「百五」 なんで開けてくれないの
[ 百 五 ]
年があけ。オダマキの療法が順調に進むなか、ママが突然姿を消した。
いつも千花ちゃんの枕元にいたママ。
パパが毎週土曜日に来ていたのが、二週間に一度になって。やがて月に一度になっても、ずっとずっと側にいてくれたママ。
わたしが気がついた時には、病室のロッカーからママの鞄がひとつなくなっていた。着替えや日用品、お財布なんかのはいっていた鞄だ。
千花ちゃんは何も言えないけれど。千花ちゃんが話せたら、きっとママに居て欲しいって言うはずだ。わたし達は双子だ。相手の気持ちは、手に取るように分かる。
わたしはいなくなったママの姿を探して、病院のなかをうろうろとさまよった。
寒い朝には風に舞って吹きすさぶ雪が、建物全体を包み込む。
窓から見える風景は灰色に塗りつぶされる。そのなかで、ざわざわと風にしなる樹々だけが、ざんばらの帚みたいに、しなっている。
冬は、無口な病院スタッフが、いつもより一層沈みこんで見える季節だ。まるで影ばかりの亡霊が、廃墟を彷徨っているようだ。
ママがいないだけで、見知らぬ場所に迷い込んでいる旅人のように、心細さを感じた。
早歩きで廊下から廊下へと、歩を進める。わたしの急ぐ背中に、嘲笑うように、トリの声が覆いかぶさる。
ジェー ジェエエ ジェー。
聞きたくない。
寒い日に。誰の温かさも感じない所で、トリのだみ声なんて聞きたくない。
ママ。
ママ。ママ。どこなの。どこにいったの。
いくら歩き回っても、どこにもママの姿はない。トリの声ばかりが、ついてくる。
わたしは両手で耳を塞ぐと、見知った扉の前まで急ぎ走った。
ママがここに隠れているわけがない。けれどここに来れば大丈夫。
まっすぐわたしを見つめてくれる、杉先生の瞳があれば大丈夫。
わたしの不安なきもちを消してくれる。透明人間にならないですむはずだ。それに先生なら、ママの行方も知っているかもしれない。
「先生。百花です。先生、開けて」
けれどノックを何度繰り返しても、わたしが求めている声は聞こえてこなかった。扉の向こうは、しんとしている。
なんで、開けてくれないの。
扉の前を右へ。ひだりへ。歩き回ってはノックを繰り返す。
とんとん。先生。
とんとん。百花です。開けてください。良い子だよって言ってください。
悪いことなんてしていないって、わたしを慰めてください。ママの行方を教えてください。
どんなに声をかけても、扉は開かない。
時折。看護師さんや、お掃除のスタッフの人たちが廊下を行き来した。誰ひとりわたしに声をかけない。皆わたしをいないものとして、素通りして行く。
どんどんわたしの躯はゆらいで、透明人間になっていく。
空気がきんと冷えた廊下で、わたしは長い時間、先生を待って過ごした。窓から見上げる空は、もはや灰色だけではない。冬の夕刻色に染まってきている。
先生は来ない。扉は開かない。
「よう。ももちゃん」
途方に暮れていると、背後から声をかけられた。
振り返ると、廊下の端にオダマキが立っていた。首からタオルをさげて、手にはいつものバインダーを抱え、ゆっくりとした動作でこちらへやって来る。
「やっほおお。ももちゃん。こんな所でナニやっているんだ?」
オダマキは空いている片手をあげると、勢いよく振った。
オダマキは千花ちゃんの病室に来る度に、わたしに声をかけてくれる。知っている顔に出会えた安心感に、強張った躯の力が、自然と抜けていく。
「知っているか? この廊下に一人でいると、やぶ医者につかまって、尻に注射されるんだぞ」
けっけっけ。子ども騙しの怪談話をでっちあげて、オダマキが嗤う。
笑い声が廊下に響く。
「杉先生。……知らない?」
曲がりなりにも、ここに出入りしているのだ。もしやオダマキは医師の動向を、多少は分かっているかもしれない。わたしは望みを抱き尋ねてみた。
「ん? 杉先生か?」
わたしは無言で頷いた。
「杉先生なら昨日から居ないぞ。学会に行っている」
「……学会」
「おう」
オダマキがわたしに告げた学会会場は、ここから遠く離れたおおきな都市であった。
「どうした? 先生に何の用事だ? ちいちゃんにナニかあったか? 杉先生のかわりに、他の先生がピンチヒッターではいっているぞ」
「ううん。いいの」
わたしは首を左右に振った。
千花ちゃんの容態が変わったわけではない。わたしが途方にくれて、自ら迷子の透明人間になっているだけだ。
「もういいの」
それだけ言うと、わたしは廊下にへたりこんだ。
先生が居ない。
学会に行っている。その事実が、躯に染み込んでいく。安心と落胆の気持ちが、ないまぜにやってくる。
悪い子だから見放されたんじゃなくて、安心する。
会って慰めてもらえない現実に、落胆する。けれど嫌われたわけじゃない。
ならいいや。
明日か。明後日。先生が戻って来たら。そうしたらきっと、この不安定な気持ちも無くなるはずだ。
わたしはそう考えようと努めた。
だってそれまでの辛抱だ。透明人間のわたしは、我慢だったら慣れている。大丈夫。これくらいへっちゃらだ。
そう思うのに寒い。
躯が凍えそうな寒気が、どっと押し寄せてくる。座ったまま、わたしは自分の躯を抱きしめた。
ママがいない。見放されたのかもしれない。どうしよう。
先生もいない。どうしよう。
両手の力を強める。目を閉じる。うすい暗闇が広がる。
風の音がする。
その中でトリが鳴く。
うす闇のなかでは、よりくっきりとトリの鳴き声が、きわだって聞こえてくる。
ジェー ジェイ ジェー。
お前は一人ぼっちだとトリが鳴く。
廊下にうずくまっていると、地の果てに一人ぼっちでいるような寂しさに支配される。手足の先の冷たさが、そのまま氷になって、躯全体を包んでいきそうだ。
わたしがうなだれていると、「おい」声がかかって、それから頭のてっぺんを軽くこずかれた。
顔を少しだけあげると、汚れたしろいシューズが瞳に映った。
「……なに?」
わたしは相手の顔も見ずに、ぼそぼそとした口調で尋ねた。
確かめなくても分かる。オダマキがまだ側に居るのだ。
「ここは寒いぞ」
そう言って、オダマキが廊下にかがみこむ。
見上げると、オダマキと至近距離で視線が絡み合った。
「寒いぞ。寒いだろう」
バインダーを下に置き、オダマキは両手でわたしのひだり手を握った。
「マッサージだ。ももちゃん。血行が良くなる」
軽口は始終たたくけれど、オダマキがわたしに触れたのは、この日が初めてだった。
とられた手を振り払う事さえできず、わたしはオダマキにされるがままになった。触れる手は気持ち悪くない。あたたかだった。
「血行が悪いと、余計寒く感じる。そして寒くなると、人はマイナス思考におちいりやすくなるんだぞ。ももちゃん」
一本一本の指さきから掌までを、オダマキの無骨で器用な指先が揉んでいく。
肉がおされ、皮膚のうえに熱を感じる。その熱がゆっくりと皮膚を通って、躯のなかに浸透していく。
この手は、千花ちゃんの躯を癒している手だ。誰かを救い続ける人の手だ。
「よっしゃ。次は右だ。右手をだしてみろ、ももちゃん」
今度は自ら手を差し出せと、オダマキが言う。わたしは何の躊躇いもなく、自分のちいさな掌をオダマキへあずけた。
「よし。良い子だ、ももちゃん」
オダマキが手をとりながら言う。
良い子。
オダマキの言葉に、知らず涙がにじんでくる。
良い子なのに、なんでママは黙って消えたの? 誰も側に居てくれないの? 良い子なんて嘘っぱちだ。良い子がこんな寒い日に、一人ぼっちのわけがない。
わたしは誰にも愛されていない。ママにさえ。
涙を抑えられなかった。眦からぽろぽろと、こぼれ落ちていく。
「いいんだ。いいんだぞ、ももちゃん」
首のタオルを取ると、オダマキがわたしの頭にタオルをかぶせた。
タオルで包まれたわたしは、白っぽい空間でしずかに、ひっそりと泣いた。
右手が温かい。オダマキとつながっているから、温かい。誰かとつながる幸福感に泣くわたしに、オダマキはナニも聞かなかった。熱心に手を揉むだけだ。
風が廊下の窓を揺する。
窓がきしきしと軋む。トリが鳴く。
リノリウムの廊下に、直に座っているお尻が冷たい。けれど前ほど寂しくはない。寒くはない。
タオルの下にいるからなのか、トリの声さえぼやけて聞こえる。これならコワくない。
涙は止まらないのに、タオルの下で、わたしは少しだけ満ち足りていた。
今のわたしは、こころゆくまで涙を流せる。
この日から、オダマキは千花ちゃんの病室で、わたしにもマッサージを施すようになった。
「ももちゃんの躯は、かったいなあ」
バカにするようにそう言いながら、ソファーに寝転ぶわたしの腕や足の関節部分を、オダマキはゆっくりと曲げていく。筋肉を揉みほぐす。
もし看護師さんに見つかったら、とがめられないのだろうか。
オダマキのしている行為は、どう考えても仕事の範疇を越えている。子どものわたしにだって分かる。分かっていながら、わたしはオダマキに問いたださなかった。
問いかけて、「じゃあ、ナシな」そう言われるのを恐れた。
勝手に二人の秘密として、守り通すことを決めた。
わたしはオダマキと過ごす秘密の時間を、杉先生にも言わなかった。
大好きな杉先生。
杉先生の前ではいつだって、良い子でいたい。その為に飲み込む言葉はたくさんあった。先生に言えない自分のなかの暴れ回る感情も、オダマキにならさらりと言えた。
「ママの意地悪」
「ママはわたし達を、いらないんだ」
「だったらわたしだって、ママなんていらない」
言ってもオダマキは驚かない。心配もしない。
けっけっけ。と笑いながら、「思春期だなあ。ももちゃん。青春だ」などと、バカな返答をする。そのいい加減さに、わたしは救われた。
後日。わたしは廊下で、看護師さん達の四方山話を耳にした。
オダマキに療法依頼をしたのは、ママだった。病院側の手配ではなかった。
もしかしてママはここから、ちょっとだけ逃げだしたくて、オダマキに千花ちゃんを託したのかもしれない。
そうだとしても、わたしはママを責められない。ここは静かで、なにもなくて、寂しい。病人だけの場所だもの。
黙って去ったママの事を、許せない気持ちはもちろんある。けれど同時に、すこしだけ感謝だってできる。
だってオダマキを紹介してくれた。
オダマキは千花ちゃんの躯を守ってくれる。わたしの心を癒してくれる。ママは、わたしを慰めくれなかったけれどオダマキは違う。「ももちゃん」と呼んで、まっすぐにわたしに向き合ってくれる。無視しない。
手を握ってくれる。
一緒におしゃべりをしてくれる。口喧嘩だってしてくれる。
オダマキの前にいるわたしは、悪い子でも良い子でもない。吉川百花という、ひとりの未熟なおんなの子でいられる。
ママがどうして出て行ったのか、考えても答えはでない。
よんどころない用事があるのか、ないのか。わたしには確認する術もないけれど、ママが戻ってくるまで、千花ちゃんと一緒にいようと決めた。
「ママ! なるべく早くもどって来てね! でないと、うんと悪口言っちゃうかもしれないから、絶対ぜったい戻って来てね!」
季節は春に向かっていた。
わたしは緑が日一日と濃くなっていく森にむかって、ここにはいないママへ届けと叫んだ。