「百三」 ママにわたしは見えていない
[ 百 三 ]
千花ちゃんが眠り姫になったのは、六歳の時だった。
あたたかな春の一日。
幼稚園の遠足でわたし達は、ちょっとだけ遠い公園へ向かった。ママもいっしょだった。
行きのバスのなかでは、マリカ先生の指示にしたがって、みんなで歌を口ずさんだ。
大好きなおかずしか詰められていないお弁当。
水筒のなかでよく冷えた麦茶。お楽しみのおやつ。
大勢のともだちは、ちいさな躯にあふれんばかりの興奮をつめこみ、はしゃいでいた。
わたしもそうだった。
前の日からすごくたのしみで、凄くすごく興奮していた。
ちいさなリュックサックに、荷物を入れては出してを繰り返した。もう寝なさいとママにたしなめられて、布団にはいってからも、よく眠れなかった。
そのせいか。いつもは車酔いなどしないのに、バスのなかで具合が悪くなってしまった。
公園にバスが着くと、待ちきれないとばかりに飛び出して行くおともだちを尻目に、わたしは木蔭にひかれたシートのうえで、ぐったりとしていた。
膝枕をしてくれているママの手が、わたしの背中を左右にさすっていった。
「しょうがないわねえ」
ママの優しい。やわらかな手の感触は心地ちよかったけれど、わたしは悔しい思いでいっぱいだった。
仲良しのおともだちは、目の前で盛大に遊びまわっている。公園にはカラフルな大型の滑り台を真ん中に、たくさんの遊具がある。ブランコ。ジャングルジムに、登り棒。またぐとゆらゆら揺れるユーモラスなどうぶつ達。
ゆるやかな起伏に飛んだ緑地帯には、季節の花々が咲き、大きな沼には、まっしろい白鳥のかたちをしたボートが、何艘も浮かんでいる。
たこのかたちの大型滑り台はことの外人気で、皆が我先にとてっぺんまでのぼっては、四方に別れた台のうえをすいすいと滑りおりて行く。
芝生のうえを、ただただ駆け回っている子ども達もいっぱいいた。
公園の一角では、おんなの子たちがシャボン玉を吹いている。わたしはシャボン玉遊びが大好きだった。
「ずるい。ずるい」
わたしはママの膝のうえで悔しがり、むずがった。
木蔭にはわたしとママしかいない。
一番なかよしだと思っていた、エリちゃんも。ハスナちゃんもいない。うるさいくらいに、ちょっかいをかけて来るシュン君もいない。
千花ちゃんさえいない。信じられない! 双子なのに。親友なのに!!
「ずるい。ずるいいいい」
ヒスをおこしかけたわたしへ、ママが麦茶をすすめてくれた。麦茶ごときでだまされるものかと、わたしは暴れた。
「いらない!」
ムキになって、躯を左右にぶんぶん振った。するとますます気分は悪くなる。口をとっさに抑えたわたしに、「ほらほら」ママが呆れながらも笑いかけた。
今思えば、ママがとても優しかった最後の思いでだ。
わたしがママを独占していた時間。
千花ちゃんはひとりで野原にいた。
わたしへのお見舞いのスミレの花束を作っていた。
スミレ。すかんぽ。たんぽぽ。ハコベラ。ぺんぺん草。可憐でちいさな花束を手に、千花ちゃんは戻って来た。ちょっとだけ眠そうな目をしていた。躯がふらふらとしていた。
「あらあら。ちいちゃん。はりきりすぎちゃったのかな?」
わたしの隣でシートに横たわった千花ちゃんにママが言った。
わたしの時とおんなじ。優しさのにじんだ声だった。
でもこの日からママの優しさは、ぱたりと見えなくなってしまう。
今だってママはおっかなくない。
わたしへ向かって、手をあげたりなどしない。ぶたれるくらい悪いことをした方が良いのかも、そう思ってしまうくらい、ママはわたしを無視している。
ママの優しさは、もうずっと、ママの奥のおくに隠れてしまってでてこない。
わたしはママの優しさが閉じ込められている場所を、夜ごとに想像する。
迷路のように入り組んで、なかなかたどり着けない場所に違いない。そこにママの優しさは、隠れている。
やさしさの形は、ハート型をしているはずだ。ピンク色で、ほわほわと柔らかいかもしれない。
わたしはママのやさしさを解放しようと、迷路をすすむのだけれど、敵があらわれる。針金の冠をかぶったママそっくりの番人だ。
番人のママは、目をつり上げて怒っている。
とても怖い顔をしている。手には針金でつくった槍をもっている。槍は細く頼りないけれど、近寄ると容赦なく侵入者の躯を刺しつらぬき、血を流させるだろう。
そうやって、ママは必死に自分の感情を隠している。そうしないと、息ができないくらい苦しいんだと思う。
近寄れるのは、眠り姫の千花ちゃんだけ。わたしじゃダメ。ママの気持ちを癒してあげられない。
わたしがママの心に近づこうとしたら、きっと痛い目にあう。怪我をするかもしれない。それともぴしゃりと閉め出されるかも。
そうなったらわたしは、どうすれば良いんだろう。考えれば考えるだけ。わたしはどんどん臆病になっていく。それで余計に、ママとの距離を感じてしまう。
ーーあなたのせいで。
ーーこんな事になったのよ!!
ーー返して。かえして。かえしてちょうだい。
ママはわたしを見つけると、追いかけ回す。槍でわたしを、ぐさぐさと刺していく。
ーーママの家族を。
ーーママの生活を。
ーーママの理想の人生を返してちょうだい。
怒りながらママは泣く。
ーー千花を返して。かえしてちょうだい。
つり上がった眦から、泪をポロポロ流している。わたしはその泪をふいてあげたい。なのにできない。
ママには、わたしは見えていないみたいだもの。
気がつくと、わたしの躯は透明になっている。そうか。わたしはお姫様じゃなくて、透明人間になっていたんだ。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。これじゃあママに、わたしは見えない。だから怒らない。優しくされない。無視される。わたしは自分の想像がコワくて、毛布をかぶって泣いてしまう。バカみたいだけど、しょうがない。
あの日。シートのうえで、うたた寝をはじめた千花ちゃんが、起き上がる事はなかった。
わたしが最期に千花ちゃんの声を聞いたのは、「うん。ママ」の一言だ。
眠りにつこうとしている千花ちゃんのおなかに、ママがタオルをかけた。そうして汗で湿っているおでこを、丁寧にハンカチで拭きながら、「起きたらお弁当たべましょうね」と声をかけた。千花ちゃんが応えた。
「うん。ママ」
けれど千花ちゃんは起きなかった。
お弁当も食べなかった。大好きなうさぎさんリンゴも。お花の形のウインナーもお弁当箱のなかに残ったまま、バスで家に運ばれた。
この時。千花ちゃんは、千花ちゃんじゃなくなっていた。誰もーーママも。マリカ先生も、想像もしなかった。千花ちゃんのやわらかな耳のなかを進んで行く侵入者に、気がつかなかった。
千花ちゃんはお花を積みながら、得体のしれないカタツムリに触れたのかもしれない。カタツムリが勝手に、躯を這い上ってきたのかもしれない。真実を語るものはいない。眠り姫からは、なにも聞きだせない。
けれどーー
もしわたしが車酔いをおこさなかったら。
もしママを独占していなかったら。
もし千花ちゃんを、独りぼっちにしていなかったら。そうしたら、いまも千花ちゃんは元気いっぱいの子どもとして、家族のなかにいたのかもしれない。
全部わたしの妄想だ。
ママは、わたしのせいだなんて言わない。パパは、わたしをキライだなんて言わない。
ぜんぶ思い過ごしかもしれない。
ママの内部には針金のバリケードなどない。手に針金を持って、追いかけて来たりしていない。わたしを責めてなどいない。
ママは以前のママのままだ。ただほんの少しだけ。疲れていたり。悲しかったりして、ほがらかなママになれないだけ。そうなのかもしれない。けれどそう思えないのは、わたしが自分で後ろめたさを抱いているからだ。
そうなんだよ、先生。
わたしはぐりんぐりん動かした椅子のうえから、杉先生を盗み見する。ここまでの話しができたのは、十歳の時だった。
先生の元に通いだしてから、すでに二年がたっていた。
わたしの話しを聞きながら、先生は万年筆のキャップをくるくる回す。これは先生の癖だ。気持ちが動いた時にでる。
わたしは多い時は週に何度も、診察室の扉をノックしていた。そうして大好きな先生の笑い方や目線の意味や、癖を覚えていった。きっと先生のまわりの看護師さんたちより、詳しいはずだ。だから先生がわたしの話しにもの凄く興味を示している、って分かる。
わたしは嬉しくて。だけれども、ほんの少しコワくなる。
話して嫌われたくなかったから、わたしは二年もだんまりを決めていた。先生から追い出されたら、次の居場所を見つけられる保証なんてない。けれどそんな心配は、しなくても良かった。
先生は熱心にきいてくれて、「それは百花さんのせいじゃないね」そう言ってくれた。
わたしは嬉しくうれしくて、椅子のうえでお尻でぴょんぴょん飛び跳ねたくなる。でも流石にそれは照れくさい。八歳ならできた仕草も十歳ではできない。
かわりに先生からもらったチョコを口にする。受け入れられた現実と、ちいさくて甘いアポロチョコが、ますますわたしを幸せにする。
「先生。話しを聞いてくれてありがとう」
至極まんぞくして、わたしは診察室を後にする。廊下の窓から見渡す景色さえ、輝いてみえる。
ジェー ジェー ジェエエエ。
しわがれ声が、山の狭間に響き渡る。
今日のわたしは声を耳にしても、寂しさなんて感じない。鼻歌を歌いながら、病室へ戻って行ける。