてくださいねえ」
オダマキは勝手にわたしの右足を手にとる。
今わたしは千花ちゃんの病室の、古ぼけてスプリングが全然効いていないソファーに座っている。
ここはママのベット代わりにもなっていた。
毎夜ソファーで小さく、ちいさくなって眠っていたママ。眠りのあさかったママ。
こんにちは、ママ。今はちゃんと眠れていますか? 眠れているといいね。
わたしはゆったりとした気持ちで、ここには居ないママへ語りかける。
オダマキはわたしの隣に座ったまま、わたしの右足をぐいと持ち上げた。
「スカート! めくれるっ」
「だったら、ちゃんと抑えているんだ、ももちゃん。無駄な抵抗が多すぎる」
「ふん」
わたしは鼻を鳴らす。
「プロなんだから、ちゃんとして」
「ももちゃんこそ、おんなの子なんだから、ちゃんとして」
オダマキがわたしの口真似をする。
「スカートのおんなの子の足を触っているんだから、オダマキがちゃんとして」
わたしはオダマキに支えられている右足を軽く動かす。
スカートの裾がばさばさと、小鳥の翼みたいに微かな風をおこす。オダマキが呆れたように、スカートと膝小僧の間にタオルケットをのせる。
「ももちゃん。君はこれからズボンにするんだ。じゃないと俺の立場が危うくなる」
「いや」
「おっさん困るよ」
「スカートの方がカワイイから、いや」
「ズボンだって、ももちゃんなら可愛いだろう」
「知ってる」
軽妙な会話に、こころが浮き立つ。
少しばかり横柄な態度をとっても。憎まれ口をたたいても、オダマキならへっちゃら。わたしは安心して、甘ったれたこどもっぽい振る舞いができる。
オダマキの掌がわたしの頭をすっぽりと覆う。わたしの一番好きなマッサージ。良い子だよって、頭を撫でられるみたいな感覚に、わたしはうっとりと瞼を閉じる。
杉先生のくれるチョコレートよりも、オダマキの指先はあまい。こんなにも簡単に打ちとけられる。触れられる。拒絶されない。無視されない。
傍らには眠り続ける千花ちゃんが居る。なのにこの時のわたしは千花ちゃんの存在を、ふかく考えずにいた。それはまるで、ママがわたしにしているみたいな態度だったかもしれない。
わたしはオダマキという存在を知って、有頂天になっていたのだ。
涼やかで気持ちの良い風が、開けた窓からふき込める。真昼のわたしは、のびやかで満ち足りていた。コワイものも。不安なものも。ここにはない。
わたしは本気でそう思い込んでいた。
けれど違った。
夜半になると、病室はガラリと空気をかえる。不穏な予感が、たちこめる。
そんな晩は、風が強く窓を叩く。風にのり、高く鳴くしわがれ声が聞こえてくる。
トリの鳴き声が響き渡る夜。わたしは、悪夢にうなされるようになっていった。
※ ※ ※ ※ ※
夢のはじまりはいつも同じだ。
びょーびょーと風が吹く。
背の低い草花が風に吹かれ、揺れている。みぎへ。ひだりへ。頼りない茎をなびかせて、揺れている。
夢のなかで、トリの声は、はるかに遠い。けれどその声は、いつだってわたしの不安をかきたてる。
ここをわたしは知っている。
最期の野原。千花ちゃんが眠りについた公園だ。
あの日と違って、公園には、あたたかな日差しはない。健康なこども達の姿もない。空は厚い雲に覆われて、強い風が吹きすさぶ。野の花々が、風にたなびく。
「なかなか風では折れないよ」
そう言いながら。幼い掌が、ぽきりと手折った花はスミレだ。
なおやかな紫の花弁が、手のなかで風を受けてゆれる。
「植物は結構強いからね」
胸をはって言うのは、眠っているはずの千花ちゃんだ。
千花ちゃんは頭に黄色い帽子をかぶっている。身につけている水色のスモックには、おはなのアップリケがされている。ちょっとだけ端の糸の始末が雑になっているアップリケは、ママのお手製だ。
本物の千花ちゃんは、もう幼稚園児じゃない。十三歳の少女だ。なのに、ピンク色の運動靴を履いた姿は、あの日のままだ。
千花ちゃんは六歳の姿で、わたしの前に立っている。
これは夢だ。現実ではない。分かっていて尚、その姿は余りにもリアルで不自然だった。
幼い顔で千花ちゃんは笑っている。
笑っているはずの、千花ちゃんの目元がコワイ。どうしてか分からないけれど、コワイ。そう思うのは、姉妹として間違っているのだろうか。分からない。
千花ちゃんとわたしはいつでも。どこでも。二人そろって遊び、病気になると順番で寝ついていた。
双子の宿命のように、わたし達は常に一緒だった。けれどあの日。千花ちゃんは螺に取り憑かれ眠りにおちた。
片割れのわたしは、一人取り残されたままだ。
もしかしたら千花ちゃんはその事で、ずっと怒っているのだろうか。
一緒だったのに、違う道を歩んでいるわたしに、苛立っているのだろうか。そう思って改めて眺めてみると、目の前にいる千花ちゃんの怒りを感じる。身が竦む。
悪い事をしているわけではないけれど、千花ちゃんから逃げだしたい気持ちが高まる。
「おいでよ」
わたしの気持ちにはおかまいなしで、千花ちゃんは手を伸ばしてくる。ピンクの靴が下草を踏む。風が帽子の下のつややかな髪を揺らす。
「ももちゃん」
舌たらずな。どこか湿って聞こえる声で、千花ちゃんがわたしを呼ぶ。
「おいでよ」
更に一歩。千花ちゃんがわたしへ近づく。
もうすぐだ。もうすぐで千花ちゃんの幼い指先が、わたしのスカートに触れるだろう。
地面にのびる千花ちゃんの影が揺れる。そんなはずがないのに、ざわざわと左右に揺れながら、影はくっきりと、ながくおおきくなっていく。
風にたわむ草花のように、影がひときわ大きくしなった。
鋭どい調子で、トリが鳴く。
ジャー ジャー ジェー。
姿の見えないトリが鳴く。
「ももちゃん。いっしょだよ」
幼い千花ちゃんの存在が怖い。
こわい。こわい。こわい。
千花ちゃんの成長した影が、ゆっくりと地面からおきあがろうとしている。頭の方からみしみしと全体を軋らせながら、影は宙に浮かびだす。影の立てる音が酷い。世界を包みこむ程におおきい。
「ももちゃん」
千花ちゃんがまた一歩。わたしへと歩みよる。影も近づく。
怖い。
トリが鳴く。
「ももちゃん」
スミレを手折った指先が、わたしへ向かってのばされる。
わたしは弾かれたように背を向けて走り出した。
千花ちゃんから。千花ちゃんの影から。野辺から逃げ出す為に走る。
スミレ。
すかんぽ。
たんぽぽ。ハコベラ。風に揺れる花々を踏みしめ、駆ける。
同じ顔をした双子の千花ちゃんから、一刻もはやく逃げ出したくて夢路を駆ける。
※ ※ ※ ※ ※
悪夢にうなされ、飛び跳ねるように起きた。
額から胸まで、躯は汗でしとどに濡れている。
ベットで千花ちゃんは、すやすやと眠っている。その表情は穏やかだ。
恐ろしさでドキドキしている胸のあたりを、わたしは片手でそっと抑えた。千花ちゃんがわたしに怒る理由なんてない。わたしが心のどこかで、千花ちゃんに後ろめたさを感じているせいで、こんな夢を見るのかもしれない。
わたしはソファーから下りると、千花ちゃんの眠るベットへと行った。
ママがいなくて、千花ちゃんはうんと不安に感じている。そう思っていたのに、わたしはオダマキといるのが楽しくて、はしゃいでいた。ごめんね。千花ちゃん。
わたしは目覚めない千花ちゃんの頭を撫でる。
千花ちゃんを透明人間になんて、させないよ。ちゃんとわたしは見てるから。忘れないから。
オダマキの手の動きを思いだしながら、ゆっくり、やさしく、何度もなんども撫で続けた。